巻物を食べた預言者

メッセージ

<エゼキエル書 2章1節~3章3節>
牧師:砂山 智 師

開会聖句

そして言われた。「人の子よ。わたしがあなたに与えるこの巻物を食べ、それで腹を満たせ。」私がそれを食べると、それは口の中で蜜のように甘かった。

<エゼキエル書 3章3節>

メッセージ内容


<序論>  
・「エゼキエル」とは「神が強くする」という意味です。本書には、エゼキエルという人に啓示された神のことばや幻が記されていますので、「エゼキエル書」と呼ばれています。今日は、そのエゼキエルに示された神様からの召命(Calling=神様の働きのために呼び出される)について、共に見てゆきたいと願っています。

<本論>
1、自分の足で立て

旧約聖書では、「エゼキエル書」は、その前の「イザヤ書」「エレミヤ書」と並んで三大預言書の一つとされています。「ダニエル書」も含めて、四大預言書と言う場合もあります。ユダヤ教では、「ダニエル書」は「黙示文学」とされていますが、この「エゼキエル書」にも多くの黙示的な表現(幻)が出てきます。今日は読みませんでしたが、1章には

『生きもののようなものが四つ現れ、その姿は~』

という幻が出てきます。「黙示文学」というと、新約聖書の最後にある「ヨハネの黙示録」が有名ですが、この「黙示文学」について、辞書では次のように説明されていました。「後期ユダヤ教と原始キリスト教で発達した終末論的色彩の濃い一群の文書。神によって開示された秘密を幻の中の怪奇な動物などの象徴を用いて報告する」(大辞林)。そのような表現方法が用いられた理由の一つは、誰でも分かるようなストレートな表現を避けることによって、時の権力者からの迫害や弾圧を受けないようにするということがありました。例えば「ヨハネの黙示録」には、七つの封印で封じられた巻物とか、様々な怪奇な動物のような幻が出てきます。ヨハネは、それらの幻を通して、当時、クリスチャンを迫害していたローマ帝国に対する裁きを示され、さらに後の時代の出来事をも啓示されるわけですが、そのような時代背景を抜きにして、「黙示文学」というのは読み解けないと思います。それでは、この「エゼキエル書」の背景には、何があったのでしょうか?それは、「バビロン捕囚」という出来事です。「新バビロニア帝国」は、今のサウジアラビアの上半分とイラク、パレスチナ一帯を領土とした、古代オリエントの大帝国でした。紀元前597年、今から2600年前の話ですが、エゼキエルの祖国ユダはバビロンに降伏します。「バビロン捕囚」というのは、計3回(或いは4回)の出来事を総称して、そのように呼ばれているのですが、その第一回目が紀元前597年です。昨年の11月に「エレミヤ書」からお話しさせてもらいましたが、エレミヤもエゼキエルも、この「バビロン捕囚」という国家的な悲劇の時代に立てられた預言者であり、祭司でした。ただ、その活動した場所や時代は異なっています。エレミヤが活動した場所は、主にエルサレムでした。それに対して、エゼキエルが活動した場所は、バビロンだったんです。彼自身、捕囚の民として、先程お話しした第一回目の捕囚の際に、王や多くの指導者たちと共に、バビロンに連れて行かれるんですね。その時、エゼキエルは二十代半ばであったと思われます。そして、彼が住まわされたのは、ケバル川のほとりにあったテル・アビブというユダヤ人居留地でした(1:1、3:15)。
さて、今日のテキストですが、1章で不思議な幻を見せられたエゼキエルに、神様は次のように語りかけられます。

『「人の子よ、自分の足で立て。わたしがあなたに語る。」』(エゼキエル2:1)。

前の「新改訳聖書【第三版】」では、次のように訳されていました。

『「人の子よ。立ち上がれ。わたしがあなたに語るから。」』(同2:1)。

「人の子」というと、イエス様がご自分のことを指してそのように言われたことを思い浮かべる方も多いと思いますが、旧約の中では、「人の子」というのは、預言者、或いは、神様から愛された子という意味で使われています。
神様は、エゼキエルよ、今、お前は、捕囚の民、奴隷の状態にあるかもしれないが、そこから立ち上がれ。わたしがあなたに語るから、と言われたんですね。あなたは、いかがでしょうか?今朝、聖書のことばを、ご自分に語られたことばとして聞いておられるでしょうか?それは、エゼキエルのような立派な信仰が無ければ、とてもできることではない、と思ってはいないでしょうか?そんなことはないと思います。あの、新約聖書の「使徒の働き」3章に出てくる、生まれつき足の不自由な人はどうだったでしょうか?彼は、毎日、人に運ばれて「美しの門」と呼ばれているところに置いてもらい、物乞いをして生きている人でした。ペテロとヨハネがそこを通りかかった時も、

『彼は何かもらえると期待して、二人に目を注いだ』(使徒3:5)

んです。しかし、ペテロとヨハネから

『「金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい』

と言われた時に、彼は立ち上がりました。それは、彼の信仰が立派だったからでしょうか?そうではないと、私は思います。みことばを聞いた時、みことばに出会った時に、それが自分に語られたことばであると受け止め、そのみことばに賭けてみようと思ったから、彼は立ち上がることができたのです。「ヤコブの手紙」1章21節に、

『みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます』

とあります。聖書のみことばは、道徳のことばではありません。私たちを自分の足で立ち上がらせることばであり、私たちのたましいを救うことばなんですね。

2、聞く聞かないに関わりなく

『「人の子よ。わたしはあなたをイスラエルの民に、わたしに反抗する国民に遣わす。彼らもその先祖たちも、今日までわたしに背いてきた。彼らは厚かましく、頑なである。』(エゼキエル2:3~4a)。

今、あなたを遣わそうとしている先、イスラエルの民は、わたしに反抗する国民、厚かましく、頑なであると、神様は言われます。その後、8節まで、繰り返し出てくることばは、

『反逆の家』

です。イスラエルは選ばれた民族、神様に特別に愛された民であったはずなんですが、今や反逆の家となってしまった。その神様の怒りと裁きとが、この「バビロン捕囚」という出来事の根底にあるわけですが、ここで、もう一つ、繰り返されていることばがあります。それは、

『聞く聞かないに関わりなく』(同2:5,7)

ということばです。神様は、これからあなたに授けようとしていることばは、彼らを喜ばせるような、心地よいものではない。10節のことばを借りて言うなら、

『嘆きと、うめきと、悲痛が』

記されている、恐ろしい裁きのことばである。だから、彼らは、きっとあなたのことばを聞き入れないだろう、と言っておられるんですね。
この時点では、ユダ(イスラエル)の都エルサレムは健在でした。先程、申し上げましたように、紀元前597年に、ユダはバビロンに降伏し、王を始めとして指導者層の多くは捕囚として連れて行かれるんですが、その後、また別の傀儡の王が立てられ、エルサレムも破壊されずに済みます。しかし、その12年後に、カタストロフィ(大惨事・破滅)が訪れます。紀元前586年、エルサレムは、バビロンによって徹底的に、跡形もなく破壊され、国が完全に滅びてしまうんです。そのことを、私たちはもちろん知っていて、この「エゼキエル書」を読んでいるわけですが、エゼキエルはどんな思いで神様のことばを聞いたのかなぁ、と思ってしまいます。この少し前の時代に活動したエレミヤもそうでしたが、自分の祖国が完全に滅ぼされるということを、人々が聞き入れないということを予見しつつも語らねばならない。ある聖書学者は、そのことについて、「いわば語ることが意味を失うような限界点で、彼は語るのである。問われていることは、正しく神のことばを伝えているかどうかである」と書いておられました。「問われていることは、正しく神のことばを伝えているかどうか」。牧師である自分には、我が身を振り返らされることばです。

<結論>

そして、今日のメッセージのタイトルとさせていただいた、「巻物を食べた預言者エゼキエル」なんですが、旧約聖書には多くの預言者が登場します。しかし、このような表現で、神様のことばを授けられた預言者というのはエゼキエルただ一人です。そして、エゼキエルが食べた巻物、

『それは表にも裏にも文字が書かれていた。そこに嘆きと、うめきと、悲痛が記されていた』(エゼキエル2:10)

んです。通常、巻物の表にも裏にも文字が書かれているということはないと思います。これは、その巻物が、嘆きと、うめきと、悲痛に満ちていた、ということを表しているのではないでしょうか。しかし、エゼキエルがその巻物を食べた時、

『それは口の中で蜜のように甘かった』

んです。それは、どうしてでしょうか?
今回の説教を準備していて、このことばで悩みました。いくつかの註解書を読んでみても、ピンとくるものがなくて・・・。ただ、ある料理のサイトを見ていた時に、興味深いことを見つけました。そこには、「苦味の活用」という表題で、今、一流レストランでは、あえて苦味を際立たせた皿がアクセント的に供されているということ。そして、苦味は毒物のシグナルだが、学習次第でおいしくなるということで、次のように書かれていました。
「「苦い!」と聞いて、「おいしそう」と思う人は少ないだろう。それもそのはず、甘味、塩味、酸味、うま味と共に味覚を代表する5基本味の一つである苦味の多くは、本来、毒物である可能性を示唆するシグナル。つまりは「食べてはダメ!」「避けて!」という、合図を送っているのである。農学博士の川崎寛也先生によれば、この毒物のシグナルを逃さず感じられるように、ヒトの舌にある苦味を感じるセンサー(受容体)は、なんと25種類。5基本味の中でもズバ抜けて多い。ちなみに、塩味・酸味は2種類、甘味は1種類、うま味は3種類しかない。たくさんのセンサーを駆使することで、ヒトは5基本味の中で最も種類が多いと言われる苦味成分に、多様に対応しているのだ。さらに苦味は、非常に薄くとも感知可能。甘味の1000分の1の濃度でも感じられる。毒物から身を守るためとはいえ、ヒトの身体はうまくできているものだ。人間以外に苦いものを食べる動物は少なく、赤ちゃんや子どもも苦味を嫌う。ところが、苦味は成長と共に繰り返し経験することで、おいしく感じられるようになるのだ。仕事終わりの冷えたビール、ほっと一息のコーヒーはその好例だ。ただ、ここに至るまでには、苦味に触れる頻度やその種類、さらには危険を味覚以外で判断できるようになるなどの経験値が必要。だからこそ、山菜やダークチョコなど苦味成分が含まれるものは、味覚が発達してから分かる “大人の味”と言われるのだ。」(「あまから手帖」より)。
この一文を読んで、私は、エゼキエルが食べたという巻物の味、つまり、神様のことばも同じだったのではないかと思わされました。それは、単純な、お子ちゃまの甘さではなく、人生における、嘆きと、うめきと、悲痛を味わった大人だけに分かる“大人の味(甘さ)”ではなかったかと。

メッセージ内容のダウンロード(PDF119KB)

新聖歌

開会祈祷後:433番、
メッセージ後:41番

聖書交読

箴言 1章1~19節

2019年教会行事

7月17日(水)オリーブ・いきいき百歳体操

#51-2667

One comment to this article

  1. mb-senri_web

    on 2019年7月16日 at 2:47 PM -

    今回、メッセージで引用のあった、「苦味」の情報は、以下に詳しいです。
    ぜひ、日々の食卓にも応用可能ですから、ご参考に!
    料理理科 第10限 苦味の活用(あまから手帖)
    https://www.amakaratecho.jp/ryouririka/10

    野菜などの苦味は、自身を捕食者から守るために備わっているようで、
    その成分が、抗がん剤をはじめとする薬などに応用されているのも凄いですね。
    神さまのデザインの素晴らしさを感じます。by:Webサイト管理者