なお、礼拝中のマスク着用は引き続き推奨、「平和の挨拶」の握手の自粛は今後も実施しますので、ご理解とご協力を宜しくお願いいたします。
メッセージ
<士師記 16章23~31節>
牧師:砂山 智
開会聖句
そこで、デリラはサムソンに言った。「どうか私に教えてください。あなたの強い力はどこにあるのですか。どうすればあなたを縛って苦しめることができるのでしょうか。」
<士師記 16章6節>
メッセージ内容
Youtube動画
メッセージ動画公開:10/17 PM 11:18
メッセージ原稿を公開しました。
<序論>
・今朝も前回と同じくサムソンの物語からです。旧約聖書を読んでいて、時々、思うことがあります。それは、イスラエルの民は、何度、同じ失敗をしたら気が済むのか。何度、同じ過ちを繰り返したら悔い改めるのか、ということなんですが、サムソンは、まさに、そのことを代表するような人だったと言えるでしょう。前回、お話ししたように彼の弱点の一つは女性でしたが、今朝の個所の前段でも、また性懲りもなく、同じ失敗を繰り返します。開会聖句にあったように、お気に入りの女性デリラから問い詰められ、何度かはぐらかしますが、ついに、その秘密を、自分の強い力の秘密を明かしてしまうのです。「まったく、どうしようもない奴。お前の辞書に反省という文字はないんか!」と思ってしまうのですが、よーく考えてみれば、自分にも同じような弱さがあると認めざるを得ません。何度も、何度も、性懲りもなく、同じ失敗を繰り返してしまうという。
1.主が離れられた
ちなみに、このデリラについては、
4節に『ソレクの谷にいる女』
と紹介されているだけで、イスラエル人であったのかペリシテ人であったのかもはっきりとは書かれていません。もちろん、その後の展開から、ペリシテ人と関係が深かったということは明らかなんですが。そして、その名前の意味するところは、「思わせぶりをする」という。
16 節に、『こうして、毎日彼女が同じことばでしきりにせがみ、責め立てたので、彼は死ぬほど辛かった』
とありますが、彼女のその思わせぶりな態度は、まるで女優のような、かなりの演技力だったのでしょう。ただ、もちろん、問題はそのことにあるのではなく、サムソン自身にありました。いくら女性に弱かったと言っても、髪の毛の秘密は、彼にとってはまさしく生命線。サムソンは、その秘密を明かさない限りは、少しぐらい(?)メチャクチャなことを繰り返したとしても、神から力を得て、また立ち上がることができましたが、その一番大事な生命線とも言える秘密を明かしてしまったことで、神からの力を得ることができなくなってしまった。神との交わりが完全に絶たれてしまったのです。20 節をご覧ください。
『彼女が「サムソン、ペリシテ人があなたを襲って来ます」と言ったとき、彼は眠りから覚めて、「今度も前のように出て行って、からだをひとゆすりしてやろう」と言った。彼は、主が自分から離れられたことを知らなかった』(士 16:20)。
このサムソンの姿を通して思わされることは、彼は、自分の力の出所について知ってはいましたが、そのことに対して全く無頓着と言うか、慎重さを欠いていたということではないでしょうか。それはある意味、その力がまるで自分の中にあるかのごとくに思い上がっていたということでしょう。その力が無くなってしまえば、自分はただの人になってしまうにもかかわらず、ですね。
2.髪の毛は伸び始めた
次の 21 節には、その結果が書かれています。
『ペリシテ人は彼を捕らえ、その両目をえぐり出した。そして彼をガザに引き立てて行って、青銅の足かせを掛けてつないだ。こうしてサムソンは牢の中で臼をひいていた』(士 16:21)。
あの、なにものも恐れない勇者サムソンの実に惨めで落ちぶれた姿です。この時、彼の胸に去来する思いというのはどのようなものだったでしょうか?私たちも多くの失敗を繰り返します。時には、「ああ、なんと俺は馬鹿な、どうしようもない人間だ。これで俺も、ついに一巻の終わりか…」というような思いになることもあるかもしれません。しかし、次の 22 節のみことばに注目しましょう。
『しかし、サムソンの髪の毛は、剃り落とされてからまた伸び始めた』(同 16:22)。
もちろん、髪の毛ですから、禿じゃなければ、丸坊主にされたとしても、また生えてくるのは当然のことなんですが、これはやはり、神様の働きは、誰にも気づかれなかったとしても、少しずつ、静かに、しかし確実に前進しているということを表しているように思えます。少し前の教団の「よきおとずれ」に、石橋教会の船橋先生が「マルコ」4 章にあるイエス様のたとえ話から書いておられましたが、
『夜昼、寝たり起きたりしているうちに種は芽を出して育ちますが、どのようにしてそうなるのか、その人は知りません』(マルコ 4:27)
とあるように、私たちの理解をはるかに超えて、神の国、神様のご支配は前進してゆくのです。
そして、その後は、今朝、読んでいただいた通りですが、サムソンは、その惨めな姿を晒して笑いものにされるため、異教の神ダゴンの神殿に連れてこられます。ペリシテ人の領主たちにとっては、これ以上の見せ物はなかったでしょう。それが今朝の場面ですが、映画で言えば、まさにクライマックスです。
3. サムソンの祈り
このサムソン物語のクライマックスで、私たちが見逃してはならないのは、28節に記されている彼の祈りではないかと思います。
『サムソンは主を呼び求めて言った。「神、主よ、どうか私を心に留めてください。ああ神よ、どうか、もう一度だけ私を強めてください。私の二つの目のために、一度にペリシテ人に復讐したいのです。」』(士 16:28)。
多くの方は、ここで再びサムソンが力を発揮することができたのは彼の髪の毛が生えてきたからだと考えるでしょう。しかし、その前に、私たちは、前回の説教でお話しした 14 章 4 節のみことばを思い起こす必要があります。
『彼の父と母は、それが主によることだとは知らなかった。主は、ペリシテ人と事を起こす機会を求めておられたのである』(同 14:4a)。
神は、道徳的に見ればメチャクチャなサムソンを用いて、ペリシテ人との間に問題を起こさせ、サムソンを彼らの手に渡されるように導かれたのです。ですから、このクライマックスの場面も、それは神からの召しであったと考えるべきでしょう。サムソンは、自身の悲惨な生涯から、神を呪わずに祈ることの大切さ、神との交わりに生きることの大切さを学びました。それは言い換えれば、自分の力の秘密は髪の毛にあるのではなく、神から与えられている力が髪の毛に現されているにすぎないのだということ。そして、神の召しと交わりの中に歩み続けることこそ、変わることのない神からの力をいただくための秘訣であるということに気づいたということだと思います。
<結論>
そんなことを考えながら、また榎本先生の「旧約聖書一日一章」を読んでいましたら、次のような一文に目が留まりました。
「キリスト者とはキリストの教えを守る者ではない。主イエスのような崇高な愛に生きようと努める者でもない。キリスト者とはキリストの生命に生かされる者である。キリストの内にあって生きる者である。その意味において、サムソンが神の力によって生き、大力を持っていたことが人々に不思議であったように、キリスト者の生活もまた人々にとって不思議に思われるものである。あなたの大力はどこにあるのかと彼が聞かれたように、私どもキリスト者もその力の、喜びの、平安の秘密はどこにあるのかと聞かれる者である。」
この一文を読んで、自分は、果たして、人からそんな風に聞かれたことがあるだろうか?と考えさせられました。世の人たちから全く不思議にも思われていない、クリスチャンといっても、自分たちとなんにも変わらないじゃないか、と思われているのではないかと。「あなたの力はどこにあるのか」と聞かれて、それを口でではなく、自分の生活で証しする。決してええかっこしいとかではなく、そのように生きることができればと切に願います。
新聖歌
開会祈祷後:新聖歌266番、メッセージ後:新聖歌358番
聖書交読
詩編37篇 1~13節
2026年教会行事
10月14日(水)オリーブ・いきいき百歳体操 10時~11時
#58-3046
