完全であれ

    メッセージ

    <マタイの福音書 5章43~48節>
    牧師:砂山 智

    開会聖句

    ですから、あなたがたの天の父が完全であるように、完全でありなさい。

    <マタイの福音書 5章48節>

    メッセージ内容

    Youtube動画


    メッセージ動画公開:1/29 PM 2:10


    メッセージ原稿を公開しました。  

    <序論>  
    ・今朝の「マタイ」5章43節前半にある『あなたの隣人を愛し』ということばは、「レビ記」19章18節からの引用と思われます。しかし、後半の『あなたの敵を憎め』ということばと全く同じような表現は旧約の中には見られないので、それは恐らく、「申命記」7章2節、「詩篇」137篇7~9節などの要約ではないかと言われています。イエス様は、これら旧約の教えを引用した上で、『しかし、わたしはあなたがたに言います』といういつもの言い回しで、ご自分の権威あることばとして、『自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい』と言われたのです。「敵(てき)」という字は「かたき」とも読めます。皆さんはいかがでしょうか?あなたの「てき」や「かたき」とはと聞かれた時、すぐに誰かの顔を思い浮かべることができるでしょうか?なかなか難しいですよね。自分と馬が合わない人や虫が好かない人くらいであれば、すぐに思い浮かべることができるかもしれませんが、「てき」や「かたき」となると…。ただ、長い人生の中で、それらのことばが強烈なリアリティを伴って自分に迫ってくる。そんな事態に直面することもあるかもしれません。もちろん、そんなことはないほうがいいのですけれども。

    <本論>
    1.身の程を知る

    そのように改めて考えると、この44節のイエス様のことばは、ある意味、人間の限界を超えた戒めと言えると思います。自分の敵に対する私たち人間の自然な反応は報復することであり、もし可能なら、その相手を徹底的に痛めつけることでしょう。聖書の戒めは、そのどれもが本気で従おうとする時、困難を覚えることが多いのですが、とりわけ、この敵を愛するという戒めは、その筆頭と言えるのではないでしょうか。「ユダヤ人イエス」という本を書き、イエス研究で有名になったユダヤ人の学者ダヴィッド・フルッサーという人は「自分の敵を愛せよという命令は、イエスの決定的な特徴を表し、全新約聖書の中でそのような命令を私たちが聞くのは、イエスの唇からだけである」と書いています。
    それでは、このみことばを聞いた当時のユダヤ人は『隣人』とか『敵』ということばからどのような人を思い浮かべたのでしょうか?まず、隣人としては同胞ユダヤ人、そして、敵としては異邦人ではないかと思います。46節には取税人とありますが、彼らは、大切な財産を不正な方法で収奪する輩として憎まれていましたが、もう一つ、仕事の関係で異邦人と接触する必要がありましたので、その点からも、汚れた罪人、神に敵対する者とされたんですね。イエス様は、そんなユダヤ人に、45節にあるように、太陽や雨という人間にとって一番身近な自然を例にして、父なる神の愛について話されました。それは、神の愛は全ての人に等しく注がれているということですね。このイエス様のことばには、人間の罪を裁く恐ろしい神のイメージはありません。非常におおらかと言うか、全ての被造物に対して分け隔てのない愛を注がれる慈愛に富んだ神というものを感じます。そして、それは同時に、選民意識に凝り固まったユダヤ人、特に当時の宗教指導者であった人たちへの皮肉も込められていたと思います。「お前たちが罪人として見下し、自分たちの敵、ひいては神の敵だと決めつけている取税人も、やっていることはお前たちと大差ないじゃないか。天におられる父は、ある人をご自分の味方とし、ある人をご自分の敵として造られたのではない。すべての人間を神のかたちに創造し、分け隔てなく愛しておられるんだ」と。
    工藤先生の本に、かつて淀キリで勤務されていた頃の話が載っていました。それは、患者さんの中に、自分はクリスチャンだからキリスト教病院なるところでは優遇されて当たり前と、少しでも不利益や不親切と思えるような扱いをされたと感じたら、「それでもクリスチャン医師か!それでもキリスト教病院か!」と、たちまち相手を非難する姿勢に転ずる方がおられたという話でした。クリスチャンだということを変に特別視したり、逆に、そうでない人々をどこかで軽視する態度が見え隠れする…。工藤先生は、その上で、藤木正三師の断想を引用されていたんですが、それは次のような一文でした。

    「営利を目的とした世界では嘘をつくことも止むなしとするほどに、お金は強大な圧力で人を押さえています。どころがたとえば宗教のような精神的なものを目的とした世界では、そういう押えがないかのように見え、それぞれが心に画くものを純粋に主張する嘘のなさが尊いとされます。しかし、押えの下にないと精神はいやらしくなるものです。実業の人に練れた魅力的な人が多く、宗教の人に独善的で小さい人が多いではありませんか。宗教にも本来はある押えを回復しなければなりません。押えのない宗教はお金以下です」。11 「福音はとどいていますか」藤木正三/工藤信夫著 ヨルダン社 P168

    この藤木師の言う「押え」ということばは少し分かりにくいかもしれませんが、工藤先生は、これは自分の身の程を知るということ、神の前に自分がどんな者であるのかということを点検し続ける心の姿勢である、と説明しておられました。

    2.完全でありなさい

    そして、今朝の開会聖句なんですが、

    『ですから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい』(マタイ5:48)。

    これは本当に強烈なことばです。正直、とても無理なように思えます。先程もあったように、私たちが自分の身の程を知り、神の御前に自分がどんな者であるのかを点検し続けるのであれば、そのように言わざるを得ないでしょう。ただ、「無理です!」では、今朝の話が終わってしまいますので、自分なりに色々と調べて、考えてみました。そうしたら、次のようなことが分かりました。この『完全』と訳されているギリシア語「テレイオス」は、元々「テロス」という名詞からできたことばだということ。そして、その「テロス」には、「目的」「目標」「終点」というような意味があるということです。つまり、人や物が、その造られた目的を果たすと言うか、目的に沿った歩みをする、或いは、そのように用いられる時に、「テレイオス(完全)」であるということなんですね。ということは、この『完全』というギリシア語には「完璧(パーフェクト)」、或いは「欠点が全くない」というようなニュアンスはあまりないということが分かります。どちらかというと、日本語では、先程の藤木師の断想にもあった「練れた魅力的な人」「成熟した大人」というような意味に近いのではないでしょうか。
    また、ギリシア語の文法では、律法などの戒めは、未来のことを表す形で書かれている場合が多く、例えば、この少し前で言われている『殺してはならない』『姦淫してはならない』というような戒めもなどもそうです。そして、今朝の『完全でありなさい』ということばも、文法的には未来形になっています。前後の文脈から、どの聖書も訳している「あなたがたは、完全な者となりなさい」、或いは「完全でありなさい」という訳は、もちろん間違いではないんですが、一方では「あなたがたは、完全な者となるだろう」というような、未来のこととして訳すこともできるのです。そうすると、これは単なる命令や戒めではなく、むしろ、未熟な私たちも、いつか完全な者、練れた成熟した者としてくださる、そういう約束のことばとして理解することができます。

    <結論>

    イエス様は、父なる神、天におられる私たちのお父さんは、太陽の光のように、また、恵みの雨のように、どんな人にも愛を惜しみなく注いでくださる方であると言われました。そしてさらに、天の父が完全であるように、完全でありなさいと言われました。しかし、現実には、それは私たちには難しいでしょう。最後に、やはり藤木師の書かれた断想に「完全な人」と題するものがありましたので、それをご紹介して、説教を閉じたいと思います。

    「人間にとって完全とはどういう状態なのでしょう。欠点の無いことと考えるなら、それは方向を間違っていると言わねばなりません。人間は生かされている受身のものなのですから、完全は受身の方向に求めるべきで、欠点の無い方向に求めるべきではないからです。でなければ完全は、結局神の如くになることとなり、それは神の完全ではあっても、人の完全でなくなります。完全な人とは欠点の無い人ではありません。それは受身において徹底する人、つまり、相手のあることを全ての場面において認めて、自分を相対化できる人です。」22 「福音はとどいていますか」藤木正三/工藤信夫著 ヨルダン社 P46

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    新聖歌

    開会祈祷後:38番、メッセージ後:358番

    聖書交読

    詩編134篇 1~3節

    2023年教会行事

    2月1日(水) オリーブいきいき百歳体操 10時〜11時

    #55-2853