悲しむ者の幸い

メッセージ

<申命記 9章1~7節>
砂山 智 師

開会聖句

悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。

<マタイの福音書 5章4節>

メッセージ内容


<序論>  
・「申命記」はヘブル語では「デヴァリーム」で「言葉」という意味になります。日本語名の「申命記」は、漢語訳聖書から来ており、「繰り返し命じる」という意味です。その日本語名の通り、モーセは、自分自身も含めて、出エジプトの民の過去の歩みを回顧し、その痛みの歴史を教訓として、これから未来を担ってゆく世代に対して繰り返し命じています。それは、彼らに対するモーセの「遺言」とも言えます。

<本論>
1、耳の痛いことば

1,2節で言われていることは、「民数記」13章の出来事が元になっています。

『主はモーセに告げられた。「人々を遣わして、わたしがイスラエルの子らに与えようとしているカナンの地を偵察させよ。父祖の部族ごとに一人ずつ、族長を遣わさなければならない。』(民13:1,2)。

そこで、モーセは十二部族から一人ずつ代表を選び、カナンの地の偵察に向かわせます。しかし、ユダ部族のカレブとエフライム部族のホセア(ヨシュア)以外の十人は、偵察から帰って来て、次のように報告したのです。

『彼らはモーセに言った。「私たちは、あなたがお遣わしになった地に行きました。そこには確かに乳と蜜が流れています。そして、これがそこの果物です。ただ、その地に住む民は力が強く、その町々は城壁があって非常に大きく、そのうえ、そこでアナクの子孫を見ました。』(同13:27,28)。

つまり、彼らは、神さまの約束を疑い、尻込みしたのです。これが、彼らを40年もの間、荒野を彷徨わせることになった原因でした。そして、その間に、カレブとヨシュア以外の出エジプト第一世代の人々は死に絶え、第二世代へと世代交代が行われました。
今、それら第二世代の人々は、いよいよカナンの地に入らんとしているわけなんですが、モーセは、一見すると、彼らを励ますどころか、心を挫けさせるようなことを言っています。

『知りなさい。あなたの神、主は、あなたの正しさゆえに、この良い地をあなたに与えて所有させてくださるのではない。事実、あなたはうなじを固くする民なのだ。あなたは荒野であなたの神、主をどれほど怒らせたかを忘れずに覚えていなさい。エジプトの地を出た日からこの場所に来るまで、あなたがたは主に逆らい続けてきた。』(申9:6,7)

少し後の24節でも、同じことばが繰り返されます。

『私があなたがたを知った日から、あなたがたは主に逆らい続けてきた。』(同9:24)。

聞いている人々には、本当に「耳の痛いことば」であったでしょう。ただ、それらのことばは、まったくもって真実であり、これからカナンの地に入ろうとしている彼らにとって、どうしても覚えておかなければならないことであったのです。
8章11節以降には、次のようなみことばがあります。

『気をつけなさい。私が今日あなたに命じる、主の命令と主の定めと主の掟を守らず、あなたの神、主を忘れることがないように。あなたが食べて満ち足り、立派な家を建てて住み、あなたの牛や羊の群れが増え、銀や金が増し、あなたの所有物がみな豊かになって、あなたの心が高ぶり、あなたの神、主を忘れることがないように。主はあなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出し、燃える蛇やサソリのいるあの大きな恐ろしい荒野、水のない乾ききった地を通らせ、硬い岩からあなたのために水を流れ出させ、あなたの父祖たちが知らなかったマナを、荒野であなたに食べさせてくださった。それは、あなたを苦しめ、あなたを試し、ついにはあなたを幸せにするためだったのである。あなたは心のうちで、「私の力、私の手の力がこの富を築き上げたのだ」と言わないように気をつけなさい。』(同8:11~17)。

確かに、「箴言」にも、

『高慢は破滅に先立ち、高ぶった霊は挫折に先立つ。』(箴16:18)

と書かれています。そして、残念ながら、この時のモーセの懸念は、何百年か後に、現実のこととなってしまうのです。

<結論> 
ただ、もう一つ、私が今日のテキストから改めて思わされたことがあります。それは、神さまの「選び」ということです。神さまがイスラエルの民を選ばれたのはなぜか?なぜ、日本人ではなく、エジプト人でもなく、イスラエル人だったのか?結論から申し上げますと、それは、「神のみぞ知る」ことであり、私たち人間には全く分からないことであると思います。私たち人間の側で何かをしたから選ばれたとか、何か素晴らしい資質を持っていたから選ばれた、というようなものではないということです。そのことは、今まで述べてきましたように、出エジプトの民の歩みを振り返れば、よく分かっていただけること思います。
また、申命記7章6,7節でも、次のように言われています。

『あなたは、あなたの神、主の聖なる民だからである。あなたの神、主は地の面のあらゆる民の中からあなたを選んで、ご自分の宝の民とされた。主があなたがたを慕い、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。事実あなたがたは、あらゆる民のうちで最も数が少なかった。』(申7:6,7)。

つまり、神さまの「選び」の基準というのは、この世の基準とは全く異なっているということです。
この世の基準・価値観というのは、簡単に言えば、愛される資格のある者を愛するということだと思います。しかし、神さまの「選び」は、そうではなかったのです。そして、そのことは、イエスさまが教えてくださった「福音」とよく似ていると思うのです。「福音」の喜びは、この世で、愛される資格がないとされている人、また、自分でもそう思い込んでいる人が愛される喜びであり、逆に、自分には資格があると思い込んでいる人は、実は、神さまの目から見れば資格のない人であり、神さまのみこころから遠く離れてしまっている、ということだと思います。
今日の開会聖句は、あの有名な「山上の垂訓」の冒頭にあることばですが、イエスさまが言われた、心の貧しい者、悲しむ者、柔和な者、義に飢え渇く者、憐れみ深い者、心のきよい者、平和をつくる者、義のために迫害されている者は、何が幸いなのでしょうか?この世の基準からすれば、何も幸いなことはありません。この世では、豊かな者、喜んでいる者のほうが幸いに決まっています。柔和で、憐れみ深く、心のきよい者なんか、この世の競争社会では、すぐに「負け組」になってしまいます。ですから、これらの教えを、何か道徳的・倫理的なものとして解釈することは間違いであると思います。そうではなくて、私たち人間には理由は分からないけれども、神のひとり子であるイエスさまは、そのような人たちのところに来てくださった。神さまのみこころはそうであった。だから幸いなんだ、ということではないでしょうか。それが、イエスさまの「福音」であり、神さまの「選び」であると、私は思っています。私たちは、神に選ばれようとして、また、愛されようとして神に従うのではありません。まず、神が私たちを愛し、選んでくださり、御子イエス・キリストを私たちのところに遣わしてくださったから、神に従いたいと心から願うのです。

『私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。』(Ⅰヨハネ4:10)。

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新聖歌

開会祈祷後:340番、メッセージ後:254番

聖書交読

詩篇 116篇1~19節

2018年教会行事

5月23日(水) オリーブいきいき百歳体操(10時~11時)
6月17日(日)特別讃美礼拝 (Maki & Lily)

#50-2607

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