永遠の契約

メッセージ

<エゼキエル書 16章1節~13節>
牧師:砂山 智 師

開会聖句

だが、わたしは、あなたが若かった日々にあなたと結んだ契約を覚えて、あなたと永遠の契約を立てる。

<エゼキエル書 16章60節>

メッセージ内容


<序論>  
・「エゼキエル書」からの三回目です。前回もお話ししたように、「エゼキエル書」には幻による啓示の場面が多く出てきます。そして、もう一つ、本書に特徴的なのが、象徴的表現です。抽象的な概念を、より具体的な物事や形によって表現することを言います。例えば、ハトは平和の象徴とされていることなどですね。「エゼキエル書」には、幻と共にそのような表現が余りにも多いので、聖書学者の中には、エゼキエルという人には精神に障害があったのではないか、と考える人までいるそうです。そして、今日の16章は、その象徴的表現の代表例と言えます。一人の罪深い女性の姿が堕落したエルサレムの象徴とされ、その罪のゆえに滅びなければならない存在であるということが示されます。そして、それでもなお、真実の愛をもってその女性を愛し続けておられる神の姿が描かれているのです。

<本論>
1、ねたみの神

『神である主はエルサレムについてこう言われる。あなたの出身、あなたの生まれはカナン人の地、あなたの父はアモリ人、あなたの母はヒッタイト人であった。』(エゼキエル16:3)。

カンナ人、アモリ人、ヒッタイト人というのは、イスラエル民族ではない、土着の人々ということです。この女性(エルサレム)は、元々、“聖なる地”と呼ばれるような生まれではなかった。ただ、ひとえに、神の選びによって、神様がそうされたから、“聖地”と呼ばれているに過ぎないのだ、と言っておられるんですね。
今、日本のアニメファンの間で「聖地巡礼」ということが盛んに行われているそうです。殆どの人にとっては何の変哲もないような場所であっても、そこに何か特別な物語を見出した人にとっては、そこは“聖地”なんですね。

話を元に戻したいと思いますが、確かに、エゼキエルの時代には、エルサレムは聖なる都、永遠の都と呼ばれていました。そこに住む人々は誇りを持ち、自分たちは特別な国民だと高をくくっていたと思います。しかし、それは、彼らの全くの思い違いであって、あなたがたは、自分にはそれだけの価値がある、愛される価値があると高慢になり、自らの欲望のおもむくまま、他の男性(神々)の下に走って行った、と神は言われるのです。
15節には、そのことが強烈なことばで表現されています。

『ところが、あなたは自分の美しさに拠り頼み、自分の名声に乗じて姦淫を行い、通りかかる人がいれば、だれにでも身を任せて姦淫をした。』(同16:15)。

「可愛いさ余って憎さ百倍」という言葉がありますが、その前の14節までのことばと、この15節以降に書かれていることばとの対比は、神様の愛の激しさ、深さを表しているのではないでしょうか。

「出エジプト記」20章4~6節で、神は次のように言われました。

『あなたは自分のために偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、いかなる形も造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたみの神。わたしを憎む者には父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである』(出エジプト20:4~6)。

神様は、ご自分のことを『ねたみの神』と呼ばれたんです。何度読んでも引いてしまうと言いますか、マイナスイメージを持ってしまう方もおられるでしょう。何しろ英語では「ジェラシー」ですから。ただ、新共同訳聖書は、このことばを、「わたしは熱情の神である」と訳していました。面白い訳ですね。この訳には賛否両論あるようですが、神は、燃えるような愛、熱い情熱であなたを愛しておられるということです。それが聖書の示す神の愛であると。

2、すすり泣く神

「エゼキエル書」の一つ前に「哀歌」という書簡がありますが、その3章に、次のようなみことばがあります。

『主は、私には待ち伏せる熊、隠れたところにいる獅子。主は私を道から外れさせ、私を引き裂き、無残な姿にされた。弓を引き絞り、私を矢の的のようにして、矢筒の矢を、私の腎臓に射込まれた』(哀歌3:10~13)。

この「哀歌」も、バビロン捕囚を嘆いて歌ったものだと言われています。この作者は、神の裁きを、「(主は)矢筒の矢を、私の腎臓を射込まれた」と表現しています。自分は神の手によって責められ、神の裁きによって瀕死の状態にされたのだ、と嘆いているのです。そして、少し飛びますが、17節をご覧ください。

『私のたましいは平安から見放され、私は幸せを忘れてしまった。私は言った。「私の誉れと、主から受けた望みは消えうせた」と。私の苦しみとさすらいの思い出は、苦よもぎと苦味だけ。私のたましいは、ただこれを思い出しては沈む』(同3:17~20)。

この最後にある

『私のたましいは、ただこれを思い出しては沈む』

と訳されているヘブル語の原語は、本来「身体に覆いかぶさって嘆く、すすり泣く」という意味に訳さなければならないことばだそうです。これは、東京神学大学の元学長で、新共同訳聖書の翻訳、編集にも携わられた左近淑(さこんきよし)という方が書いておられた解説です。日本語だけでは想像もつきませんが、聖書の翻訳というのは本当に難しい作業だと思わされます。それでは、一体、誰が誰に覆いかぶさって、すすり泣いたのでしょうか?それは、主、つまり、神が、私に覆いかぶさって、すすり泣いたということです。この私を裁き、致命傷とも言えるような深い傷を負わせた神が、私に覆いかぶさって、すすり泣いておられる。全く、理不尽で、理解できないようなことばです。
私の古くからの友人である長尾優氏は、このことについて、次のように書いておられました。

「なんというむちゃくちゃな神だろう。こんな絶対者を、人はどうやってそのまま信じたり、受け入れたりできるだろうか。ますます混乱し、辻褄が合わなくなってしまった。でも、なぜだか嬉しかった。(中略)。聖書の神が、取り澄ましていて遠くから静観し、人が恭順を示すなら受け入れようという醒めた理知の神であるなら、彼は果て知れず遠い。でも、人間を的にして矢を射て腎臓を打ち抜くほどに苦しめ、その矢を投げ打って、駆け寄って、覆いかぶさって、亡骸を抱きかかえてむせび泣く神でもあるなら、彼はあらゆる意味で近く、熱い。」

<結論>

長尾氏は、そのように、自分の腎臓を打ち抜いた後、駆け寄り、覆いかぶさって、むせび泣く神の姿に、熱い、熱情の神を見出したんですね。
そのような熱い、熱情の神は、時が満ちて、あるひとりの方を送ってくださいました。それが、イエス・キリスト。ご自身のひとり子です。
本日の開会聖句をご覧ください。

『だが、わたしは、あなたが若かった日々にあなたと結んだ契約を覚えて、あなたと永遠の契約を立てる』(エゼキエル16:60)。

この永遠の契約を立てるために来てくださった方がイエス様です。イエス様のご生涯を見れば、私たちにも神様の熱い愛が分かります。

『こうして、わたしが、あなたの行ったすべてのことについてあなたを赦すとき、あなたはそれらを思い出して恥を見、もう自分の恥辱のために口を開くことはない―神である主のことば』(同16:63)。

イエス様の十字架によって、あなたのすべての罪は赦され、もう、あなたはそれを思い出して恥を見ることもなく、嘆くこともない、と主は言われるのです。
今朝、皆さんと共に、この素晴らしい神の恩寵、イエス様のことを想い、心から讃美したいと思います。

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新聖歌


メッセージ後:382番

特別讃美

 ピアノ演奏 N.T姉
「マジェスティ」
「一羽のすずめに」

聖書交読

箴言 6章16~35節

2019年教会行事

8月7日(水)オリーブ・いきいき百歳体操

#51-2668

One comment to this article

  1. mb-senri_web

    on 2019年8月8日 at 9:56 AM -

    Web管理人の体調不良により、メッセージの掲載処理が遅れ、大変申し訳ございませんでした。