シメオンとアンナ

コロナの感染拡大が続いていますが、千里教会では 3 密を避けるため、当面の間 2 階の礼拝堂で短時間の礼拝を行うこととします。
今週はお休みですが、体調のすぐれない方、ご不安な方は、当ホームページに掲載のメッセージ原稿やYoutube動画を活用いただき、それぞれのご自宅で礼拝をお捧げください。

メッセージ

<ルカの福音書 2章21~38節>
メッセージ:牧師:砂山 智

開会聖句

しかし、必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました。それが彼女から取り上げられることはありません。」

<ルカの福音書 10章42節>

メッセージ内容

Youtube動画

 メッセージ動画公開:1/3 PM 2:55

メッセージ原稿は、家庭礼拝用として事前公開します。
 
<序論>  

・「ルカの福音書」2章にはイエス様の誕生から少年時代(12歳)までのエピソードが記されています。4つの福音書の中でもルカだけに記録されていることです。

<本論>
1、イエスの割礼

今日のテキストの最初はイエス様の割礼の記録です。割礼というのは、ユダヤ人の男子であれば必ず受けなければならないとされていました。それは、神がアブラハムとの契約のしるしとしてお命じになったからです。

『また神はアブラハムに仰せられた。「あなたは、わたしの契約を守らなければならない。あなたも、あなたの後の子孫も、代々にわたって。次のことが、わたしとあなたがたとの間で、またあなたの後の子孫との間で、あなたがたが守るべきわたしの契約である。あなたがたの中の男子はみな、割礼を受けなさい。あなたがたは自分の包皮の肉を切り捨てなさい。それが、わたしとあなたがたとの間の契約のしるしとなる。あなたがたの中の男子はみな、代々にわたり、生まれて八日目に割礼を受けなければならない』(創世17:9~12a)。

そして、

22節に『きよめの期間が満ちたとき』

とありましたが、そのことは「レビ記」12章に書かれています。

『彼女のきよめの期間が満ちたら、息子の場合であっても娘の場合であっても、全焼のささげ物として一歳の子羊一匹と、罪のきよめのささげ物として家鳩のひなか山鳩を一羽、会見の天幕の入り口にいる祭司のところに持って行く。祭司はこれを主の前に献げ、彼女のために宥めを行い、彼女はその出血の汚れからきよくなる。これが、男の子であれ女の子であれ、子を産む女についてのおしえである。しかし、もし彼女が羊を買う余裕がなければ、二羽の山鳩か、二羽の家鳩のひなを取り、一羽は全焼のささげ物、もう一羽は罪のきよめのささげ物とする。祭司は彼女のために宥めを行い、彼女はきよくなる。」』(レビ12:6~8)。

イエス様の両親は、生まれて八日目に割礼を施し(イエスと命名)、きよめの期間が
満ちたとき、いけにえ(ささげ物)を献げるために幼子イエスを連れてエルサレムに上って行ったのです。そして、献げられたいけにえは

『山鳩一つがい、あるいは家鳩のひな二羽』

でした。これらのいけにえは、先程の「レビ記」にもありましたが、当時の宗教用語で「貧しい者の供え物」と呼ばれていたそうです。二人には子羊一匹を飼う余裕さえなかったんですね。昨年の北部地区クリスマス動画の畑師のメッセージのみことば、「ピリピ人への手紙」2章6節には次のように書かれていました。

『キリストは神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました』(ピリピ2:6~7a)。

イエス様は、ただ人間と同じようになられたというだけでなく、新聖歌99番「馬槽の中に」の歌詞にあるように、「貧しき憂い 生くる悩み つぶさになめし」救い主となるため、生まれてくださったのです。
昨年の年末に、教会の姉妹のご長男が亡くなられたとお聞きした時、本当に心が痛みました。そして、私のような者のことばでは、とてもその悲しみをお癒しすることはできないだろうなぁ、ということを改めて思わされました。
「へブル人への手紙」2章18節には次のように書かれています。

『イエスは、自ら試みを受けて苦しまれたからこそ、試みられている者たちを助けることできるのです』(へブル2:18)。

このコロナの試みの中で、苦しんでいる人、悲しんでいる人がたくさんおられると思います。もちろんコロナだけとは限りませんが、そのような中で、一人でも多くの方々がイエス様を救い主として信じることができますように、と祈りたいと思います。

<結論>
そして、赤ちゃんイエス様が両親とともに神殿に上って来られた時、二人の人と出会います。それが、シメオンとアンナです。この福音書の著者であるルカは、シメオンについて、

『この人は正しい、敬虔な人で、イスラエルが慰められるのを待ち望んでいた。また、聖霊が彼の上におられた。そして、主のキリストを見るまでは決して死を見ることはないと、聖霊によって告げられていた』(25b~26)

と記しています。そして、アンナについては、

『この人は非常に年をとっていた。処女の時代の後、七年間夫とともに暮らしたが、やもめとなり、八十四歳になっていた。彼女は宮を離れず、断食と祈りをもって、夜も昼も神に仕えていた』(36~37)

と書き残しています。シメオンの年齢は分かりませんが、29節以降にある彼のことばを読めば、彼もアンナと同じように老人であったことが分かります。二人とも、長生きすれば良いこともたくさんあったかもしれませんが、同じように辛いこともたくさんあったのではないでしょうか。この二人の姿は、人生の最終版における私たちの生き方について、私たちはどのように生きればよいのかということについて、何かしらのヒントを与えてくれているように思えます。
この当時、エルサレム神殿には大勢の祭司がいて仕えていました。実に24組もの祭司のグループがあり、それらのグループが交代で祭儀を行っていたと言われています。彼らは、神様について人に教えたり、なんでも知っていると自負していた、言わば「専門家」たちでした。けれども、その大勢の中、誰一人として、旧約で約束されたメシアであるイエス様が来られたことに気づきませんでした。ただ、二人の年老いた預言者だけが神様の御子を見出したのです。
今日の開会聖句をもう一度ご覧ください。

『しかし、必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました。それが彼女から取り上げられることはありません。」』(ルカ10:42)。

神殿で仕えていた多くの祭司たちが、イエス様が来られたことに気づかなかったのは、彼らが信仰の本質的なことではなく、周囲のこと、枝葉末節のことばかりに気を使って、そのことに心を奪われていたからではないでしょうか。自分はどうかな、と思わされます。若い時もそうかもしれませんが、年を取ってからどのように生きるか。どのように優先順位をつけて何を第一とするかということは、本当に大切であるように感じています。言わば、信仰の「断捨離」ですね。この年も、お互い、本当に必要なこと、大切なことだけを選び取る。そのような歩みをしたい、と切に願います。
メッセージ内容のダウンロード(PDF86KB)

新聖歌

開会祈祷後:178番、メッセージ後:428番

聖書交読

詩編 54篇 1~7節

2021年教会行事

1月6日(水) オリーブ・いきいき百歳体操

#52-2745

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