安息日の主

    メッセージ

    <マタイの福音書 12章1~14節>
    牧師:砂山 智

    開会聖句

    人の子は安息日の主です。」

    <マタイの福音書 12章8節>

    メッセージ内容

    Youtube動画


    メッセージ動画公開:2/12 PM 10:37


    メッセージ原稿を公開しました。  

    <序論>  
    ・「マタイ」からの三回目です。今朝は、安息日についての論争です。

    <本論>
    1.働くことの定義

    今朝の冒頭の場面でイエス様と弟子たちが通った道は、日本の田んぼで言えば畦道だと思いますが、イエス様の時代のイスラエルでは、麦畑や耕作地は細長く延びていて、その帯状にはさまれた土地が人の通る道になっていたそうです。弟子たちはイエス様とその道を歩いていたのですが、お腹がすいたので、麦の穂を摘んで食べ始めたんですね。この様子を見たパリサイ人はイエス様に言います。

    「「ご覧なさい。あなたの弟子たちが、安息日にしてはならないことをしています。」(マタイ 12:2b)。

    安息日の起源は、皆さんもよくご存じのように「創世記」の天地創造の記事にまで遡れるわけですが、戒めとしては、あのモーセの十戒の第四戒にあります。その少し前の「出エジプト」16 章には、荒野で飢え死にしそうになったイスラエルの民のために神が天からマナというパンを降らせて養ってくださったことが書かれていますが、イスラエルの民は、毎日、天から降ってくるマナを集めて、その日の分の食料を確保しましたが、安息日だけはマナを集めることをしませんでした。それは、神から安息日に働くことを禁じられていたからです。ただ、ずっと後のイエス様の時代になると、それらの律法はとても複雑で込み入ったものになっていたのです。それは、今朝の話にも登場するパリサイ人みたいな律法の専門家のせいなんですが、彼らは、安息日についても、まず「働く」ということを定義することから始めました。例えば、荷物を運ぶことが働くことになるのかどうかとなった時に、さらに荷物とは何かということが問題になったんですね。そこで彼らは、荷物とは干しいちじく以上の重さのある物と定義したそうです。私みたいな大雑把な人間からすると、「そんな細かいこと、どうでもええやないか!」と思ってしまうんですが…。
    今朝の箇所で弟子たちが行ったこと。つまり、麦の穂を摘み、手で穂をしごき、もみ殻をより分けることも、そんなパリサイ人から見れば、働くこと、つまり、安息日の律法を破ることだったのです。

    2.安息日は何のために

    イエス様は、そんなパリサイ人からの非難に対して、旧約聖書から三つの根拠を示して反論されます。それは、

    1ダビデ王の行為を引用(Iサム 21:1~6)→人間の必要(飢え)が、儀式よりも大事であるとされた。
    2宮にいる祭司の働きに言及(民数 28:9)→神にさ
    さげる礼拝は、安息日についての律法よりも優先された。
    3預言者ホセアに臨んだ神のことばを引用(ホセ 6:6a)→『わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない』。

    そして、「人の子は安息日の主です」と宣言された後、そこを去って会堂に入られました。そこには片手の萎えた人がいて、「マルコ」や「ルカ」の平行記事では、パリサイ人たちはイエス様が片手の萎えた人を癒やすかどうかをじっと見ていたと記されています。しかし、「マタイ」が描くパリサイ人はもっと挑戦的です。彼らはイエス様に対して質問してくるんです。「安息日に癒やすのは律法にかなっていますか」と。それは、イエスを訴えるためであった、とマタイは記しています。確かに、どんなことでも、ルールを守るということは大切なことです。あのソクラテスは、無実の罪で死刑の判決を受けた時、脱獄を勧める友人に向かって、「悪法も法なり」と言って自ら毒をあおって死んだと伝えられています。
    また、昔、日本でも、戦後の混乱期に、ある裁判官が、闇市の物資に手を出すことをよしとせず、餓死してしまったという話を聞いたことがあります。ただ、このパリサイ人の場合はちょっとと言うか、だいぶん違うように思えます。イエス様は、そんなパリサイ人に、「あなたがたのうちのだれかが羊を一匹持っていて、もしその羊が安息日に穴に落ちたら、それをつかんで引き上げてやらないでしょうか。人間は羊よりはるかに価値があります。それなら、安息日に良いことをするのは律法にかなっています」と言われた後、その手の萎えた人を癒やされたんです。さらに、「マルコ」や「ルカ」では、イエス様のほうから逆にパリサイ人たちに対して質問しておられます。

    「安息日に律法にかなっているのは、善を行うことですか、それとも悪を行うことですか。いのちを救うことですか、それとも殺すことですか。」彼らは黙っていた』(マルコ 3:4)。

    イエス様は彼らの本心を見抜いて、単純明快に尋ねられたのです。神は安息日を何のために設けられたのか。人間を縛りつけ苦しめるためなのか。それとも、人間の益のためなのかと。

    <結論>

    もうだいぶん前の話ですが、あるノンクリスチャンの方から面白い質問をされたことがあります。「砂山さんはクリスチャンらしいけど、厳しいほうのクリスチャン?それとも、そうじゃないほうのクリスチャン?」。初めは、その意味が分からなかったのですが、彼は、プロテスタント=厳しい(酒やタバコはご法度)、カトリック=ゆるい(酒、タバコも OK)というようなイメージを持っておられたようです。宗教というものに戒律やタブーはつき物かもしれませんが、私は、私たちクリスチャンにはそのようなものはない、と思っています。いや、あるすれば、それは、イエス様が「ヨハネの福音書」の告別説教で言われた、

    『わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい』(ヨハネ 13:34)

    という戒めだけではないかと思うのです。ただ、この戒めは、「わたしがあなたがたを愛したように」ということなので、本当に絶望的に思えるほど難しいことなんですが、それだけでなく、一見、シンプルなように見えて、具体的でハッキリとした基準というものはありませんし、人によってその受け止め方も様々でしょう。例えば、「私はあなたを愛している」と言いながら、実際は相手を自分の思う通りに支配・コントロールしようとして、相手を傷つけている場合もあるわけです。それは、イエス様が言われた愛ではなく、モラハラや DV なんですが。ですから、聖書にある戒めや命令はシンプルですが、そのことに対する応答は様々と言えるかもしれません。今月号の「よきおとずれ」で大阪セントラルグレースの酒井師の巻頭言にあるように、私たちは、日々の生活の中で、互いに愛し合うというのはどのようなことなのか、模索し続けなければならないのです。
    最後に、今朝の開会聖句をもう一度ご覧ください。

    「人の子は安息日の主です」(マタイ 12:8)。

    実は、この箇所の「人の子」ということばには二つの解釈があります。一つは、メシア、つまりイエス様を指しているというのと、もう一つは、私たち人間のことを指しているという解釈です。前者の解釈に立てば、このみことばは、安息日の主であるイエス様に仕えることこそ、すべての律法や決め事に優先する、というような意味になるでしょう。そして、後者の解釈に立つならば、今朝のテキストの並行記事である「マルコ」でイエス様が言われたように、

    「安息日は人のために設けられたのです。人が安息日のために造られたのではありません」(マルコ 2:27)。

    つまり、人間は安息日の奴隷ではない。人間が安息日の主人なのだから、安息日は人間の益のために用いられるべきなのだ、ということになるでしょう。皆さんは、どのように思われるでしょうか?

    メッセージ内容のダウンロード(PDF98KB)

    新聖歌

    開会祈祷後:334番、メッセージ後:505番

    聖書交読

    詩編136篇 1~26節

    2023年教会行事

    2月15日(水) オリーブいきいき百歳体操 10時〜11時

    #55-2855

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