神の国と福音

大阪府における緊急事態宣言の解除に伴い、3月7日(日)より、礼拝を再開します。千里教会では3密を避けるため、当面の間 2 階の礼拝堂で短時間の礼拝を行うこととします。
体調のすぐれない方、ご不安な方および高齢の方は、当ホームページに掲載のメッセージ原稿やYoutube動画を活用いただき、それぞれのご自宅で礼拝をお捧げください。

メッセージ

<ルカの福音書 17章20~25節>
メッセージ:牧師:砂山 智

開会聖句

私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のためも飾られた花嫁のように整えられて、神もみもとから、天から降って来るのを見た。

<ヨハネの黙示録 21章2節>

メッセージ内容

Youtube動画


メッセージ動画公開:3/7 PM 3:06

メッセージ原稿を公開しました。 

<序論>  

・6週間、リモート礼拝でしたが、皆様、お変わりなかったでしょうか?昨年のクリスマス礼拝から、「ルカの福音書」をテキストにして、今回で9回目になります。今日の説教題は「神の国と福音」とさせていただいたんですが、「マルコの福音書」には、イエス様の公生涯の第一声が、「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)ということばであったと記されています。つまり、神の国(「マタイ」では天の御国)と福音(良い知らせ)とは密接な関係があるということだと思います。今朝は、イエス様がおっしゃった神の国とはどのような国なのか?そして、なぜ福音は良い知らせなのか?ということについて、皆さんと一緒に考えてみたいと思っています。

<本論>
1、神の国が近づいた

先月7日の第一主日に、「掃除された家」と題してお話しさせていただきましたが、イエス様は、ご自身の奇跡を見て、妬みから誹謗中傷する人たちに向かって、「どんな国でも内輪もめしたら荒れすたれ、家も内輪で争えば倒れます」と反論され、さらに「わたしが神の指によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです」と言われました。つまり、この奇跡こそ、もう神の国があなたがたのところに来ているという記しなのだ、と言われたんです。
最初にご紹介した「マルコ」にあるイエス様の宣教の第一声と考え合わせると、聖書の証言は、イエス様が人となって、私たちの世界、この地上の国に来てくださった時から、神の国(支配)は明確に始まった、ということになります。ただ、いかがでしょうか、皆さん。そうは言っても、毎日毎日、様々なメディアを通して目にし、耳にするニュースには、本当に嫌になるような、目を覆いたくなるような罪の現実があります。また、もうすぐ3月11日、あの東日本大震災から10年が経とうとしていますが、世界中で自然災害は繰り返され、そのために今も苦しむ人たちがたくさんおられます。本当にイエス様が言われたように神に国は近くなったのか?「ルカの福音書」7章には、バプテスマのヨハネが自分の弟子たちを遣わして、「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、ほかの方を待つべきでしょうか」と尋ねさせたとあります。あのヨハネでさえ、目の前の現実を見た時、そのような疑いを抱いたんです。まして私たちがなかなか信じることができないのは仕方のないことなのかもしれません。しかし、大切なことは、目の前の現実を通してみことばを見るのではなく、みことばを通して現実を見ることではないでしょうか。たとえ今、目の前の現実がどのようであったとしても。また、世の人たちから「あんたら、ホンマにおめでたい人たちやな」と嘲笑されようとも、聖書が言っているように、確かに神の国は近づいたと信じて歩むことこそ、私たちの信仰の原点・原動力ではないかと思います。

2、神の国の現在

そして、今日の20,21節のみことばなんですが、実はちょうど一年前の礼拝でお話しさせてもらったんですが、覚えておられるでしょうか?それは、「よきおとずれ」の巻頭言に石橋教会の南野師が書いておられたことなんですが、南野師は、この「神の国はあなたがたのただ中にある」ということばを、神の国(支配)は人間の心の中にあるというような人間の内面の課題としてとらえるのではなく、人間同士の関係性の中に、神の国(支配)が拡がり、実現してゆくこと。それこそがイエス様が宣べ伝えられた福音(良い知らせ)であり、このことばの意味なんだと解説しておられました。私も心から「アーメン」なんですが、先週のK姉も同じことを話してくださいました。イエス様を信じて新しく生まれた人は、人との関係(つながり)を大切に生きますと。そして、新改訳聖書が新しい訳になって、「ヨハネの福音書」10章10節のみことばが、『わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです』から、『羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るためです』というように変わったということも新しい発見でした。その「豊かないのち」とは、孤立し、閉じられたいのちではなく、互いに交わり、心を通わせるということによって与えられるいのちであると。そのメッセージを通してとても素晴らしい恵みをいただいたんですが、何か、私たちは、神の国(支配)というと、途方もない、遠く離れた崇高な世界のように思ってしまうのかもしれませんが、実はそうではなくて、私たちが今、置かれている中の、身近な関係性を大切に生きるということ。それこそが神の国の民の生き方なんですね。

3、神の国の未来
そして、今日のテキストの22節以降は、神の国の未来、来るべき姿を暗示しているように思えます。

『「あなたがたが、人の子の日を一日でも見たいと願っても、見られない日が来ます』(ルカ17:22)。

「人の子の日」とはメシアの時代を意味し、「見られない日が来ます」とは、メシアであるイエス様を拒否する全く世俗化した暗闇の時代が来るということです。

『しかし、まず人の子は多くの苦しみを受け、この時代の人々に捨てられなければなりません』(同17:25)。

イエス様はご自身の十字架を預言されたわけですが、これは、単に捨てられて終わりではありませんでした。それは、新たないのち、新しい希望の始まりでもありました。まさに、

『一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます』(ヨハネ12:;24b)

と言われた通りです。
そして26節以降、特に30節以降には、

『人の子が現れる日』(同17:30a)、

つまり、イエス様が再びこの地上に来られる日のことが預言されています。「ルカ」では、この後の21章でも、「マタイ」24章や「マルコ」13章とも共通した、所謂「終末預言」が語られるんですが、この箇所もそのような「終末預言」の一つと言えます。34節以降には、

『同じ寝床で人が二人寝ていると、一人は取られ、もう一人は残されます』(同17:34b)

とか、

『同じところで臼をひいている女が二人いると、一人は取られ、もう一人は残されます』(同17:35)

というみことばがあって、これはどんな意味なの?取られた人と残された人とはそれぞれどうなるの?イエス様は一切説明してくださらなかったので、他の箇所のみことばと組み合わせて様々な解釈があるようですが、今朝はそんな話は置いておきまして、これまで、私たちは、神の国はいつ私たちの世界に近づいたのかということ(過去)。そして、その神の国は、今の私たちの生き方とどのような関係があるのかということ(現在)、について見てきました。最後に、神の国の未来、来るべき神の国の姿とはどのようなものなのかということについて、皆さんと一緒に考えたいと思います。

<結論>

今日の開会聖句は、そのことを、さやにではなく朧気ではありますが、私たちに示してくれているみことばです。「ヨハネの黙示録」21章1節からお読みします。

『また私は、新しい天と新しい地を見た。以前の天と地は過ぎ去り、もはや海もない。私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとから、天から降って来るのを見た』(黙示21:1~2)。

これは、ヨハネが見た新しい創造、新天新地についての幻ですが、パウロは、「ローマ人への手紙」8章で次のように言います。

『被造物は切実な思いで、神の子どもたちが現れるのを待ち望んでいます。被造物が虚無に服したのは、自分の意志からではなく、服従させた方によるものなので、彼らには望みがあるのです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由にあずかります。私たちは知っています。被造物のすべては、今に至るまで、ともにうめき、ともに産みの苦しみをしています。それだけでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだが贖われることを待ち望みながら、心の中でうめいています。私たちは、この望みとともに救われたのです。目に見える望みは望みではありません。目で見ているものを、だれが望むでしょうか。私たちはまだ見ていないものを望んでいるのですから、忍耐して待ち望みます』(ローマ8:19~25)。

私の愛唱讃美、讃美歌90番の三番は、次のような歌詞です。

「ここも神の御国なれば よこしま暫しは時を得とも 主の御旨のややに成りて 天地(あめつち)遂には一つとならん」(讃美歌90番 三番)

神の国の未来、来るべき神の国では、私たち人間だけではない、すべての被造物が本来の姿、創造された時の美しい姿を回復する。そして、地から遥かに離れた天国で憩うのではなく、神の国が天から地に降りて来て、天と地は一つとなり、まさに、主の祈りにあるように、「御国が来ますように。みこころが天で行われるように、地でも行われますように」という祈りが成就するのです。そこで私たちは、復活の新しい肉体を与えられ、神とともに永遠に憩う者となるのです。
なぜ「福音」は良い知らせなのでしょうか?それは単に、イエス様を救い主と信じた人は十字架によって罪が贖われ、永遠のいのちが与えられ、死んだ後には天国に行けますよ、という知らせでなく(もちろんそれも大切なことですが)、こんなに素晴らしい、そして豊かな神の国の到来を約束する知らせだからなんです。今週も神の国を目指して歩み続けたいと思います。祈りましょう。
メッセージ内容のダウンロード(PDF106KB)

新聖歌

開会祈祷後:388番、メッセージ後:464番

聖書交読

詩編 62篇 1~8節

2021年教会行事

3月10日(水) オリーブ・いきいき百歳体操

#53-2754

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