悔い改めの詩[中止:家庭礼拝対応版]

新型コロナウイルス感染拡大により、政府から「緊急事態宣言」が発せられていることを受け、当教会も社会的責任を果たす意味で、5月3日(日)まで礼拝を休止します。
緊急事態宣言の延長が発表されれば、今後5月中の教会行事についても、中止となる可能性があります。
新しい情報はホームページでお知らせします。
本ページ内容は家庭礼拝に対応しています。

メッセージ

<詩編 6篇1~10節>
牧師:砂山 智 師

聖書箇所 エゼキエル書(新改訳2017版より引用)

6:1 主よ 御怒りで私を責めないでください。あなたの憤りで私を懲らしめないでください。
6:2 主よ 私をあわれんでください。私は衰えています。主よ 私を癒してください。私の骨は恐れおののいています。
6:3 私のたましいは ひどく恐れおののいています。主よ あなたはいつまで―。
6:4 主よ 帰って来て 私のたましいを救い出してください。私を救ってください。あなたの恵みのゆえに。
6:5 死においては あなたを覚えることはありません。よみにおいては だれが あなたをほめたたえるでしょう。
6:6 私は嘆きで疲れ果て 夜ごとに 涙で寝床を漂わせ ふしどを大水で押し流します。
6:7 私の目は苦悶で衰え 私のすべての敵のゆえに弱まりました。
6:8 不法を行う者たち みな私から離れて行け。主が私の泣く声を聞かれたからだ。
6:9 主は私の切なる願いを聞き 主は私の祈りを受け入れられる。
6:10私の敵が みな恥を見 ひどく恐れおののきますように。彼らが退き 恥を見ますように。瞬く間に。

開会聖句

同じように御霊も、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、何をどう祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです。

<ローマ人への手紙 8章26節>

メッセージ内容


<序論>  
5月前半は「詩篇」からです。150篇まである「詩篇」をテーマごとに分類するのは難しいのですが、「詩篇」には悔い改めの詩と呼ばれているものが7つあります。その最初のものが今日の第6篇です。この詩人は、病気と敵からの攻撃のゆえに、身も心も衰え果て、神からの助けを求めて祈ります。表題にはダビデの名前が記されていますが、ダビデ自身の作というよりも、ダビデの宗教体験から創作のヒントを得て作られた詩であると思われます。
今朝は、「悔い改めの詩」と題して、お家で礼拝しておられる皆さんとともに、みことばに耳を傾けたいと願っています。

<本論>
1、主よ あなたはいつまで

3節までを読むと、この詩人は、今、病の床に、それも死を待つような重い病の床にあることがわかります。そして、彼は、それが主からの懲らしめ、自らへの責めであると感じて、恐れおののいているのです。
今、世界中は新型コロナウイルスの脅威の只中にありますが、先日、私も、「もしかしたら・・・」という経験をしました。4月の最初の金曜日の夜、自宅で具合が悪くなり、翌朝、体温を測ると38度近くありました。そんなに高熱ではないのですが、私は普段の平熱が低めなので、倦怠感もかなりありました。咳や息苦しさはなかったのですが、とにかく時期が時期ですので、病院に行くことも控えて、ひたすら自宅の狭い一室に閉じこもって安静にしていました。そして、頭の中をよぎるのは、「もしコロナだったらどうしよう。教会の皆さんや家族に伝染していたら大変だ。急に容態が悪化したらどうなるんだろう。等々」。様々な思いが頭の中を駆け巡りました。もちろん、神様に癒してくださるように祈ったのですが、それと同時に、心の中で「がんばれ俺!俺の免疫力!」と、何度もテレビの映像で見たコロナウイルスを自分の免疫細胞が攻撃している様子をイメージしながら(?)、ひたすら寝ていました。幸い、翌日の朝には、熱は36度台まで下がり、その次の日には平熱まで下がったのですが、そのストレスは初めて経験するものでした。今は、コロナではなかったと思っていますが(検査していないので分かりませんが)、他人に伝染する恐れがある感染症というものの怖さを思い知らされました。また、敵の正体がよくわからないというのは本当に不安なものですね。この感染拡大は、或は緊急事態宣言は、いつまで続くのか。今日の詩人も、3節の最後で、「主よ あなたはいつまで―」と、神に訴えていますが、私たちにとって一番辛いことは、ゴールが見えない苦しみではないかと思わされます。

2、 死とよみ

そして、4節。この詩人は、自分に迫り来る恐怖に、主はどこに行かれたのか。すぐに帰って来て、私のたましいを救い出してください。あなたの恵みのゆえに、と祈ります。続く5節をご覧ください。

『死においては あなたを覚えることはありません。よみにおいては だれが あなたをほめたたえるでしょう』(詩篇6:5)。

「よみ(シェオール)」とは、この世を去った者の行く所で、帰ることのできない所を表しています。先週の説教で、「すべてのものが生きる」と題してお話ししました。イエス様は「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です」と言われましたが、神は、私たちがそのようにご自身のことを信じるようにと望んでおられます。辛い時、苦しい時、私たちの心は死とよみの力に飲み込まれてしまいそうになりますが、神のおられる所ではすべてが生きる。今、この時も、わたしは生きている者の神だと言われた方に信頼して、祈る者でありたいと願います。

3、 悲哀と苦痛

そして、6、7節で、この詩人の悲哀と苦痛は絶頂に達します。
ただ、この6節の「涙」は、単なる苦痛のゆえというよりも、この詩人の神に対する悔い改めの涙ではないかと言われています。
八木重吉という人の詩に、次のようなものがあります。

「病気して いろいろと自分の体が不安でたまらなくなると どうしても怖ろしくて寝つかれない しかししまいに キリストが枕元にたって じっと私をみていて下さるとおもうたので やっと落ち付いて眠りについた このさびしさを誰れに告ぐべきか 神に告ぐべし」。

八木重吉(Wikipediaより)

八木重吉は、明治31年の生まれで、学校を卒業後、英語の教師をしていましたが、24歳で結婚し、2人の子どもにも恵まれました。しかし、28歳の時、結核を患い、約1年間の闘病の末、天に召された夭折の詩人です。彼はクリスチャンの詩人で、多くの詩を残していますが、前掲の詩には「キリスト」という表題がつけられていました。もう一つ、「イエス」という表題がつけられた詩をご紹介します。

「イエスの名を呼びつめよう 入る息 出る息ごとに呼びつづけよう 怒どおりがわいたら イエスの名で溶かそう 弱くなったら イエスの名でもりあがって強くなろう きたなくなったら イエスの名できれいになろう 死のかげをみたら イエスの名を呼んで生きかえろう」。

<結論>

今日の詩人も、長いトンネルのような真っ暗闇を通り抜けた後で、やっと一つの確信へと導かれます。
8、9節のことばは、インマヌエルの主、いつも、どんな時にもともにいてくださる神を見出した詩人の喜びの叫びではないかと思います。神は、悩み苦しむ私たちから遠く離れたところにおられる方ではなく、今もすぐ近くにおられ、私たちの泣く声、切なる願いを聞き、祈りを受け入れてくださる方です。
この「詩篇」第6篇は悔い改めの詩と呼ばれている、と最初に申し上げましたが、悔い改めとは、自分の犯した罪、不信の罪を後悔し、嘆くことではなく、自分の生活の中で、神は私の泣く声を聞いてくださった、切なる願い、祈りを受け入れてくださったと、暗い世界、死とよみの世界から視点を移して、神の慈しみだけに目を注いで生きようとすることではないかと思います。今、多くの感染症の専門家がコロナウイルスとの共存を主張し始めていますが、私たちの世界からコロナウイルスを完全に無くしてしまうことができないのと同じように、私たちの人生から病や死を完全に無くしてしまうこともできません。しかし、自らの視点を移すことはできます。その時、今日の開会聖句にあるように、自分と同じような弱い人間ではなくて、御霊なる神ご自身が、弱い私たちを助け、とりなしてくださる、と聖書は言っているのです。私たちも、祈りましょう!

メッセージ内容のダウンロード(PDF101KB)

新聖歌

開会祈祷後:280番、メッセージ後:195番

聖書交読

詩編 19篇1~14節

2020年教会行事

5月6日(水)オリーブ・いきいき百歳体操はお休みです。
5月3日(日)までに予定されていた教会行事も全て中止となりました。

#52-2709

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