聞け、イスラエルよ

令和5年5月8日(月)より新型コロナウイルス感染症が5類感染症へ移行することに伴い、礼拝での規制を緩和します。具体的には、会衆讃美は全節歌唱する、省略していた聖書交読を復帰し、司会者朗読→会衆朗読を交互に行います。
なお、礼拝中のマスク着用は引き続き推奨、「平和の挨拶」の握手の自粛は今後も実施しますので、ご理解とご協力を宜しくお願いいたします。

メッセージ

<申命記 6章1~9節>
牧師:砂山 智

開会聖句

あなたは、あなたの神、主の聖なる民だからである。あなたの神、主は地の面のあらゆる民の中からあなたを選んで、ご自分の宝の民とされた。

<申命記 7章6節>

メッセージ内容

Youtube動画


公開が遅れて申し訳ありません。 メッセージ動画公開:2/3 PM 9:24
 


 メッセージ原稿を公開しました。  

<序論>
・「申命記」にはモーセの二つの説教が記されています。最初が1章6節から4章の43節まで。そして、二番目が4章44節から26章の最後まです。ですから、今朝の箇所は二番目の説教の前半ということになりますが、モーセはまず、最初の説教で、出エジプトから荒野における神の恵み深い取り扱い、そしてイスラエルの民の不従順を回顧し、真の神の命令に立ち返り、従順であるように勧めます。そして、第二の説教で、40年前、あのホレブの山(シナイ山)で与えられた十誡について語り始めるのです。なぜなら、十誡こそが旧約律法の核心であり、それを再確認することで、やがて彼らがカナンの地に定住することによって受けることになる誘惑、カナンの先住民の偶像崇拝と異教的風習に取り込まれてしまうことへの警鐘としたのでしょう。そして、先週もお話ししたように、11章までは過去への回顧が続くのですが、特に、今朝の第二の説教(5~11章)においては、イスラエルが神に選ばれた特別な民であることが強調されています。

<本論>
1.顔と顔を合わせて

今朝の箇所のひとつ前の5章3節をご覧ください。モーセは、今、まさに約束の地カナンに足を踏み入れようとする新しい世代の一人ひとりに告げます。

『主はこの契約を私たちの先祖と結ばれたのではなく、今日ここに生きている私たち一人ひとりと結ばれたのである』(申5:3)。

これは、原典のヘブル語の直訳では、「先祖たちだけではなく、私たちともまた」となります。モーセ契約以前のアブラハム、イサク、ヤコブとの契約は、言わば、神と個人との契約でしたが、ここで言及されているモーセ契約は、神とイスラエル民族との契約です。しかし、たとえそれが個人との契約ではなかったとしても、イスラエルの民は、子々孫々に渡って、一人ひとりが神との契約の当事者であるという自覚を持ち続けなければならないということです。そして、続く4節には、

『主はあの山で、火の中からあなたがたに顔と顔を合わせて語られた』(同5:4)

とあります。聖書において「顔と顔を合わせて」という表現は、旧約に5回、新約に1回、見られるのですが、それは神と人との間の極めて個人的・人格的な関係を意
味します。なぜなら、あのエデンの園でアダムとエバが初めて罪を犯した時、

『それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて、園の木の間に身を隠した』(創3:8b)

とあるからです。十誡は確かに戒めであり、掟なんですが、それは神が、イスラエルの民を縛り付け、無理やり従わせるために与えられたのではなく、あの「創世記」2章に描かれている、エデンの園での関係を回復することを目的として与えられたのです。だからモーセは、

3節で、「イスラエルよ、聞いて守り行いなさい。そうすれば、あなたは幸せになり、あなたの父祖の神、主があなたに告げられたように、あなたは乳と蜜の流れる地で大いに増えるであろう」

と彼らに告げたのでしょう。

2.シェマー・イスラエール
そして、4節と5節。

『聞け、イスラエルよ。主は私たちの神。主は唯一である。あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい』(申6:4,5)。

私たちの信仰の基礎である、唯一神信仰。主は、神々の中の一人でも、神々の中の最高神のような方でもなく、ただひとりの神である、ということですね。私たち礼拝者は、その唯一の神にのみ心を向け、全身全霊をもって神を愛さなければならない、ということです。この箇所は、皆さんもよくご存じのように、イエス様が、律法の中で最も大切な戒めとして引用されました。「マタイ」22章36節をご覧ください。

『「先生、律法の中でどの戒めが一番重要ですか。」イエスは彼に言われた。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』これが、重要な第一の戒めです。』(マタイ22:36~38)。

そして、それで終わりではなくて、イエス様は続けて言われました。

『『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という第二の戒めも、それと同じように重要です。この二つの戒めに律法と預言者の全体がかかっているのです。』(同22:39~40)。

後半の第二の戒めは旧約の「レビ」19章18節と34節からの引用なんですが、イエス様は、この第二の戒めも第一の戒めと同じように重要です、と言われました。よく、「一神教は多神教に比べて不寛容で独善的であり、戦争ばかり起こしている」という批判を耳にすることがあります。そのような批判に対して、私たちは様々な理屈(?)でもって反論することも可能かもしれません。しかし、このイエス様のみことばこそがすべてを語っているのではないでしょうか。それと同時に、私たちが忘れてはならないことがあります。それは、教会がこの第二の戒めを忘れて、或いは曲解し、宣教を征服することのように考え、この世の権力にすり寄ると言うか、それを取り込もうとした時、大きな過ちを犯してきたということもまた、歴史的な事実であるということです。私たちメノナイトは「自由教会」と呼ばれていますが、それは、国家や政府から自由であることを大切にしてきた教会という意味ですね。そのことのゆえに、過去の歴史において、カトリック、或いは、同じプロテスタントのルター派などからも迫害されたわけですが…。イエス様は、十字架にかけられる前に、あのピラトに、「わたしの国はこの世のものではありません」と言われました。それは、イエス様のご生涯を、生き様そのものを表すことばでもあると思うのですが、私たちも、あのパウロが「ローマ」12章2節で言ったように、この世と調子を合わせてはならないのです。
今朝の説教題は、「聞け、イスラエルよ」とさせていただきましたが、ヘブル語では「シェマー・イスラエール」。ユダヤ人が今日まで、何千年もの間、ずっと大切にし、朗誦してきたみことばです。けれども、これ以降の旧約における彼らの歴史はどうだったでしょうか?イエス様が「イザヤ」の預言を引用して

「あなたがたは聞くには聞くが、決して悟ることはない。見るには見るが、決して知ることはない。この民の心は暗くなり、耳は遠くなり、目は閉じているからである。彼らがその目で見ることも、耳で聞くことも、心で悟ることも、立ち返ることもないように。そして、わたしが癒すこともないように」(マタイ13:14,15)

と言われた通りだったのです。今朝、ユダヤ人ではない私たちも、その歴史を回顧し、教訓としたいと思います。

<結論>
そして最後に、もう一つ、皆さんとともに教訓としたいと言うか、覚えたいことがあります。開会聖句をもう一度ご欄ください。

『あなたは、あなたの神、主の聖なる民だからである。あなたの神、主は地の面のあらゆる民の中からあなたを選んで、ご自分の宝の民とされた』(申7:6)。

その後の7節、8節もお読みします。

『主があなたがたを慕い、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。事実あなたがたは、あらゆる民のうちで最も数が少なかった(共同訳では「貧弱であった」)。しかし、主があなたがたを愛されたから、またあなたがたの父祖たちに誓った誓いを守られたから、主は力強い御手をもってあなたがたを導き出し、奴隷の家から、エジプトの王ファラオの手からあなたを贖い出されたのである』(同7:7,8)。

この箇所で言われている愛(ヘブル語で「アーハブ」)は、言わば「選びの愛」と言えます。旧約においてはもう一つ、「契約の愛(ヘセド)」と呼べる愛がありますが、それは契約する双方に責任と誠実さが求められる関係と言えます。しかし、「選びの愛」は、神からの一方的な、変わることのない愛なんですね。新約で言うところの「アガペー」の愛です。なぜ主は、この私を、そしてあなたを愛し、ご自分の民として選ばれたのでしょうか。それは、私たちには知る由もないことですが、大切なことは、一人ひとりが、今、愛されている者、選ばれている者であるという地点から、どのように歩んで行くのかということではないかと思います。聞け、イスラエルよ。今週も、唯一の神。そして、父、御子、御霊の神を仰ぎ見つつ、歩んで行きましょう。

メッセージ要約のダウンロード(PDF99KB)–>

会衆讃美

開会祈祷後:新聖歌38番、特別讃美後:新聖歌384番

聖書交読

詩編37篇 1~11節

2024年教会行事

1月17日(水)  オリーブいきいき百歳体操 10~11時

#55-2903

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