なお、礼拝中のマスク着用は引き続き推奨、「平和の挨拶」の握手の自粛は今後も実施しますので、ご理解とご協力を宜しくお願いいたします。
メッセージ
<詩編 1篇1~6節>
牧師:砂山 智
開会聖句
「貧しい人たちは幸いです。神の国はあなたがたのものだからです。
<ルカの福音書 6章20節後半>
メッセージ内容
Youtube動画
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メッセージ原稿を公開しました。
<序論>
・「詩篇」はヘブル語で「テヒリーム」、その本来の意味は「賛歌」「賛美のことば」です。伝統的な立場では、その多くはダビデの作であると伝えられてきましたが、内容から見て、ダビデ自身が歌ったものは僅かで、ダビデを偲んで歌ったものが大部分ではないかと考えられるようになりました。「詩篇」を読んでいますと、時々、ドッキとするような、大阪弁で言う、えげつないことばが出てきます。何か聖書にはふさわしくないのではと思う時もありますが、ええかっこせずに、率直に神に全てを訴えている詩人の姿は、神への信頼感の裏返しと言えるようにも思えます。そして、そのことは、今を生きる私たちの信仰生活においても、大いに学ぶべき点ではないでしょうか。
1.幸せな牧師となるために
さて、先月、教団の牧師研修会と牧師会が能勢川キャンプ場でありました。私はZOOMでの参加でしたが、講師である内田和彦先生が、三回に渡って「幸せな牧師となるために」というタイトルで講義を行ってくださいました。なかなかインパクトのあるタイトルだったみたいで、講義の前に先生のことを紹介した牧師が「もう、このタイトルで教えられたような気がします」と言っていたのを覚えています。内田先生は79歳になられた今も、JECA(日本福音キリスト教会連合)の前橋キリスト教会で牧師としてご奉仕されています。先生の業績でよく知られていることは、「新改訳聖書」の翻訳者としての働きかと思いますが、今回の講義では、特にご自身の三つの教会での牧会経験を通して示されたことを具体的に話してくださいました。それは、この私にも同じようにできるかどうかは別にして、本当にそうだなぁと思えることばかりでした。その講義の最後、「良い牧者イエスに倣う」と題する結論部分で、<主イエスのような牧会者となるための三つの原則>ということを話されたのですが、その最初は、(1)肉=自己中心な自我に死ぬ、ということでした。それはすなわち、幸せな牧師となるためにということにつながるわけですが、要するに、「皆から尊敬されるような牧師になりたい」とか、「牧師として成功したい」というような思いを捨て去ること。そのような思いから解放されるということです。しかし、これは本当に難しいことです。私たちは、牧師であれ信徒であれ、この世の価値観(承認欲求)から、なかなか離れられない者ですから。
2.幸いなことよ 正しい者は
その上で、今朝の聖書の冒頭にある『幸いなことよ』ということばですが、これは旧約の「詩篇」や「箴言」などによく見られる定型句です。この幸いとは、この世的な繁栄と霊的祝福の両方を含む幸福を表すことばと理解することができます。例えば、「詩篇」2篇12節には
『幸いなことよ すべて主に身を避ける人は』
同128篇1節には
『幸いなことよ 主を恐れ 主の道を歩むすべての人は』
とありますが、それらも、そのように歩むならば、今も申し上げましたように、この世においては繁栄を得、神から霊的な祝福もあるだろうということです。そして、ある本を読んでいましたら、この「幸い」と訳されていることばは、「歩む」ということばから来ていると書かれていました。ですから、このことばには、私たちが神の恵みの世界に踏み込んでいくという意味があるわけです。確かに、イエス様も、あの山上の垂訓の最後で、わたしのこれらのことばを聞いて、それを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人だと言われました。それに対して、イエス様のことばを聞くだけで、それを行わずに、踏み込んでいこうとしない者は、砂の上に自分の家を建てた愚かな人だと。
そして、そのことを、今朝の詩人は2節で歌います。最初の1節は、神に対する正しい姿勢をとる者の、言わば消極的な面を歌っていますが(歩まず、立たず、着かない人)、2節は、その積極的な面を歌っています。すなわち、そのような人は、主の教えを喜びとする。そして、昼も夜も、その教えを口ずさむ。それは一日中、神の教えに信頼して生きるという意味にもとれますし、昼と夜というのを、明るい時も暗い時も、或いは、順調な時も試練の時も、と受け取ることもできるでしょう。私たちの人生には、「なんでこんなことが」と思うようなことが起きることがあります。所謂「まさかの坂」というやつですが、神を信じていても信じていなくても、その坂はやって来ます。そんな時、私たちの心は焦り、苛立ちます。先週のメッセージでK姉が、「アブラハムの苛立ち」と題して話してくださった通りです。私たちの焦りや苛立ちは、神を待つことができない時に起きます。なぜ神を待つことができないのか。それは、神の約束のことばが、余りにも私たちの現実とかけ離れているように思えるからですよね。あの信仰の父と呼ばれたアブラハムでさえ、そうでした。しかし、神の約束は、私たち人間の側の現実ではなく、ご自身の現実に立ってなさる約束です。だから人間である私たちにとって、それがどんなに困難なことのように思えたとしても、神は創造の神、無から有を生じせしめる方ですから、この私の目の前の現実がどのようであろうとも、神が約束されたことは、神ご自身の御力をもってなしてくださる。ただ、それが何時なのかということは、私たちには分からないのです。今朝の3節。
『その人は 流れのほとりに植えられた木。時が来ると実を結び その葉は枯れず そのなすことはすべて栄える』(詩1:1)。
時が来ると、なんです。その時は神様しかご存じではないのです。先週のメッセージで、
『アブラハムは主を信じた。それで、それが彼の義と認められた』(創15:6)
とありましたが、それはアブラハムが主の約束を、その約束の時が必ず来るということを信じたということであり、そう信じる者が今朝の詩篇で歌われている正しい者なのではないでしょうか。
<結論>
<結論>
『「貧しい人たちは幸いです。神の国はあなたがたのものだからです』(ルカ6:20b)。
原典では、この一文の最初は「貧しい人たち」ではなく「幸い」(ギリシャ語でマカリオイ)ということばで始まっています。つまり、今朝の「詩篇」が「幸いなことよ」(ヘブル語でアシュレー)で始まるのと同じ形です。イエス様も旧約詩人と同じように話されたということですが、ここで言われている貧しさとは、ちょっとやそっとの貧しさではありません。まさに「どん底」というほどの極度の貧しさを表すことばです。ですから、この貧しい人たちと言うのは、およそこの世的な繁栄とは無縁な、その対極にある人たちだと言っていいでしょう。そう考えると、今朝の詩人が歌った幸いと、イエス様の幸いとは、だいぶ違うようにも思えます。しかしそれは、イエス様の福音が、そのようなものだったからなんですね。福音の喜びは、資格の無い者が資格の有る者とされるところにあります。旧約の時代には、貧しい人たちというのは、少なくとも神から祝福された人ではない、見捨てられた人たちだと考えられていました。だから、そんな人は神から一番遠い人、祝福される資格の無い人たちだと思われていたのです。ところが、そういう人たちを祝福し、慰め、満ち足らせるために来てくださったのがイエス様であり、それが福音(良い知らせ)そのものなのです。
最後になりますが、先程、出てきた「マカリオイ」も「アシュレー」も、それを直訳すれば「神に祝福されている」となります。私たちの考える「幸い」「幸せ」には色々な形があると思いますが、お互い、神に祝福されている者として、歩んでゆきましょう。
新聖歌
開会祈祷後:新聖歌266番、メッセージ後:新聖歌434番
聖書交読
詩編1②篇 1~11節
2026年教会行事
7月8日(水)オリーブ・いきいき百歳体操 10時~11時
#58-3032