御子にあって語られる福音

メッセージ

<へブル人への手紙 1章1~14節>
メッセージ:牧師:砂山 智

開会聖句

ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折りにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。

<へブル人への手紙 4章16節>

メッセージ内容

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メッセージ原稿を公開しました。家庭での礼拝に用いてください。  
<序論>  

・新約聖書の手紙の多くはパウロが著者とされています。また、それ以外の手紙もそれぞれ著者は特定されていますが、唯一、この手紙だけ著者は不明とされています。色々な説はあるみたいですが…。ただ、ここで使われているギリシア語は、新約聖書の書簡の中でも特に見事で美しいことから、この手紙の著者はかなりの教養人と言うか、ギリシア語に精通した人で、もちろん旧約聖書にも精通した人であったということは言えると思います。一方、この手紙の宛先(想定されている読者)なんですが、それは内容から見て、ユダヤ教から改宗してクリスチャンになったユダヤ人ではないかというのが伝統的な解釈です。ですから「へブル人への手紙」と呼ばれているわけですが、厳しい迫害が続いたことで、それらの人たちの中から、以前の信仰(ユダヤ教)に戻ろうとする人が出て来たということが、この手紙が書かれた背景としてあったみたいです。ということで、この手紙では、特に、ユダヤ教、古い契約と言ってもいいと思いますが、それらと、キリスト教、新しい契約とを比べて、後者のほうがはるかに優れているということが述べられます。そして、今朝の箇所もそうですが、そのことと関連して、各所で「キリスト論」が論じられているということも、大きな特徴と言えるでしょう。

<本論>
1、御使い礼拝

先程、読んでいただいた1節にあった『御子』というのは、もちろん、神の子キリストのことです。この手紙の著者は、冒頭で、この終わりの時代に、御子にあって私たちに語られたと述べます。さらに2節で、御子は万物の相続者であり、創造者でもある、と。そして、次の3節では、御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられ、大いなる方の右の座に着かれた、と述べています。その後の4節以降では、『御使い』に焦点が当てられます。所謂、「天使」のことですが、聖書のギリシア語では「使者」を意味する「アンゲロス」ということばが使われています。ガブリエルやミカエル、或はサタンも、元は天使であったと聖書は記しています。新約聖書の時代には、それぞれの守護天使というものが信じられていたみたいです。カトリックや正教会では今でもそうかもしれませんが、「コロサイ人への手紙」2章18節で、パウロは、

『自己卑下や御使い礼拝を喜んでいる者が、あなたがたを断罪することがあってはなりません。彼らは自分が見た幻に拠り頼み、肉の思いによっていたずらに思い上がって、かしらにしっかり結びつくことをしません』(コロ2:18~19a)

と述べ、御使い礼拝を否定しています。御使いは神に仕える超自然的・霊的な人格的存在ですが、もちろん神ではありませんし、私たち人間と同じ被造物に過ぎず、礼拝されるべき存在ではないのです。「へブル人への手紙」の著者も、先程読んでいただいた箇所の最後、1章14節に書いている通りです。

2.御子にあって

さて、今朝のメッセージの題は、「御子にあって語られる福音」とさせていただいたのですが、それでは、御子にあって語られるとはどのような意味なのでしょうか?それは、神は、御子イエス・キリストをこの世にお遣わしになるほど、この世を、私たち一人一人を愛された、ということに尽きると思います。ですから、現実の世界でたとえどんなことが起ころうとも、私たちは、そのことから神のみこころを知るのです。けれども、日々の暮らしの中で、どうも神の愛が、みこころが分からなくなったという思いを抱く時もあるかもしれません。私は今62歳なんですが、61歳を過ぎてから身体の不調を覚えることが急に増えて、中高年鬱ではないかと思う時もあるんですが、そのように次から次へと問題が起こって来る時、人は一層そんな思いに駆られるのではないかと思います。しかし、ある方は次のように書いておられました。神の語りかけを聴くとは、どんな事柄―直接神と連ならないどのような具体的なことが起きても、それが「神は愛である」として現実を包んでいくことである。また、とかしてしまうことである、と。それは本当に容易いことではありません。しかし、そういうことがとけていかないとか、信仰と生活が別々にあるとしたら、それは信仰とは言えないのではないでしょうか。

3. キリストの神性と人性
今朝のテキストに戻りましょう。この後、この手紙の著者はイエス様を旧約の大祭司になぞらえて語ります。少し飛びますが、4章14節をご覧ください。

『さて、私たちには、もろもろの天を造られた、神の子イエスという偉大な大祭司がおられるのですから、信仰の告白を堅く保とうではありませんか』(へブル4:14)。

今、読んだ中に、神の子イエスという偉大な大祭司とありましたが、神の子という呼び名は、既に1章の初めで見たように、イエス様は父なる神と等しい権威を持っておられる方であるということを意味し、神学のことばでこれを「キリストの神性」と言います。また、神の子イエスのイエスという名前は「キリストの人性」を表していると言うことができます。ただ、イエス様は、私たちと同じ人間が神となられたのではなく、真の神が人となられた、そのような方です。まさに、今朝の開会聖句の一つ前、4章15節にある通りです。

『私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みに会われたのです』(同4:15)。

このみことばは私たちにとって、本当に素晴らしい慰めと励ましに満ちたみことばではないかと思います。
この前の金曜日に有志早天祈祷会がオンラインで行われ、大阪セントラルグレースの酒井啓師がみことばのご用をしてくださったんですが、「Ⅰコリント」1章後半から、私たちは自分の弱さや愚かさを人に見せること、知られることをとても恐れる。人からそんなことを指摘されると、つい「だって~」と言い訳をしてしまう、そんな者です。しかし、神が選ばれ、用いようとされたのは、この世の知恵ある者、力ある者ではなく、愚かな者、弱い者であると。「Ⅰコリント」1章31節に、

『「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです』(Ⅰコリ1:31)

とありますが、まさにその通りですね。

<結論>

もし、イエス様が、ご自分の力、権威を振りかざすだけの恐ろしい裁き主であったなら、どうでしょうか?私たちは誰一人としてその御前に立つことも、近づくこともできないでしょう。しかし、あの十字架の上で死んでくださった方はそうではありません。私たちの弱さ、愚かさに同情してくださる、思いやってくださる方だと、この手紙の著者は言っています。それが、今朝の開会聖句の「恵みの御座」の意味するところではないでしょうか。

『ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか』(へブル4:16)。

私たちは、ともすれば、「自分は不信仰な者で」と、口先だけで謙遜を装うとしますが、御子にあって語られる福音とは、そんな偽善的なことではなく、私たちが、自らの弱さ、愚かさをそのままで、大胆に恵みの御座に近づこうとする時、神は必ず助けてくださるという福音、良い知らせのことだと、私は思います。

メッセージ内容のダウンロード(PDF93KB)

新聖歌

開会祈祷後:190番、メッセージ後:341番

聖書交読

詩編104篇 1~12節

2022年教会行事

7月6日(水)オリーブ・いきいき百歳体操(10時~11時)

#54-2823

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