主を恐れる者

令和5年5月8日(月)より新型コロナウイルス感染症が5類感染症へ移行することに伴い、礼拝での規制を緩和します。具体的には、会衆讃美は全節歌唱する、省略していた聖書交読を復帰し、司会者朗読→会衆朗読を交互に行います。
なお、礼拝中のマスク着用は引き続き推奨、「平和の挨拶」の握手の自粛は今後も実施しますので、ご理解とご協力を宜しくお願いいたします。

メッセージ

<詩篇 103篇1~22節>
牧師:砂山 智

開会聖句

しかし 主の恵みはとこしえからとこしえまで 主を恐れる者の上にあり 主の義は その子らの子たちに及ぶ。

<詩篇 103篇17節>

メッセージ内容

Youtube動画


公開が遅れて申し訳ありません。 メッセージ動画公開:4/13 PM 11:24
 


 メッセージ原稿を公開しました。  

<序論>
・「詩篇」は150篇までありますが、今朝の103篇は、その中で最も美しい詩篇と言われています。そして、その最も美しい詩篇には、今朝の開会聖句の17節、少し前の11節、13節にも「主を恐れる者」ということばが出てきます。今朝は、「主を恐れる者」と題して、皆さんとともにみことばに耳を傾けたいと願っています。

<本論>
1.今日という日

1~5節までは、この詩人が経験した個人的な祝福の想起です。この詩篇には「ダビデによる」という表題がつけられています。150ある詩篇の内、ダビデの作という表題がつけられている詩篇は73あり、それらの多くはダビデ自身の作と思われますが、あるものは後代の作で、ダビデにささげられた詩篇という意味なのかもしれません。仮に今朝の103篇がダビデの作であったとして、彼の生涯を振り返ったとき、まさに「山あり谷あり」、波乱万丈の生涯であったことを思わされます。そして、そのことは、その内容やスケールは違っていたとしても、ここにおられる皆さんお一人一人の歩んでこられた道でもあるでしょう。「私はおかげさまで、ずっと順風満帆、平穏無事な人生を歩んできました」という方は、恐らく一人もおられないのではないでしょうか。それぞれがそれぞれの人生において、苦難というものを経験してこられたと思います。もちろん、私もその一人なんですが、そのような経験を通して改めて気づかされたことがありました。それは、先週もお話ししました、今日という日の大切さでした。「詩篇」118篇24節に次のように歌われています。

『これは主が設けられた日。この日を楽しみ喜ぼう』(詩118:24)。

今まで自分は、このみことばの通りに、今日という日を楽しみ喜んで生きてきたのかなぁと。何かのきっかけで自分のいのちの終わりを意識した時、人はそんなことを考えるのかもしれません。今朝の詩人が15~18節で歌っていること。そして、17節にある「主を恐れる者」とは、そのように生きる人のことだと思わされました。

『人 その一生は草のよう。人は咲く 野の花のように。風がそこを過ぎると それはもはやない。その場所さえも それを知らない。しかし 主の恵みはとこしえからとこしえまで 主を恐れる者の上にあり 主の義は その子らの子たちに及ぶ。主の契約を守る者 主の戒めに心を留めて行う者に』(詩103:15~18)。

2.主は あわれみ深く 情け深い

そして、もう一つは、私たちは苦難や不安に直面させられた時、往々にして因果応報的な考え方というか、自分がこんな苦難に遭ったのは、神が自分の犯した罪に罰を与えようとしておられるからだという、罪意識に苛まれるということです。少し前に説教で取り上げた、あの「ヨブ記」のヨブもそうでした。ヨブは理不尽とも言える苦難に遭い、三人の友人たちからも責められ、もだえ苦しみ、自分の正当性を訴え、神を呪います。新約の福音書にも、病人や障害者がイエス様のところに連れて来られて、「彼は、なぜそんな病(障害)になったのでしょうか」と問答する場面があります。私も、過去の自分の人生を振り返って、あんなこと、こんなこと。他の人には分からなくても、隠すことができたとしても、神様と自分だけはよーく分かっているという罪の数々を思い出すのです。それは、霊的な痛み(スピリチュアル・ペイン)と言えばよいのでしょうか。上智大学教授でカトリック司祭のアルフォンス・デーケンという方がおられました。彼は、「死哲(死の哲学)のデーケン」と呼ばれ、日本に「死生学(サナトロジー)」というものを広めた第一人者なんですが、そんな彼が尊敬するマックス・シェーラーというドイツの哲学者が残したことばに「悔恨こそ自己再建を実現する偉大な力である」ということばがあります。私たちは過去に自分が犯した過ちやその過ちから生じた結果を無かったことにすることはできません。しかし、マックス・シェーラーは、悔恨によって過去の失敗や罪に新しい意義を与えることはできると言っています。失敗のない人生を送った人など一人もいませんが、過去の失敗から自分自身を再生していくために、まず必要なことは、過去の失敗を謙虚に認め、相手に与えたダメージをできる限り緩和させる努力。相手に赦しを願った上で、精一杯思いやりと愛の道を歩もうとすることでしょう。そして、何よりも、私たち信仰者は、神に赦しを請い願うことによって、その精神的な重荷から解放されることができると信じます。

『主は あわれみ深く 情け深い。怒るのに遅く 恵み豊かである。主は いつまでも争ってはおられない。とこしえに 怒ってはおられない。私たちの罪にしたがって 私たちを扱うことをせず 私たちの咎にしたがって 私たちに報いをされることもない。天が地上はるかに高いように 御恵は 主を恐れる者の上に大きい。東が西から遠く離れているように 主は私たちの背きの罪を私たちから遠く離される。父がその子をあわれむように 主は ご自分を恐れる者をあわれまれる。主は 私たちの成り立ちを知り 私たちが土のちりにすぎないことを 心に留めてくださる』(同103:8~14)。

ここには神の恵みと愛とが歌われています。今朝の説教題の「主を恐れる者」とは、神からの罰を恐れる者ではなく、神の恵みと愛とを信じ、そのことの故に、心から喜んで、恐れ畏みつつ神に従う者。シェーラーのことばを借りるなら、自分自身を再生する者。日々、新しく生まれ変わる者のことではないでしょうか。私の罪のために死んでよみがえってくださったイエス様。そのイエス様を最後の最後まで信じ、従ってゆきたいです。自分の心に、魂に、霊的な痛みが押し寄せて来た時、厚かましくもイエス様の御名を呼ばせていただきたいです。

<結論>
最後に、19~22節をもう一度読ませていただきます。

『主は 天にご自分の王座を堅く立て その王国は すべてを統べ治める。主をほめたたえよ 主の御使いたちよ。みことばの声に聞き従い みことばを行う 力ある勇士たちよ。主をほめたたえよ 主のすべての軍勢よ。主のみこころを行い 主に仕える者たちよ。主をほめたたえよ すべて造られたものたちよ。主が治められるすべてのところで。わがたましいよ 主をほめたたえよ』(詩103:19~22)。

メッセージ原稿のダウンロード(PDF90KB)

会衆讃美

開会祈祷後:新聖歌9番、メッセージ後:新聖歌171番

聖書交読

詩編51篇 1~9節

2024年教会行事

4月10日(水) オリーブいきいき百歳体操 10時~11時

#56-2915

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