夜空の賛歌

令和5年5月8日(月)より新型コロナウイルス感染症が5類感染症へ移行することに伴い、礼拝での規制を緩和します。具体的には、会衆讃美は全節歌唱する、省略していた聖書交読を復帰し、司会者朗読→会衆朗読を交互に行います。
なお、礼拝中のマスク着用は引き続き推奨、「平和の挨拶」の握手の自粛は今後も実施しますので、ご理解とご協力を宜しくお願いいたします。

メッセージ

<詩編 1篇1~6節>
牧師:砂山 智

開会聖句

主よ 私たちの主よ あなたの御名は全地にわたりなんと力に満ちていることでしょう。

<詩篇 8篇1節前半・9節>

メッセージ内容

Youtube動画

 メッセージ動画公開:7/14 PM 10:35
 


 メッセージ原稿を公開しました。  

<序論>  
・今朝の詩人は、天地創造の業に想いを馳せ、すべての創造主である神を褒め讃えつつ、その創造の業における私たち人間に思いを致すと同時に、小さな存在にすぎない人間を心に留めてくださる偉大な神の知恵・愛について歌っています。「日々のみことば」の執筆者の方は、表題に出てくるギテトということばについて、音楽符号と思われますが不明です、と書いておられましたが、ある注解書に、それはぶどう酒を造るための酒ぶねのことで、そのことから、この詩は、ぶどうを搾る時に歌われたものではないかとの説明がありました。また、学者の中には、ユダヤの秋の新年祭「仮庵祭」において歌われた夜の詩(3節から)ではないかと考える人もいるみたいですが、それも断定はできないようです。

<本論>
1.あなたの御名は

この詩篇を読んで、まず気づくことは、最初と最後が同じ文になっていることではないでしょうか。ちょうど、サンドウィッチで言えばパンにあたるわけですが、それは詩においては強調する際に用いられる手法ですので、この最初と最後のことばは、今朝の詩篇の中心テーマだと言えるでしょう。

『主よ 私たちの主よ あなたの御名は全地にわたり なんと力に満ちていることでしょう』(詩8:1a、8)。

詩人は、今、神に向かって「私の主よ」ではなく、「私たちの主よ」と呼びかけています。そのことから、この詩は、先程も申し上げましたように、公的な場(仮庵祭)で歌われたものではないかと推測することができます。そして、あなたの御名、お名前は全地にわたり、なんと力に満ちていることでしょう。かつて神は、ご自身のお名前を、燃える柴の中からモーセに啓示されました。

『神はモーセに仰せられた。「わたしは『わたしはある』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエルの子らに、こう言わなければならない。『わたしはある』という方が私をあなたがたのところに遣わされた、と。」』(出エ3:14)。

『わたしはある』という神の御名には、わたしは過去に存在し、現在も存在し、未来永劫に存在するという意味が込められています。それは、神が、誰にも依存せず、自ら存在する方であり、唯一独自の方であり、永遠に存在する方であるということを表すのに最もふさわしい名前だと言えるでしょう。またそれは、神名を表す、所謂、聖四文字(ヤハウェ)に由来するものだと言われています。(新約では「エゴー・エイミー」)。

2.幼子たち、乳飲み子たちの口を通して

そして、2節。

『幼子たち 乳飲み子たちの口を通して あなたは御力を打ち立てられました。あなたに敵対する者に応えるため 復讐する敵を鎮めるために』(詩8:2)。

イエス様は、この「詩篇」8篇のみことばを宮清めの際に引用され、時のユダヤの宗教指導者たちと対峙されました。

『ところが祭司長たちや律法学者たちは、イエスがなさったいろいろな驚くべきことを見て、また宮の中で子どもたちが「ダビデの子にホサナ」と叫んでいるのを見て腹を立て、イエスに言った。「子どもたちが何と言っているか、聞いていますか。」イエスは言われた。「聞いています。『幼子たち、乳飲み子たちの口を通して、あなたは誉れを打ち立てられました』とあるのを、あなたがたは読んだことがないのですか。」』(マタ21:15~16)。

幼子たち、乳飲み子たちというのは、この世では最も弱く、取るに足らない存在です。しかし、神は、そのような者をこそ用いて、ご自身の誉れである御力を打ち立てられる。敵対する者に応えられる方だと、イエス様は彼らに示されたのです。

3.夜空のむこう

そして、3節以降ですが、ここから詩人は、神に造られた人間に焦点を当てます。

『あなたの指のわざである あなたの天 あなたが整えられた月や星を見るに 人とは何ものなのでしょう。あなたが心に留められるとは。人の子とはいったい何ものなのでしょう。あなたが顧みてくださるとは』(詩8:3~4)。

皆さんもこれまで、色々な機会に、大自然の恵みと言うか、その雄大さや素晴らしさに感動し、心を打たれたというご経験をされたことがあるでしょう。そんな雄大な大自然、大宇宙と比べて、自分というのは、なんとちっぽけな存在なのだろうかという。(槍ヶ岳の思い出)。この詩人も、人々が寝静まった深夜、一人夜空を見上げて、月の美しさや星の美しさ、広大さに心打たれ、ちっぽけな自分、そして人間というものを改めて思わされた。そんな経験を歌ったのでしょう。しかし、それと同時に、彼は、神は、そんなちっぽけな自分を心に留めてくださる方だと歌うのです。それは、なぜかは分かりませんが、夜空の月や星を眺めていた時、この詩人の心の中に、そのような想いと言うか、感動が込み上げてきたのです。ですから、彼は、その感動を歌わずにはおれなかったのです。先週の説教でもお話しした、あのアブラハムも同じような経験をしたことが記されています。

『すると見よ、主のことばが彼に臨んだ。「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出てくる者が、あなたの跡を継がなければならない。」そして主は、彼を外に連れ出して言われた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えられるなら数えなさい。」さらに言われた。「あなたの子孫は、このようになる。」アブラムは主を信じた。それで、それが彼の義と認められた』(創15:4~6)。

SMAPの曲に「夜空ノムコウ」という曲があります。SMAPが解散してからは、作詞者のスガシカオ自身が歌っているのを耳にすることが多いのですが、最近、あるテレビの番組で流れているのを聴いて、良い曲だなぁ、と思いました。夜空には、何か私たちの心を深い思索へと誘う神秘的な力があるような気がします。

<結論>

そして、この詩篇の後半部分ですが、このみことばも新約の「へブル」で引用されています。

『ある個所で、ある人がこう証ししています。「人とは何ものなのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とはいったい何ものなのでしょう。あなたがこれを顧みてくださるとは。あなたは、人を御使いよりわずかの間低いものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせ、万物を彼の足の下に置かれました。」』(へブ2:6~8a)。

今朝の「詩篇」にあった『人の子』というのは私たち人間のことでしたが、今、お読みした個所の『人の子』とは、イエス様を指していると解釈されています。つまり、イエス様、神のひとり子である方が、私たち人間の救いのために、私たち人間の形をとり、苦難を受け入れられたという、謙卑(けんぴ)の姿を述べたものです。そして、この「へブル」2章の最後には次のように記されています。

『イエスは、自ら試みを受けて苦しまれたからこそ、試みられている者たちを助けることができるのです』(同2:18)。

最後になりますが、私たちも、疲れた時。もう、なにか、誰にも会いたくないなぁ、と一人になりたいと思う時もあるでしょう。そんな時、今朝の詩人のように。ふっと夜空を見上げて、光り輝く月や星を仰ぎ見ることで、このちっぽけな自分への神様の愛を感じ、人となって私たちの世界に来てくださったイエス様のことを思い浮かべ、力をいただいて、前を向いて歩き出してゆくことができれば、と思いました。

メッセージ内容のダウンロード(PDF98KB)

新聖歌

開会祈祷後:新聖歌8番、メッセージ後:新聖歌22番

聖書交読

詩編23篇 1~6節

2026年教会行事

7月15日(水)オリーブ・いきいき百歳体操 10時~11時

#58-3033

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