いのちの息[中止:家庭礼拝対応版]

新型コロナウイルス感染拡大により、政府から「緊急事態宣言」が発せられていることを受け、当教会も社会的責任を果たす意味で、5月3日(日)まで礼拝を休止します。
本ページ内容は家庭礼拝に対応しています。

メッセージ

<エゼキエル書 37章1~14節>
牧師:砂山 智 師

聖書箇所 エゼキエル書(新改訳2017版より引用)

37:1 主の御手が私の上にあった。私は主の霊によって連れ出され、平地の真ん中に置かれた。そこには骨が満ちていた。
37:2 主は私にその周囲をくまなく行き巡らせた。見よ、その平地には非常に多くの骨があった。しかも見よ、それらはすっかり干からびていた。
37:3 主は私に言われた。「人の子よ、これらの骨は生き返ることができるだろうか。」私は答えた。「神、主よ、あなたがよくご存じです。」
37:4 主は私に言われた。「これらの骨に預言せよ。『干からびた骨よ、主のことばを聞け。
37:5 神である主はこれらの骨にこう言う。見よ。わたしがおまえたちに息を吹き入れるので、おまえたちは生き返る。
37:6 わたしはおまえたちに筋をつけ、肉を生じさせ、皮膚でおおい、おまえたちのうちに息を与え、おまえたちは生き返る。そのときおまえたちは、わたしが主であることを知る。』」
37:7 私は命じられたように預言した。私が預言していると、なんと、ガラガラと音がして、骨と骨とが互いにつながった。
37:8 私が見ていると、なんと、その上に筋がつき、肉が生じ、皮膚がその上をすっかりおおった。しかし、その中に息はなかった。
37:9 そのとき、主は言われた。「息に預言せよ。人の子よ、預言してその息に言え。『神である主はこう言われる。息よ、四方から吹いて来い。この殺された者たちに吹きつけて、彼らを生き返らせよ。』」
37:10 私が命じられたとおりに預言すると、息が彼らの中に入った。そして彼らは生き返り、自分の足で立った。非常に大きな集団であった。
37:11 主は私に言われた。「人の子よ、これらの骨はイスラエルの全家である。見よ、彼らは言っている。『私たちの骨は干からび、望みは消え失せ、私たちは断ち切られた』と。
37:12 それゆえ、預言して彼らに言え。『神である主はこう言われる。わたしの民よ、見よ。わたしはあなたがたの墓を開き、あなたがたをその墓から引き上げて、イスラエルの地に連れて行く。
37:13 わたしの民よ。わたしがあなたがたの墓を開き、あなたがたを墓から引き上げるとき、あなたがたは、わたしが主であることを知る。
37:14 また、わたしがあなたがたのうちにわたしの霊を入れると、あなたがたは生き返る。わたしはあなたがたを、あなたがたの地に住まわせる。このとき、あなたがたは、主であるわたしが語り、これを成し遂げたことを知る──主のことば。』」

開会聖句

神である主は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった。

<創世記 2章7節>

メッセージ内容


<序論>  

エゼキエル

ラファエロ・サンティの「エゼキエルの幻視(フィレンツェのピッティ宮殿蔵)」

昨年の7~8月にかけて、「エゼキエル書」の前半(1~32章)から話をさせてもらいましたが、今回は後半(33~48章)からになります。「エゼキエル書」は旧約の大預言書と呼ばれているものの一つで、「バビロン捕囚」という古代イスラエルの国家的悲劇を背景として書かれた書簡です。その特徴の一つは、幻による啓示です。今日の箇所もそうですが、神はエゼキエルに様々な幻を見せ、それらの幻を通してご自身の御心を示そうとされるのです。また、内容的には、ほぼ年代順に書かれており、大きく分けると三つの時代に区分することができます。1~24章までは、バビロン軍がエルサレム包囲する前(前期)の預言。年代で言うと紀元前587年までになります。続く25~32章まではエルサレム包囲中(中期)の預言。そして、今回、取り上げる33~48章までは、エルサレム陥落後(後期)の預言ということになります。
紀元前597年、エゼキエルの祖国ユダ(イスラエル)はバビロンに降伏します。ただ、この時点では、まだ都エルサレムもソロモンの神殿も健在でした。通常、「バビロン捕囚」というと、紀元前586年のエルサレム陥落、ソロモン神殿の破壊を指して言う場合が多いのですが、細かく見ると、紀元前597年を第1回目として、計3回(或いは4回)、バビロンによる捕囚が行われたということが分かります。エゼキエルは元々、エルサレムに住んでいた祭司でしたが、この第1回目の捕囚の際に捕囚民として王や指導者たちと共にバビロンに連れて行かれたのです。その時、エゼキエルは二十代半ばであったと思われます。そして、彼が住まわされたのは、バビロンのケバル川のほとりにあったテル・アビブというユダヤ人居留地でした。

<本論>
1、干からびた骨

多くの方は、「エゼキエル書」というと、真っ先にこの37章の場面を思い浮かべるかもしれません。今、神は再びエゼキエルに不思議な幻を示し、預言するようにとお命じになられます。彼が主の霊によって連れ出されたのは、ある平地の真ん中でした(前の訳では「谷間の真中」となっていましたが)。そこには驚くべき光景が広がっていました。数えきれないほどの骨、骨、骨・・・。それも、すっかり干からびてしまったような骨が、平地を埋め尽くしていたのです!
これらの骨は、11節のみことばにあるように、祖国が滅ぼされ、都エルサレムや神殿も徹底的に破壊し尽くされてしまったイスラエルの人々を象徴しています。干からびた骨というのは、死んでからかなりの時が経過し、いのちの痕跡とも言えるようなものさえ全く見られない状態を表していると思われますが、この時、エゼキエルの周りにいた同胞たちの心は、まさにそんな状態だったのでしょう。思い起こせば、エゼキエルが預言者として召されたのは、彼が捕囚とされた年から数えて5年目(紀元前593年)、このケバル川のほとりのテル・アビブにおいてでした。そして、今、この時に至るまで、エゼキエルは失意の中にある同胞たちに向かって懸命に神のことばを語ってきたのです。けれども、あの都エルサレムも、ソロモンの神殿も破壊され尽くされてしまった今となっては、もう、最後の望みも、一切の計らいというものも尽き果ててしまった。「人の子よ。これらの骨は生き返ることができるだろうか」という神からの問いかけに対する「神、主よ、あなたがよくご存じです」という彼の答えには、そんな率直な気持ちが込められているのではないかと思わされました。

2、 その中に息はなかった

しかし、神は、その答えを待っていたかのように、さらに驚くべきことをお命じになります。それは、干からびた骨に預言せよ(!?)、という命令でした。エゼキエルがその通りに預言すると、ガラガラと音がして、干からびた骨同士がつながり、その上に筋がつき、肉が生じ、皮膚がおおって、元の人間の姿が現れるのです。ちょっと頭の中でその音と映像を想像してみてください。本当に不思議と言いますか、まるでSF映画か劇画でも観るかのような印象を受ける場面です。

西行が描かれた掛け軸

西行像(MOA美術館蔵)

日本の平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての僧に西行という人がいます。彼は歌人としても有名ですが、彼の死後にまとめられた「撰集抄」という説話集の中に、西行が人造人間を作ったという奇妙な話が収められています。西行が高野山の奥に住んでいた頃、人恋しくなった彼は、鬼が人骨を集めて人間を造る要領で人造人間を作ることにしました。方法を知っていた西行は、野原から骨を拾い、人の形に並べて香木を焚き、秘術を施します。ところが、出来上がった人造人間は失敗作で、血色が悪く、心もなく、吹き損じた笛の音のような声が出るだけ。それで、どうしようもないので高野山の奥に捨ててしまいました。後日、秘術を知っている人に確認して間違ったところを指摘してもらいましたが、その後はつまらなくなって、もう人造人間を作るのをやめたそうです。
これは、もちろん実話ではなく、後世の人の作り話なのですが、今日の場面でエゼキエルが見せられた人間の幻というのも、西行が作ったという人造人間と少し似ているような気がします。
『しかし、その中に息はなかった』(エゼキエル37:8b)。
それらは、人間のように見えて、まさに、生ける屍であったわけです。

<結論>

けれども、神は再び、エゼキエルにお命じになられます。息に預言せよ。この殺された者たちに吹きつけて、彼らを生き返らせよと。

『そして彼らは生き返り、自分の足で立った。非常に大きな集団であった』(エゼキエル37:10b)。

「息」というヘブル語(ルーアッハ)は「霊」とも訳せることばですが、生ける屍のような彼らにも、神の霊が吹き込まれることによって生き返り、自分の足で立つようになる。非常に大きな集団であったというのは、彼らは、再び契約の民(共同体)として歩みを始めるようになるだろうということですね。神は不思議な幻を通してエゼキエルにそのように示してくださったのです。
現在、教会前の掲示板には、神吉姉が書いてくださった今日の開会聖句が啓示されています。

『神である主は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった』(創世記2:7)。

残念ながら、今、私たちは、教会に集まり、共に礼拝をささげるということはできません。しかし、同じ主にある共同体の一員として、心を合わせ、それぞれが置かれた場所で礼拝をささげることはできます。あの干からびた骨のようになっていたイスラエルの人々も、やがて神のいのちの息(霊)が吹き込まれた時、もう一度、自分の足で立ち上がり、大きな集団とされました。私たちも希望を失わずに、その時を待ち続けようではありませんか。今週も、主の平安が皆さんと共にありますように!

メッセージ内容のダウンロード(PDF100KB)

新聖歌

開会祈祷後:123番、メッセージ後:127番

聖書交読

詩編 17篇1~15節

2020年教会行事

4月22日(水)オリーブ・いきいき百歳体操はお休みです。
5月3日(日)までに予定されていた教会行事も全て中止となりました。

#52-2707

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