備えたもう神

メッセージ

<ヨナ書 1章17節>
メッセージ:牧師:砂山 智

開会聖句

福音は、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、信じるすべての人に救いをもたらす神の力です。

<ローマ人への手紙1章 16節後半>

メッセージ内容

Youtube動画

 

動画公開が遅れて申し訳ありません。 メッセージ動画公開:7/31 PM 9:57 


メッセージ原稿を公開しました。家庭での礼拝に用いてください。  
<序論>  

from:こひつじイラスト


「ヨナ書」は旧約聖書では十二小預言書の一つです。そのユニークで奇想天外な物語は紙芝居などで教会学校の子どもたちに語るに相応しい内容と言えますが、ユーモアとアイロニー(皮肉)、そしてペーソス(哀感)も感じさせる、大変親しみやすい物語であると思います。それは主人公であるヨナのキャラクターによるところが大きいのではないでしょうか。

『アミタイの子ヨナに、次のような主のことばがあった。「立ってあの大きな都ニネベに行き、これに向かって叫べ。彼らの悪がわたしの前に上って来たからだ』(ヨナ1:1~2)。

ニネベというのは、今のイラク北部にあるイラク第二の都市モスルのチグリス川東岸の地域です。モスルは、2014~2017年まで、あの「イスラム国(IS)」の支配下にありました。イラクで「イスラム国」が拠点とした最後の主要都市でした。
先程、「ヨナ書」冒頭のみことばをお読みしましたが、ヨナはこのことばを聞いて本当に驚いたでしょう。「なんでなん?」と思ったことでしょう。なぜなら、当時のニネベは、祖国イスラエルの敵アッシリアの主要都市の一つだったからです。ニネベは後にアッシリアの都となりますが、それはヨナの時代より少し後のことになります。

<本論>
1、「ヨナ書」の時代背景

この「ヨナ書」の時代背景、ヨナが生きた時代というのはどのような時代であったかということについては、「ヨナ書」自体からは伺い知ることはできません。その唯一の手掛かりは、「Ⅱ列王記」14章にあります。14章23節からご覧ください。

『ユダの王ヨアシュの子アマツヤの第十五年に、イスラエルの王ヨアシュの子ヤロブアムが王となり、サマリアで四十一年間、王であった。 彼は主の目に悪であることを行い、イスラエルに罪を犯させたネバテの子ヤロブアムのすべての罪から離れなかった。彼は、レボ・ハマテからアラバの海までイスラエルの領土を回復した。それは、イスラエルの神、主が、そのしもべ、ガテ・ヘフェル出身の預言者、アミタイの子ヨナを通して語られたことばのとおりであった』(Ⅱ列王14:23~25)。

同じ名前が出てくるのでややこしいのですが、23節のヤロブアムというのはヤロブアム二世のことで、24節のネバテの子ヤロブアムというのは北イスラエル最初の王ヤロブアム一世のことです。また、ここに出てくるヨナと「ヨナ書」のヨナとは別人であるという説もありますが、私は、恐らく同じ人物であろうと思っています。この時代(紀元前786~746年)、イスラエルは、北と南に分裂していました。北は北イスラエル、そして、南は南ユダですね。ヨナは北イスラエルで活躍した預言者であったようです。そして、今、出てきましたヤロブアム二世ですが、彼は24節にあったように、善い王様ではなく悪い王様でした。けれども、本当に不思議なことに、その時代に北イスラエルは全盛期を迎えるんです。彼は、四十一年もの長きに渡って王座に君臨し、レボ・ハマテからアラバの海まで、これはあの偉大なダビデ・ソロモンの時代に匹敵するものであったそうですが、自国の領土を回復したのです。
この一事を見ても、神のなさることは、私たち人間には分からない。それを評価することは本当に難しいことだと思わされます。ですから、一喜一憂しても仕方がないんですね。それでも一喜一憂してしまうんですが。ヨナという人は、このように北イスラエルが全盛の時代に生き、25節にあったように、その領土が素晴らしく回復すると語った預言者でした。ある注解書は、だから彼は愛国的な預言者であったと言えると書いていました。恐らく、ヨナ自身、同胞たちから愛国者として称賛されたのではないでしょうか。以前、お話ししたエレミヤとは全く正反対の預言者人生と言えるかもしれません。ただ、この「ヨナ書」で描かれているヨナは、エレミヤとはまた別の意味で神に従って生きる者の厳しさを体験することになります。

2.主の御顔を避けて

1章3節を見ると、ヨナは神からの命令を無視し、ニネベとは全く逆方向のタルシシュ(一説には今のスペイン辺り?)まで逃げようとします。しかし、その船旅の途中で神は大嵐を起こされます。周りが大騒ぎする中、ヨナは一人だけ船底でぐっすり寝入っていたと記されています。肚が座ってますよね。しかし、だれのせいでこうなったかくじを引いたらヨナに当たってしまうんですね。それで、ヨナは皆に弁明しなければならなくなるのです。9節をご覧ください。

「私はヘブル人です。私は、海と陸を造られた天の神、主を恐れる者です」(ヨナ1:9)。

よくもまあぬけぬけと、どの口が言うんや、と思いますが、むしろヨナよりも異邦人である船員たちのほうが信仰的・理性的なように見えます。そして、すったもんだの末、ヨナは海に投げ込まれてしまうのです。嵐は静まりますが、恐らく船員たちも、ヨナ自身も、もう、これで終わり、ジ・エンドと思ったことでしょう。しかし、そこに、神の不思議な御手が差し伸べられます。17節。

『主は大きな魚を備えて、ヨナを呑み込ませた。ヨナは三日三晩、魚の腹の中にいた』(同1:17)。

3. ニネベの人たちの悔い改め

2章には、三日三晩、神が備えてくださった魚の腹の中にいて、いのちが助かったことを感謝し、神を賛美するヨナの祈りが記されています。そして、その祈りの最後は、

『救いは主のものです』(ヨナ2:9b)

ということばで閉じられます。これは「救いは主から来る」とも訳せるんですが、神はご自身への信頼を告白したヨナの祈りをお聞きになられたのでしょう。魚に命じて、ヨナを陸地に吐き出させます。そして、彼のニネベでの働き(宣教)が始まるのですが、その宣教活動も、非常に簡単と言うか、あっさりしているような印象を受けます。少し飛びますが、3章4節をご覧ください。

『ヨナはその都に入って、まず一日分の道のりを歩き回って叫んだ。「あと四十日すると、ニネベは滅びる。」すると、ニネベの人々は神を信じ、断食を呼びかけ、身分の高い者から低い者まで粗布をまとった』(ヨナ3:4~5)。

何か不思議ですよね。なんでニネベの人たちは、こんなに簡単にと言うか、素直にヨナのことばに聞き従い、悔い改めたのでしょうか?アッシリア(ニネべ)のほうがイスラエルよりもずっと強い国じゃなかったのと?「神がそのようにされた」と言ってしまえばそれまでなんですが、実は歴史的に見て、このタイミングが絶妙だったみたいなんです。
アッシリアの歴史は古く、紀元前2000年以上前まで遡れるんですが、その全盛期は、今朝の時代の少し後のセンナケリブ王(紀元前705~681年)の時代と言われています。彼が首都をニネベに定めたという記録が残っています。そして。先ほどお読みした「Ⅱ列王記」14章の少し後の18章には、センナケリブの先代の王シャルマネセルの時代に、北イスラエルはアッシリアによって滅ぼされたことが書かれているのですが、これはヨナの時代から数十年後のことで、ヨナの時代、先程お話ししたヤロブアム二世の時代ですが、この頃は北イスラエルの方が勢力が盛んで、アッシリア(ニネべ)は余り元気がなかったみたいなんですね。どうも国全体が停滞・腐敗し、乱れきっていたようです。だから、ニネベの人たちも、自分たちの悪を自覚していたと言うか、ヨナから発せられた警告を聞いた時、これは何とかしないといけない、このままでは自分たちは滅びてしまうぞ、と素直に悔い改めることができたのではないかと思うのです。

<結論>

さて、今朝のメッセージの題は、「備えたもう神」とさせていただきましたが、この「備える(マーナー)」ということばは、「ヨナ書」のキーワードと言えます。
神は、ニネベの人たちが心から悔い改めたのをご覧になって、彼らを滅ぼすのを思い直されました。しかし、ヨナはそれを見て、とても嘆き、怒ります。4章2,3節。

「ああ、主よ。私がまだ国にいたときに、このことを申し上げたではありませんか。それで、私は初めタルシシュへ逃れようとしたのです。あなたが情け深くあわれみ深い神であり、怒るのに遅く、恵み豊かで、わざわいを思い直される方であることを知っていたからです。ですから、主よ、どうか今、私のいのちを取ってください。私は生きているより死んだほうがましです」(ヨナ4:2~3)。

昨年の10月に「思い直される神」と題して「出エジプト記」から話をさせていただいたんですが、その中で、このヨナの怒りに注目しました。覚えておられるでしょうか?一見、不信仰にも思えるヨナの怒りですが、それは、彼が信仰者として正直に神と向き合った姿と言えるのではないかと。怒りを、人に、家族に、教会員、同労者に持って行ったら、それは悪の連鎖になってしまうけれども、それを断ち切るために、神はヨナがご自身に怒りを向けることを待っておられたのではないかと。神への怒りは、時に、神との新しい交わりの展開を促し、神とのパイプを広げ、私たちに思いがけない恵みをもたらしてくれます。そこには計り知れない神のご計画が隠されているのです。
さて、ヨナは都の東の方に仮小屋を作って、そこでニネベの町で何が起こるかを見極めようとします。執念深いですね。そんなヨナに対して、神は一本の唐胡麻を備え(ヨナ4:6)、そして、一匹の虫を備え(同4:7)、更には、焼けつくような東風を備えられて(同4:8)、彼にご自身のみこころを示されるんです。
この「備える」と訳されたヘブル語「マーナー」には、「数える、定める、任命する」などの意味もあるようで、日本語の聖書でも様々に訳されています。例えば新共同訳では「命じて」。バルバロ訳では「送られて」。西村俊昭訳では「定めて」と訳されています。
つまり、神は、大きな魚、そして唐胡麻の木、一匹の虫、焼けつくような東風など、ご自身が造られた様々な被造物を「備えて」、或は「命じて」「送られ」、そして「定めて」、ヨナを導かれたのです。
私たち一人一人の人生の旅路も同じではないでしょうか。それは決して、どこに行くか分からないような「運命」というものに翻弄される旅ではありません。確かにこの歴史を支配し、導いておられる神、「備えたもう神」に導かれて歩む旅です。今週も一喜一憂せず、そのことを信じて歩んで行きましょう。

メッセージ内容のダウンロード(PDF118KB)

新聖歌

開会祈祷後:204番、メッセージ後:433番

聖書交読

詩編109篇 1~5節

2022年教会行事

8月3日(水)オリーブ・いきいき百歳体操(10時~11時)

#54-2827

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