逃れの町

    令和5年5月8日(月)より新型コロナウイルス感染症が5類感染症へ移行することに伴い、礼拝での規制を緩和します。具体的には、会衆讃美は全節歌唱する、省略していた聖書交読を復帰し、司会者朗読→会衆朗読を交互に行います。
    なお、礼拝中のマスク着用は引き続き推奨、「平和の挨拶」の握手の自粛は今後も実施しますので、ご理解とご協力を宜しくお願いいたします。

    メッセージ

    <民数記 35章9~15節、22節~29節>
    牧師:砂山 智

    開会聖句

    しかしキリストは、すでに実現したすばらしい事柄の大祭司として来られ、人の手で造った物でない、すなわち、この被造世界の物でない、もっと偉大な、もっと完全な幕屋を通り、また、雄やぎと子牛の血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度だけ聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられました。

    <ヘブル人への手紙 9章11~12節>

    メッセージ内容

    Youtube動画


    メッセージ動画公開:5/14 PM 2:24


    メッセージ原稿を公開しました。  

    <序論>  
    ・荒野での40年にも渡る放浪の旅を終えたイスラエルの民は、カナンの地に定住するようになります。ただ、その過程においては、先週もお話ししましたように、様々な先住民族との戦いがありました。それらの戦いに勝利し、定住するための相続地がそれぞれの部族に与えられたわけですが、レビ人(族)だけは例外でした(民数18:23,24)。今朝の35章前半には、そのレビ人に与えられる土地について、主がモアブの草原でモーセに告げられたことが書かれています。それは、それぞれの部族の相続地にある48の町でした。そして、特に今朝、読んでいただいた箇所は、その中でも特別と言える「逃れの町」についてです。
    皆さんもご存じの通り、モーセの十戒には

    『殺してはならない』(出エ20:13)

    という戒めがありますが、その少し後には次のようなみことばがあります。

    『人を打って死なせた者は、必ず殺されなければならない。ただし、彼に殺意がなく神が御手によって事を起こされた場合、わたしはあなたに、彼が逃れることができる場所を指定する』(出エ21:12,13)。

    この『逃れることができる場所』=『逃れの町』ということなんですが、現代で言うと、所謂「過失致死」に関する法律ということでしょうか(刑法199条210条

    <本論>
    1.アジール

    さて、この「逃れの町」なんですが、14節にありましたように、ヨルダンの川向う、つまり東側に三つ。カナンの地、つまり西側に三つ設置するように命じられています。実際の町の名前は「ヨシュア記」20章7,8節に記されていますが、これら六つの「逃れの町」は、イスラエル国内であれば、どこからでも、徒歩で、ほぼ一日で辿りつけるような距離になるように、各相続地の中にバランスよく配置されたようです。
    ただし、故意の殺人の場合には逃げても赦されることはありませんでした。先程は読みませんでしたが、「民数記」35章19節には次のようにあります。

    『血の復讐をする者は、自分でその殺人者を殺してもよい。彼に出くわしたときに、殺してもよい』(民数35:19)。

    昔の日本で言う「仇討ち・敵討ち」ですね。現代では、もちろん許されないことですが。ただ、その殺人が故意ではなく、過失であった場合には、近くにある「逃れの町」まで逃げれば、復讐する者から守られたわけです(祭司であるレビ人によって罪の赦しの執り成しが行われた)。実は、このような掟と言うか、制度は昔の日本にもあったんです。皆さんは「縁切寺(駆け込み寺)」というのをご存じでしょうか。そのような場所のことを「アジール(権)」と言うそうです。様々な事情でそのような場所に逃げ込んだ人は、そこにいる限りは守られたのです。また、15節には、この定めは、イスラエル人だけでなく、寄留者(外国人)に対しても同じように適用されるとありました。今から3000年以上も前の選民意識がとても強いイスラエルであるにもかかわらず、何か非常に民主的と言うか、人種的偏見のない寛大な処置のように思えます。

    2.大祭司が死ぬまで

    そして、今、お話ししたことと関連するケースとして、26~27節。

    『もしも、その殺人者が、自分が逃げ込んだ逃れの町の境界から出て行き、血の復讐をする者がその逃れの町の境界の外で彼を見つけて、その殺人者を殺すことがあっても、その人には血の責任はない』(民数35:26~27)。

    つまり、「逃れの町」から一歩でも外に出たならば、その殺人者の生命の保証はなかったのです。繰り返しになりますが、この恩恵と言うか、特例的なルールは、あくまでも「逃れの町」の境界内にいるという条件の下で適用されたのです。
    けれども、そんな罪人も、完全に赦されると言うか、その罪が帳消しになる場合がありました。それが、その後の28節。

    『その殺人者は、大祭司が死ぬまでは、逃れの町に住んでいなければならないからである。大祭司の死後に、その殺人者は自分の所有地に帰ることができる』(同35:28)。

    つまり、大祭司が死ねば、その殺人者は赦されたということですね。大祭司には、年に一度、「贖罪の日」に、イスラエル全体の罪を贖うため、至聖所に入っていけにえを献げる義務がありました(「レビ記」16章)。ですから、大祭司というのは、聖なる油を注がれた者とされ、新約聖書においては、イエス・キリストの予型と見なされています。また、その死は、イエス様の十字架における死の予型とされたのです。今朝の開会聖句、「へブル人への手紙」9章11,12節をもう一度お読みします。

    『しかしキリストは、すでに実現したすばらしい事柄の大祭司として来られ、人の手で造った物でない、すなわち、この被造世界の物でない、もっと偉大な、もっと完全な幕屋を通り、また、雄やぎと子牛の血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度だけ聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられました』(へブル9:11,12)。

    「逃れの町」に避難していた罪人は、大祭司の死によってその罪が赦され、自分の所有地に帰ることができました。ただ、それは、既にお話ししましたように、あくまでも過失での殺人の場合だけでした。ある意味、これが旧約の時代の限界と言えるのではないかと思います。つまり、私たちと同じ人間の大祭司の贖いには限界があったということですね。けれども、新約の時代に生きる私たちには、真の大祭司であるイエス・キリストがおられます。イエス様が、あの十字架の上で、いけにえの動物の血ではなく、ご自身の血を流してくださったことによって、故意とか過失とか一切関係なく、私たちのすべての罪が、過去の罪、現在の罪、そして未来の罪までもが、完全に贖われたのです。

    <結論>

    新約聖書の福音書を読んでいますと、特にイエス様のおことばの中に、「すべて」とか「だれでも」ということばが、よく出てくることに気がつきます。
    例えば、

    『すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます』(マタ11:28)

    とか、

    『「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい』(ヨハ7:37)

    とかですね。
    また、あのパウロも次のように言っています。

    『ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました』(Ⅱコリ5:17)。

    先程もお話しした、「逃れの町」の掟は、イスラエル人だけでなく、寄留者にも同じように適用されたということも、この「すべて」と「だれでも」ということを暗示しているようにも思えます。
    イエス様の福音は、すべての人のための福音(良い知らせ)です。イエス様は、すべての人が救われて、永遠のいのちを持つことができるようにと、十字架の上で死んでくださいました。私たちクリスチャンは、先に救われた者として、レビ人=祭司の役割を担っていると思います(万人祭司)。そして、現代における「逃れの町」とは教会であり、教会はキリストのからだですので、イエス様ご自身こそ、私たちにとっての真の「逃れの町」と言えるのではないでしょうか。私たちも、ふと疲れたなぁと思った時、渇いたなぁと感じた時には、真の「逃れの町」であるイエス様のもとに逃げ込みましょう。イエス様は必ず守ってくださると信じます。

    メッセージ内容のダウンロード(PDF92KB)

    新聖歌

    開会祈祷後:259番、メッセージ後:386番

    聖書交読

    詩編149篇 1~9節

    2023年教会行事

    5月17日(水) オリーブいきいき百歳体操 10時〜11時

    #55-2868

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