士師の時代

メッセージ

<士師記 3章1~11節>
メッセージ:牧師:砂山 智

開会聖句

主の霊が彼の上に臨み、彼はイスラエルをさばいた。彼が戦いに出て行くと、主はアラムの王クシャン・リシュアタイムを彼の手に渡されたので、彼の手はクシャン・リシュアタイムを抑えた。

<士師記 3章10節>

メッセージ内容

Youtube動画

 
 メッセージ動画公開:11/7 PM 5:35  
 


メッセージ原稿を公開しました。家庭での礼拝に用いてください。 
 
<序論>  

・「士師記」は冒頭の1章1節に

『ヨシュアの死後』(士1:1)

とありますように、モーセの後継者となったヨシュアの死から始まり、最後の士師とも呼ばれる預言者サムエルが生まれる前までの約200年間のイスラエルの歴史を記しています。士師(さばきつかさ)とは、ヘブル語聖書の原名によるもので、「ショーフェート・シャーフット」。その意味は、直訳すると「治める」「さばく」ですが、士師(さばきつかさ)というのは、裁判官というよりは、指導者、支配者、或は、今日のテキストにも出てきた救助者という意味になると思います。「士師記」には、イスラエルと外敵との戦いを指導した合計12名の士師の姿が記録されています。その内、大士師と呼ばれるのは、今日の主人公であるオテニエル、そしてエフデ、バラク、ギデオン、エフタ、サムソン。小士師はシャムガル、アビメレク、トラ、ヤイルなどで、各部族から一名ずつの士師が出たと考えられています。

<本論>
1、悪循環

「士師記」の前の「ヨシュア記」はイスラエルのカナン征服の記録と言うこともできますが、モーセの後継者ヨシュアに率いられたイスラエルの民(十二部族)は、約束の地カナンを攻め取っていきます。そこには数々の挫折や失敗もありましたが、神は約束してくださった通りに、次第に彼らの領土を拡げてゆかれます。ただ、偉大な指導者であったヨシュアも、最後に致命的な失敗を犯してしまうんですね。否、それは主の御心であったのかもしれませんが、彼は、自分の後継者を育てることなく、亡くなってしまうんです。それで、イスラエルの民は、十二部族全体をまとめてくれるような指導者を失い、各部族がてんでバラバラな行動をとるようになります。その経緯を、聖書は次のように記しています。

『主のしもべ、ヌンの子ヨシュアは百十歳で死んだ。人々は彼をガアシュ山の北、エフライムの山地にある、彼の相続地の領域にあるティムナテ・ヘレスに葬った。その世代の者たちもみな、その先祖たちのもとに集められた。そして彼らの後に、主を知らず、主がイスラエルのために行われたわざも知らない、別の世代が起こった。すると、イスラエルの子らは主の目の前に悪であることを行い、もろもろのバアルに仕えた。彼らは、エジプトの地から自分たちを導き出した父祖の神、主を捨てて、ほかの神々、すなわち彼らの周りにいるもろもろの民の神々に従い、それらを拝んで、主の怒りを引き起こした。彼らが主を捨てて、バアルとアシュタロテに仕えたので、主の怒りがイスラエルに向かって燃え上がり、主は彼らを略奪する者の手に渡して略奪されるままにし、周りの敵の手に彼らを売り渡された。彼らはもはや、敵に立ち向かうことができなかった。彼らがどこへ出て行っても、主の手は彼らにわざわいをもたらした。主が告げ、主が彼らに誓われたとおりであった。彼らは大いに苦しんだ』(士2:8~15)。

まさに、危機的状況ですね。そんな時、彼らを助けるために起こされたのが士師と呼ばれる人たちでした。

『そのとき、主はさばきつかさを起こして、略奪する者の手から彼らを救われた』(同2:16)。

しかし、残念ながら、そんな士師たちの活躍は、言わば、一代限りのものでした(同2:17~23)。その士師が亡くなると、また、元の木阿弥。この時代のイスラエルは、「悪循環」「負のスパイラル」と呼べるような状態であったと言うことができます。ただ、逆に言うと、そんな最悪の時代にも、神はその時々に応じて相応しい助け手を送ってくださり、さらに状況が悪化するのを防いでくださったということかもしれません。

2、カレブの同族ケナズの子

その士師たちの最初に登場するのが、今日の主人公、カレブの同族ケナズの子オテニエルです。「オテニエル」というのは「神の獅子(ライオン)」という意味だそうです。

9節の『同族』

ということばの上に※印があり、脚注に※直訳「弟」とありますが、彼は、あの「民数記」13章に登場するエフネの子カレブの弟でした(民数13:30・14:6~9)。(注)甥という説もあります。
私は、若い頃、確かKGKでの聖書の学びだったと思うんですが、「主の委員カレブ」という題でカレブのことを学んだことがあって、とても印象に残っているんですが、モーセが、約束の地カナンを探るため、十二部族からそれぞれ一人を選んで十二人を斥候として遣わした時、十人は先住民が強そうなのを見て尻込みするんですね。しかし、二人だけが主の約束を信じて進もうと進言するんです。その一人はヨシュア、そして、もう一人がカレブだったんです。「ヨシュア記」14章に、ずっと後の時代、年老いたカレブがヨシュアに語ったことばがあります。

『「ご覧ください。イスラエルが荒野を歩んでいたときに、主がこのことばをモーセに語って以来四十五年、主は語られたとおりに私を生かしてくださいました。ご覧ください。今日、私は八十五歳です。モーセが私を遣わした日と同様に、今も私は壮健です。私の今の力はあの時の力と変わらず、戦争にも日常の出入りにも耐えうるものです。今、主があの日に語られたこの山地を、私に与えてください。そこにアナク人がいて城壁のある大きな町々があることは、あの日あなたも聞いていることです。しかし主が私とともにいてくだされば、主が約束されたように、私は彼らを追い払うことができます。」』(ヨシュ14:10~12)。

このカレブのことばを読むと、私は、いつも凄いなぁと思うと同時に励まされるんですが、今日の主人公オテニエルも、そんな兄の信仰を受け継いだような勇士でした。

3、救助者オテニエル

今日のテキストの3章8節には、イスラエルが外国の王クシャン・リシュアタイムに売り渡されたのは、神の御心であったことが書かれています。私たちにも、「なぜ、神はこんなことを許されるのか?」と思うようなことが起きる時があります。そんな時、私たちはすぐに疑心暗鬼になってしまうんですが、しかし、その時には分からなかったとしても、その思いがけない出来事も、主の御手の中で起こっているのだということを覚えたいですね。「アドナイ・イルエ(主の山には備えあり)」。オテニエルはまさに、イスラエルを、そんな危機的状況から助け出すために起こされた人でした。10節をもう一度ご覧ください。

『主の霊が彼の上に臨み、彼はイスラエルをさばいた。彼が戦いに出て行くと、主はアラムの王クシャン・リシュアタイムを彼の手に渡されたので、彼の手はクシャン・リシュアタイムを抑えた』(士3:10)。

主の霊が彼の上に臨み。新約聖書で、パウロは、

『あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや自分自身のものではありません』(Ⅰコリ6:19)

と言いましたが、ここで主の霊がオテニエルの上に臨んだというのは、彼が神から、イスラエルを救い出すという特別な使命をいただいたということではないかと思います。そして、彼が行ったこと、その順序は、まずイスラエルをさばくことでした。それから敵との戦いに出て行ったんです。それは聖書に書かれてあるように、イスラエルの危機の原因は、本質的には外から来たのではない。彼らの内側に、彼らが神に対して悪を行い、主を忘れ、バアルやアシェラという偶像の神々に仕えたということにあったからですね。彼らがそのような生き方を悔い改め、神に立ち返る事なしに、いくら外敵と戦い、目の前の問題を解決しよう頑張っても、すべては無駄なこと、徒労でしかない。オテニエルはそのことをよく知っていたからこそ、まず、自分の同胞であるイスラエルの人たちをさばいたのではないでしょうか。

<結論>

私たちも、同じように、大きな問題にぶち当たることがあります。皆さんの中には、「今がその時だ」という方もおられるかもしれません。そんな時、私たちは、ともすれば、目の前の問題ばかりに目が、心が奪われ、その問題の根本原因がどこにあるのかということを見落としてしまう。そんなことはないでしょうか?
オテニエルが、まずイスラエルの民をさばき、それから戦いに出て行って大勝利を収めたように、私たちも、日々、自らを見つめ直し、私たちに課せられた人生の戦いに出かけて行こうではありませんか。祈りましょう。

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新聖歌

開会祈祷後:110番、メッセージ後:460番

聖書交読

詩編79篇 1~13節

2021年教会行事

11月10日(水)オリーブ・いきいき百歳体操(10 時~11時)

#53-2789

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