ベタニアの食事会

メッセージ

<ヨハネの福音書 12章1~8節>
信徒:K

開会聖句

次に、偶像に献げた肉についてですが、「私たちはみな知識を持っている」ということは分かっています。しかし、知識は人を高ぶらせ、愛は人を育てます。

<コリント人への手紙第一 8章1節>

メッセージ内容

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 メッセージ原稿を公開しました。 
 

<はじめに>  
・先月は教団の講壇交換で休みでした。久しぶりのヨハネで、私もだいぶ忘れていたのですが、先週、先生が説教の中でヨハネにふれてくださいました。目の前には7つのパンと少しの魚しかなかったのに、イエスさまは空腹で倒れそうな数千人のための十分な食べ物があることがわかっていたので、神さまに感謝の祈りをささげられたという話でした。「感謝の…」は「ユーカリステオー」というギリシャ語で、ラザロ復活のときにも使われていたと教えてくださいました。墓の周りにいる人たちは腐敗が始まっていると思っていたけれど、イエスさまは石を取り除けるように言い、「父よ、わたしの願いを聞いてくださったことを感謝します。…ラザロよ、出てきなさい。」と言われました。今日はその続きです。イエスさまは一旦、危険なベタニアを離れられ、過越の祭の6日前にまた来られました。そのとき催された夕食会のお話です。今日はここから、2つの勧めをしたいと思います。「感謝をあらわすこと」「人を育てること」。

<本論>
Ⅰ.ベタニアの食事会で、三兄弟が三人三様の方法で感謝を表した

1~3節 「マルタは給仕し、ラザロはイエスとともに食卓に着いていた人たちの中にいた。」人々はイエスのために、そこに夕食を用意した。」

ラザロ復活の奇跡の噂が、祭りもあって世間に広まりつつある頃。人々はどうぞどうぞとイエスさま一行を歓迎し、一番いい席にお連れしたことでしょう。マルタはいつものように、しかし以前のように妹への不満を持つことなく、弟がよみがえった喜びとイエスさまへの感謝一杯の思いで忙しく給仕をしています。 ラザロは、主役と言ってもいいのに、目立たない人ですね。聖書にはラザロは一言も台詞がありません。控えめな、口数の少ない人です。自ら、率先して証をするタイプではなかったと思いますが、しかし、誰の目にもはっきりと、墓の中からよみがえらされた彼の存在そのものが、イエスさまのメシアの力を証し、神さまを讃えています。ラザロという名は「神助けたもう」という意味ですが、本当にその通りで、彼がそこにいることが、神さまをほめたたえていました。
ところで、妹マリヤはどこに?イエスさまの話を聞くのが大好きで、弟が死んだときは泣いてばかりいたマリヤ。

3節「一方、マリヤは、純粋で非常に高価なナルドの香油を1リトラ取って…家は香油の香りでいっぱいになった。」

この行為について少し説明しましょう。

  1. 2千年前のイスラエルの女性にとって、それは何だったか。それは親が娘誕生の時から、将来の結婚に備え準備したもので、コツコツ貯めて買いました。値段は一年間の賃金収入ですから、マリヤたちは裕福な家庭の育ちのようです。香油の壷は普通の香油の壷とは違い、美しい模様が刻まれていました。両親の思いが詰まった贈り物であり、マリヤが大切にしてきた宝物であり、非常時の蓄えであったかもしれません。「一リトラ取って」とありますが、この壷は密封されていますので、少しずつとか残しておくことはできません。彼女はイエスさまのところに来て、ひざまずいて、壷を割って、全部を足に注いだのです。
  2. 当時の食事の様子は最後の晩餐のように机と椅子はなく、左肘を下に横たわり、右手で食べます。マルコ、マルタでは頭に注いでますが、どちらにしても不自然ではありません。
  3. 髪の毛で拭ったというのは、そのために束ねている髪をほどいたということです。これは女性にとって、とても恥ずかしい行為でした。女性は人前では髪の毛をほどくことはNGです。

後で賛美しますが、マリヤのことを題材にした新聖歌386「ナルドの香油」は讃美歌、聖歌、新聖歌に、歌詞もそのままで採用されていて珍しいと思います。原題「LOVE’S OFFERING」直訳は愛の神へのささげ物。マリヤは足に香油を注ぎました。ヨハネ13章に洗足の記事がありますが、足を洗うのは奴隷の仕事です。彼女は香油を足に注ぎ、髪の毛で拭うことで、イエスさまを「わが主」と告白し、「自分はあなたのはしためです。」と献身の気持ちを彼女なりに表したのだと思います。 多くの人たちに親しまれ長く歌い継がれてきた賛美ですが、それは当時の常識を破るような行為でした。しかし、マルタやラザロと同じように、イエスさまへの感謝を精一杯の表したものです。 ベタニアの3人は、感謝の心を、マルタは給仕という行動、ラザロは人々の中にいたというビーイング、マリヤはナルドの香油というささげ物という三人三様の方法で表しました。私たちも日々、神さまに生かされ、養われ、支えられていますが、次々起きる不安や問題で、感謝の心は忘れがちです。だからこそ、日々の生活の中で、自分なりの方法、ペースで、神さまへの感謝を表す生き方をしたいと思います。

Ⅱ.イエスは弟子たちが非難したマリヤの行為を喜んで受入れられた

4~6節 マリヤの行為を周囲の人はただただ驚いて見ていたと思います。マルタとラザロは驚いたけど、少し理解できたところはあったかもしれません。しかし、この行為を猛烈に非難した人物がいます。

5節「どうして、この香油を三百デナリで売って、貧しい人々にほどこさなかったのか。」

と、ここではユダだけが非難しているように見えますが、マタイ、マルコでは何人かの者も同じようにマリヤを責めます。そして、この香油事件が、ユダがイエスさまを祭司長たちに引き渡すキッカケとなっていきます。ヨハネにはその直接の取引の場面はありません。しかし、ラザロ復活のあとで、ベタニアの食事会があり、そこでマリヤの香油事件があるのはヨハネだけです。ヨハネがユダ1人を名指しで書いているのは、ユダの悪習慣「彼が盗人で、金入れを預かりながら、そこに入っているものを盗んでいたからであった。」を知っていて、のちの裏切り行為と結びつけているからです。だから、ユダの正当な5節の発言を、「彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではなく」と言いきっているのです。ユダは貧しい人のことを気にかけているようで、実は彼の心は支配しているのはお金でした。

「金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。」(Ⅰテモテ6:10)

今は、昔と違ってお金がなければ生活できませんから、お金への誘惑はもっと強いと思います。ですから、このことを私たちはしっかりと覚えておかなければなりません。

今日はもう一つの悪に注目したいのです。イエスさまはこれまで律法学者に対して、彼らが律法を守っているけど、本質を外していることを何度も指摘されました。つまり、規則を見て、人を見ていないのです。律法は人の幸せの為にあるのに、反対に苦しめていました。そして、弟子たちも同じことをします。施しをするという教えを優先し、それをしない人を裁いたのです。
パウロは生前のイエスさまに会ったことがなかったのですが、

使徒の働き20:35「このように労苦して、弱い者を助けなければならないこと、また、主ご自身が『受けるよりも与えるほうが幸いである』と言われたみことばを、覚えているべきだということを、私はあらゆることを通してあなたがたに示してきたのです。」(p278)

エペソ教会の人たちへの最後のことばです。不思議に、このみことばは福音書には見当たりません。しかし、パウロは「弱い者を助ける」「受けるより…」という教えを、イエスさまからの大切な教えとして、いつも心に留めてきたと言っています。
直弟子である十二弟子なら、なおさらでしょう。彼らは多くの機会に、貧しい人たちに施しをすることを教えられていたでしょう。しかし、その行為は知識になっていました。
今日の開会聖句後半「知識は人を高ぶらせ、愛は人を育てます」。イエス直伝の知識は弟子たちを高ぶらせ、「なんのために、こんなに無駄なことを」とマリヤを裁き非難しました。それはマリヤを否定し、心を殺す行為です。知識が増すことで高ぶってしまう、これも人間の弱さ、陥りやすい悪だと思います。最近宗教2世の問題や、葬儀のことを聞くことがありました。私たちは神さまのことよく知っています。専門家です。でも、その知識で人を見下したり、相手の気持ちや意見をないがしろにしたことはないでしょうか。

<終りに>

最後にイエスさまの対応を見ましょう。

7~8節「そのままさせておきなさい。マリアは、わたしの葬りの日のために、それを取っておいたのです。…」

並行記事では、「なぜ困らせるのですか。彼女は自分にできることをしたのです。」と言われました。 マリヤは本当にイエスさまのもうすぐの葬りを知っていてそうしたのか?私は疑問に思っています。しかし、イエスさまは、弟子たちが非難した彼女の行為を、もうすぐ十字架にかかって葬られる自分に共感し、思いやってくれる行為だと喜ばれました。ナルドの香油はアロマとして心を落ち着かせる働きがありました。イエスさまは私たちと同じ人間ですから、緊張、恐れを感じておられたと思います。ですから、「わたしの葬りの日のため、それを取っておいた」と、最大の評価を与え、責められ、何も言えず、窮地に陥っているマリヤを救われました。イエスさまのように、愛の視点で人を見ることは、人を育てることです。知識が増えると成長した気になりますが、人は理解され、共感される豊かな人間関係の中で、いやされ育っていくことを忘れずにいたいと思います。

メッセージ内容のダウンロード(PDF262KB)

新聖歌

開会祈祷後:20番、メッセージ後:386番

聖書交読

詩編126篇 1~6節

2022年教会行事

9月7日(水)オリーブいきいき百歳体操(10時~11時)

#54-2844

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