深い泥沼 大水の底から

8月22日(日)までの期間、大阪府に発出されている「蔓延防止等重点措置」に伴って、7月4日(日)より、礼拝を再開しましたが、8月2日(月)から9月12日(日)(8月31日(火)までの期間が延長)までの期間、再び緊急事態宣言の発出に切り替わるため、千里教会では感染状況を考慮し、8月8日(日)から9月12日(日)までの期間、対面での礼拝は中止し、オンライン礼拝として動画配信します。
対面礼拝休止期間は、当ホームページに掲載のメッセージ原稿やYoutube動画を活用いただき、それぞれのご自宅で礼拝をお捧げください。

メッセージ

<詩編 69章1~18節>
メッセージ:牧師:砂山 智

開会聖句

すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。

<マタイの福音書 11章28節>

メッセージ内容

Youtube動画


メッセージ動画公開:8/28 PM 8:43

メッセージ原稿を公開しました。家庭での礼拝に用いてください。 
 
<序論>  

・この「詩篇」の表題には『ダビデによる』とあります。「詩篇」を内容ごとに分けるのは難しいのですが、「詩篇」<第二巻>は今朝の69篇の少し後の72篇までで、その最後の20節には『エッサイの子ダビデの祈りは終わった』と書かれていました。特に、3~41篇、51~72篇は「ダビデ集」と呼ばれ、ダビデ自身の作、或いは、何らかの形でダビデに直接的に由来するものと考えられています。<第三巻>73篇以降にもダビデの名前が出てくるものはあるんですが、それらは恐らく、ダビデを偲んで、或いはダビデにささげるという意味で作られたものと思われます。
今朝は、『指揮者のために。「ゆりの花」のしらべに乗せて。ダビデによる』という表題がつけられた「詩篇」69篇から、「深い泥沼 大水の底から」と題して、皆さんとみことばに耳を傾けたいと願っています。

<本論>
1、水が喉まで入ってきました

今、この詩人は、たいへん困難な状況に直面しています。冒頭

1節の『神よ 私をお救いください。水が喉にまで入って来ました』

という訴えは、彼の切迫した状況をよく表していることばではないでしょうか。水が喉まで入って来て息をすることができない。もう溺れてしまう。今にも死んでしまいそうだ、ということですね。今なお、衰えを見せないコロナ感染症ですが、その一番の脅威は、深刻な肺炎を引き起こすことだと言われています。それは、ベッドの上にいるにもかかわらず、まるで水の中で溺れているかのように息ができない。そんな危険な状態だと聞いたことがあります。私たち人間は、動物もそうですが、水や食べ物が無かったとしても、一日や二日程度のことであれば命に係わるということは余りないでしょう。しかし、息ができなくなれば、生き物は、ほんの数分、長くても数十分で死んでしまいます。具体的な事情は分かりませんが、この詩人は、それほど追い詰められ、苦しんでいるんですね。

『私は深い泥沼に沈み 足がかりもありません。私は大水の底に陥り 奔流が私を押し流しています。私は叫んで疲れ果て 喉は渇き 目も衰え果てました。私の神を待ちわびて』(詩69:2~3)。

彼は、実際には、深い泥沼に沈み、大水の底に陥ったわけではないと思いますが、精神的、霊的に、自分はまさにそんな状態にあると表現しています。そしてさらに、詩人は、続く4節で、この自分が受けている苦しみには正当な理由はなく、多くの敵が自分を取り囲んで理不尽な攻撃を仕掛けてくる、と訴えます。

2、あなたの家を思う熱心が

表題にその名前が出て来るダビデは、まさにそのような苦しみを経験した人でした。彼は先代のサウロ王からゆえなく憎まれ、命をつけ狙われるという理不尽な攻撃を受け続けました。先程お読みした2~3節のみことばは、サウロとその手下に追われ、命からがらユダの荒野を逃げ惑ったダビデの心の叫びのようにも感じます。そして、それと同じように、否、それ以上に、敵からの理不尽な攻撃に苦しんだ人に、エレミヤという人(預言者)がいます。彼は「涙の預言者」と呼ばれていますが、神に召され、神のことばを語ったがゆえに多くの人々から憎まれ、「国賊」「非国民」と罵られました。聖書学者の中には、そのことのゆえに、この詩篇はエレミヤの作ではないかと考える人もいるそうですが、ただ、ダビデも、そしてエレミヤもそうであったように、この詩人は、すべてのことを敵のせいにして、自分の不幸・不運というものを嘆いてばかりではなかったのです。

『神よ あなたは私の愚かさをご存じです。私の数々の罪過は あなたに隠されていません』(詩69:5)。

そして、祈ります。

『万軍の神 主よ あなたを待ち望む者たちが 私のために恥を見ないようにしてください。イスラエルの神よ あなたを慕い求める者たちが 私のために卑しめられないようにしてください』(同69:6)。

私たちは、いわれのない苦しみに遭う時、つい「なんで、自分だけが…」と思ってしまいます。何か、被害者意識の塊のようになってしまう時もあるのではないでしょうか。しかし、この詩人にとって、自分の苦しみは、自分だけの苦しみではなく、同じ神の民である仲間たちの苦しみ、恥でもあったのです。前節の5節の、率直に自らを省みることばと合わせて、彼の真摯な信仰者としての姿勢を感じさせられます。そして、少し飛びますが9節。

『それは あなたの家を思う熱心が 私を食い尽くし あなたを嘲る者たちの嘲りが 私に降りかかったからです』(同69:9)。

このみことばは、新約聖書の「ヨハネの福音書」2章の、所謂「宮きよめ」の場面で、弟子たちがイエス様のなさったこと、神殿で商売をしている人たちを追い出し、両替人の金を散らし、その台を倒されたお姿を見て、思い起こしたみことばとして引用されています。それは、イエス様が、当時、強盗の巣のようになっていた神殿をきよめられたことで大祭司たちから憎まれたように、神の御前で正しく生きようとする人の努力は、この世、つまり罪の世界では、いつも正当に報われるわけではないということ。この後の10~12節に書かれてあるように、そのような努力は、嘲りや物笑い、時には酔っぱらいの戯れ歌のように扱われるのだ、ということですね。あのダビデも、エレミヤもそうでしたが、そのことを嫌と言うほど味わわれた方こそ、神のひとり子イエス様だったのです。

<結論>

そして、今日のテキストの最後、13~18節は、そんな詩人の神への切なる祈りになっています。

『しかし私は 主よ あなたに祈ります。神よ みこころの時に あなたの豊かな恵みにより 御救いのまことをもって 私に答えてください』(詩69:13)。

冒頭のことばは、「誰が分かってくれなくても、あなただけは分かってくださるでしょう」という詩人の切なる思いが溢れているように感じます。そして、16節。

『主よ 私に答えてください。いつくしみ深い あなたの恵みのゆえに。あなたのあわれみの豊かさにしたがって 私に御顔を向けてください』(同69:16)。

そして、18節。

『私のたましいに近づき これを贖ってください。そうして 私の敵から私を贖い出してください』(同69:18)。

この前の金曜日にオンラインで北部地区の牧師会があり、コロナ禍での各教会の状況の分かち合いや、今日の午後から、やはりオンラインで行われる「北部地区合同役員会」についての話し合いが行われました。お互い、ことばの端々に、長引くコロナ自粛による疲れや不安というものを感じさせられたのですが、それぞれが余り自覚はしていなくても、やっぱり疲れや不安というものが蓄積しているのかなぁ、ということを思わされました。その最後に、星田チャペルの田中師が、「我々牧師にも、やっぱりメンター(良き指導者、優れた助言者)というか、牧師の牧師が必要ですよね。最近、つくづく、そのように思わされています。そして、それはイエス様以外にはおられないということを」と言っておられたんですが、ホンマにそうやなぁと思わされました。年を取れば取るほど、人には言えないような問題。或はすぐには解決できないような問題を抱えて、本当に、イエス様の下に持ってゆく以外に、どうすることもできないなぁと、最近、つくづく思わされています。
今朝の開会聖句、イエス様のことばですが、30節までを読ませていただき、メッセージを閉じたいと思います。

『すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです』(マタイ11:28~30)。

メッセージ内容のダウンロード(PDF107KB)

2021年教会行事

週日の集会は、しばらくの間、お休みとさせていただきます。

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