この素晴らしき福音

メッセージ

<ヘブル人への手紙 2章6~13節>
牧師:砂山 智 師

開会聖句

神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ、増えよ、地に満ちよ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地の上を這うすべての生き物を支配せよ。

<創世記 1章28節>

メッセージ内容


<序論>  
・私は5年ほど前にある講演会に出席しました。それは「我々は自然災害をどのように考えたらよいのか?」というテーマの講演会でした。講師の方は、後にMB牧師研修会にも来てくださり、「被造物管理の神学」について話してくださいました。後からその論文も読ませていただいたのですが、それまで「福音」というものを、「イエス様の十字架によって罪が赦され、天国に行けること」という極めて個人的で狭い世界で捉えていた私に、新たな視点を与えてくれるものでした。今日は「この素晴らしき福音」と題して、皆さんと一緒に見てゆきたいと願っています。

<本論>
1、神は災害も創造された?

毎年、12月に清水寺で今年の漢字というのが発表されますが、昨年は「災」でした。6月の大阪北部地震、9月の台風21号。我々信仰者は、自然災害をどのように考えたらよいでしょうのか?先程の講演会の冒頭で、講師の方は、1755年11月1日に起こった「リスボン大震災」を巡る論争から話を始められました。それは、この地震をきっかけとして、ヨーロッパにおいて自然災害について活発な議論が行われるようになったからです。リスボンというのはポルトガルの首都で、カトリックの大主教がいる町でした。おまけに、その大震災の日は、カトリックにとって最も重要な祭日「諸聖人の日(万聖節)」でした。午前9時40分、突然の激しい揺れがリスボン全体を襲います。市内のほとんどの建物(教会も含めて)が崩壊し、その影響で、町全体が火の海となります。そして、地震から90分後、15メートルもの巨大津波が押し寄せ、数度に渡る津波が多くの人の命を飲み込んでいったのです。当時のリスボンの人口は27万人ほどでしたが、そのうち、6万人近い人々が亡くなったそうです。この論争の背景には、中世の暗黒時代→ルネサンス→宗教改革→啓蒙思想という大きな時代の変化がありました。

2、リスボン大震災を巡る論争

まず、この大震災は、「神の裁き」であると主張する人々が出てきます。また、「終末論」と結びつけて論じる人々もいました。プロテスタントの教職者の中には、カトリックに対する神の裁きであると考えた人たちもいたそうです。そのような中で、ヴォルテールという哲学者は、「リスボン大震災についての詩」という題の詩を発表し、この地震がもたらした悲惨な現実を直視しろと訴えます。彼は、教会の聖職者たちが言うように、この世界は「神が造られた美しい世界」ではなく、また、ある哲学者が言うような「すべては善である」と言えるような世界でもないと論じます。とても悲観的です。彼は、以前から、迷信的で無意味な人殺しを繰り返す「異端審問」(例えば、「ガリレオ裁判」に代表されるようなもの)や、教会や聖職者たちの堕落に対して激しい怒りを抱いていましたので、この詩の背景には、彼のそんな思いもあったようです。そんな意見に対してジャン・ジャック・ルソーという人が反論します。「あんさんの気持ちも分かるけど、それはちょっと言い過ぎやおまへんか」ということで、彼は、神は、この世界を創造されるときに、考えられる限りの世界の仕組みの中から、最小の悪と最大の善とを結び合わせる世界を選択されたのであり、全体を維持するためには、個人のいくらかの幸福は犠牲にすることがある。つまり、「すべては善である」というよりも「全体は善である」と言うべきだと主張しました。要するに、白か黒かということではなく、白に近いグレーのような世界観ですね。また、ルソーは、この地震で特に被害が大きかった理由は、人々が都市の密集した地域や高層住宅に住んでいたことにもあったし、人々が財産に執着して、すぐに避難しようとしなかったということ、つまり人間のエゴにあったと指摘し、もし人々が分散して住んでいたら、火災などの被害もはるかに少なくてすんだはずだと述べています。そして、もう一人、インマヌエル・カントという人は、当時、新進気鋭の学者の一人でしたが、彼は「地震論」という論文を発表し、地震というものを、できるだけ科学的に説明しようと試みました。彼は、私たちが住んでいる地表の下には巨大な空洞があり、その空洞の中には高温のガスが充満しており、何らかの原因でその巨大な空洞が振動することによって地震が起きると考えました。それは、現代の科学(地震学)からすれば、幼稚で不正確な理論と言わざるをえませんが、カントは、地震を道徳的・宗教的なテーマから切り離し、無益な神学的な論争にすり替えないようにと警告したのです。そして、防災の重要性、災害に対する人間の側の責任も指摘しています。

3、信仰と科学

今、私たちは、2019年の日本で生かされていますので、そのような過去の論争も踏まえた上で、色々と考えることができるわけですが、講師の方は、そのようなテーマを神学的・信仰的に扱うためには、そもそも神が被造物世界を創造された目的は何だったのかというような問いかけから始めなければならない、と述べておられました。そしてさらに、神が被造物の中に定められた自然法則とはどのような性格のものなのか。或は、神はこの世界を創造されてから、そのような自然法則に、どのように関わってこられたのかということも忘れてはならないと。そして、その答えは、聖書のみことばから示されるだけでなく、自然そのものを観察し探究することによって、つまり、科学的な探求によっても示されるはずだと。確かに、現代に生きる私たちは、色々な科学の恩恵を、当然のこととして受けています。神を信じてはいますが、病気になれば病院に行って、現代の医学、それもできるだけ最先端の医学で治してもらおうとします。何か野菜などを作ろうと思えば、それに必要な科学的な知識を学んで、その知識を参考にして作ろうとしますよね。それが、地震のような話になると、とたんに話を超自然的な神の裁きに転化させてしまう。実に奇妙な話です。ですから、私たちクリスチャンは、聖書信仰に立ちながらも、地震学のような現代科学の学問的な成果も、もちろん受け入れなければならないし、その上で、防災・減災の観点から、自然災害の被害を最小限に食い止める努力をすべきであると思います。

4、へブル書2章のメッセージ

そして、実はそのことと、今日のテーマである「素晴らしき福音」とは、密接につながっているんです。「へブル人への手紙」2章6節をご覧ください。

『「人とは何ものなのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とはいったい何ものなのでしょう。あなたがこれを顧みてくださるとは。あなたは、人を御使いよりわずかの間低いものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせ、万物を彼の足の下に置かれました。」』(へブル2:6~8)。

これは、「詩篇」8章4節からの引用ですが、この箇所の『人の子』ということばは、元々、詩篇では、普通の「人間」という意味で使われていますが、ここでは「キリスト」を指す言葉として使われています。つまり、神のひとり子であったイエス様が、人となって私たちの世界に来てくださった。そして、十字架での死と復活を通して、万物、つまり、すべての被造物の支配者となられたということです。ところが、その後をご覧いただくと、

『神は、万物を人の下に置かれたとき、彼に従わないものを何一つ残されませんでした。それなのに、今なお私たちは、すべてのものが人の下に置かれているのを見てはいません。』(同2:8b)。

つまり、この手紙の著者は、そうは言っても、私たち、現実の生きている人間は、今なお万物を支配してはいない、と言うのです。そして、9節。

『ただ、御使いよりもわずかの間、低くされた方、すなわちイエスのことは見ています。イエスは死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠を受けられました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。』(同2:9)。

この節の前半で、再度、人となられたイエス様だけは別格だと宣言します。これは、先程お読みした8節の繰り返しとも言えますが、人となられたイエス様は、十字架での死と、その後の復活を通して、万物の支配者となられた(栄光と誉れの冠を受けられた)。そして、ここからが大切なんですが、

『その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです』

ということですね。そして、10節。

『多くの子たちを栄光に導くために、彼らの救いの創始者を多くの苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の存在の目的であり、また原因でもある神に、ふさわしいことであったのです。』(同2:10)。

この箇所の『栄光』とは何でしょう?私たちの罪が贖われ、死後には天国に行けるということだけでしょうか?もちろん、それも大切ですが、この手紙の著者は、それ以上のことを言おうとしているように思えます。それは、9節の『栄光と誉れの冠』と同じく、イエス様が万物の支配者となられたように、私たち一人一人も、イエス様と共に万物を支配するという栄光と誉れの冠を受けたということではないでしょうか。それは、今日の開会聖句の「創世記」に記されているように、元々、人間が造られた時に命じられた、「すべてのものを支配するように」という、すべての被造物に対する人間の支配権が回復されたということだと思います。ただ、人間には、支配よりも「管理」と言ったほうが相応しいでしょう。11節には、

『イエスは彼らを兄弟と呼ぶことを恥とせずに』

とあります。「兄弟」というのは、当たり前ですが他人ではなく、相続権があります。あのパウロも、「ローマ人への手紙」の中で、次のように言っています。

『子どもであるなら、相続人でもあります。私たちはキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているのですから、神の相続人であり、キリストとともに共同相続人なのです』(ローマ8:17)。

そして、その少し後で、イエス・キリストは私たちの『長子(長男)』(同8:29b)となられたと述べています。

<結論>
それでは、聖書の言っていることはそうだとして、私たちが、具体的に、その栄光と誉れの冠と呼ばれているように被造物を管理するためには、どのようにすればよいのでしょうか?ここで、まず覚えたいこと、大切なことは、すべての被造物という「すべて」には、自然や動物だけでなく、「人間」自身も含まれているということです。私たちは、自然や動物だけではなく、同じ人間をも管理する(管理し合う)ようにと命じられているのです。そのことを頭に置いた上で、次のイエス様のことばをご覧ください。

『そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められている者たちは、人々に対して横柄にふるまい、偉い人たちは人々の上に権力をふるっています。しかし、あなたがたの間では、そうであってはなりません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです』(マルコ10:42~45)。

それまで弟子たちは、自分こそ人の上に立ちたい、支配する者になりたい、イエス様に従っていれば、きっとそのようになれるだろうと、そんなことばかり考えていたのですが、そんな彼らに対して、イエス様は、あなたがたが人を支配したいのであれば、皆に仕える者、しもべになりなさいと言われたんです。私たちは確かに、キリストの弟、共同相続人として、人間をも含めた万物を管理するようにと命じられてはいますが、そのやり方は、この世のやり方と全く違います。イエス様がそうであったように、仕える者、しもべとなることによって、それは実現されなければならないのです。(環境保護・隣人愛)。
そして、最後に、そうは言いましても、現実の世界は厳しいです。あなたは神からすべての被造物を管理する者として召されていると言われても、そんな壮大な夢みたいな話、目の前の現実を見れば、とても信じられないと思ってしまいますし、こんな自分に、一体何ができるのかと落ち込んでしまうことも多いと思います。講師の方も、正直に、自分の弱さと言いますか、無力さを痛感させられることが多い、と認めておられました。ただ、パウロは次のように言っています。

『同じように御霊も、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、何をどう祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです。』(ローマ8:26)。

私たちにも、何をどう祈ったらよいのか分からない時があります。その時は、御霊の助けを求めましょう。

『なぜなら、御霊は神のみこころにしたがって、聖徒たちのためにとりなしてくださるからです。』(同8:27b)。

メッセージ内容のダウンロード(PDF132KB)

新聖歌


メッセージ後:141番

特別讃美

 フルート演奏 Y.Y兄、ピアノ伴奏 T.N姉
「メヌエット」 ベートーベン作曲
「ああお母さんあなたに申しましょう」の主題による変奏曲 モーツァルト作曲

聖書交読

詩篇 146篇 1~10節

2019年教会行事

6月5日(水)オリーブ・いきいき百歳体操

#51-2662

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