最も大いなるもの

メッセージ

<申命記 15章1~11節>
牧師:砂山 智 師

開会聖句

こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。

<コリント人への手紙第一 13章13節>

メッセージ内容


<序論>  
・「申命記」4章44節から26章までは、モーセの第二の説教と呼ばれています。そして、特に10~16章では、神と人を愛することについての具体的な教えが述べられています。ここには、「出エジプト記」「レビ記」「民数記」と重なる教えも見られます。「申命記」というのは「繰り返し命じる」という意味ですが、今、約束の地を目前にして、モーセはイスラエルの民に、繰り返し命じる必要を覚えたのでしょうか。また、その内容は非常に具体的で、彼らの生活に密着したものであり、実際的な愛が大切であるということを教えてくれているように思えます。

<本論>
1、七年ごとの負債の免除

『あなたは七年の終わりごとに、負債の免除をしなければならない』(申15:1)。

つまり、七年ごとに借金を棒引きにしなさいということですが、今日のテキストの次の12節以降を見ると、奴隷を、七年ごとに解放しなければならないという律法もあります。これらは、「出エジプト記」23章10節などにある、七年ごとに土地を休ませるという命令とセットになっているようです。

『六年間は、あなたの地に種を蒔き、収穫をする。しかし、七年目には、その土地をそのまま休ませておかなければならない。民の貧しい人々が食べ、その残りを野の生き物が食べるようにしなければならない。ぶどう畑、オリーブ畑も同様にしなければならない』(出23:10,11)。

これらの律法は、「創世記」にある、神さまが天地創造のわざを七日目に休まれたということと関係していると思われますが、今日で言えば、社会福祉的な意味合いを持った規定であると言えます。今から3500年も昔に、すでにこのような規定が存在していたというのは、本当に驚かされます。
私は、神の国(それを天国と言ってもいいと思いますが)というのは、格差の無い、色々な意味で、他の人を羨む必要のない世界だと思っています。もちろん、神の国の詳しい姿は、今の私たちには分かりませんが、神さまの麗しい顔を直に仰ぎ見て喜ぶ世界においては、他の人を見て羨む必要もないだろうと思うんですね。しかし、浮世は違います。この世では、はっきりとした格差が存在しています。ですから、時には、私たちの心が、妬みという苦々しい思いに占領されてしまうような時もあると思います。神さまは、そのことをよくご存じであったので、このような命令を残されたのではないでしょうか。
また、イスラエルの民が今から入ろうとしているカナンの地は、「乳と蜜の流れる地」と呼ばれるほど豊かな土地でした。そのような土地に定着して暮らすようになれば、やがて貧富の差が生まれ、皆が共に貧しかった時代には自然にできていた助け合いということも難しくなるだろう。そのようなことも、神さまはよくご存じで、このような具体的な命令を残されたのではないかと思っています。
そして、4節と11節とを見比べてみると、意外なことにも気づかされます。4節では、

『もっとも、あなたの神、主が相続地としてあなたに与えて所有させようとしておられる地で、主が必ずあなたを祝福されるので、あなたのうちには貧しい人がいなくなるであろう』(申15:4)

と言っているにもかかわらず、11節では、

『貧しい人が国のうちから絶えることはないであろう』(同15:11a)

と言っているのです。一見、矛盾しています。ただ、5節には、次のようなことばがあります。

『ただしそれは、もしあなたが、あなたの神、主の御声に確かに聞き従い、私が今日あなたに命じるこのすべての命令を守り行ったなら、である』(同15:5)。

それでは、イスラエルの民は、このみことばで言われているように、旧約の律法をすべて守り行うことができたでしょうか?それは、もちろんノーです。旧約聖書の歴史は、ある意味で、彼らの不従順の歴史と言うこともできると思います。選民イスラエルが反逆を繰り返し、神がそれを赦し、恵みを注がれる。その繰り返しでした。
そして、このイスラエルの歴史、つまり彼らの現実の姿は、私たち一人一人の現実の姿でもあると思います。今日の開会聖句は、新約聖書の「コリント人への手紙第一」にある有名なパウロのことばですが、この13章は、特に「愛の賛歌」と呼ばれています。パウロはなぜ、わざわざ1章ものスペースを割いて、愛(神の愛)について語らなければならなかったのか?それは、当時のコリント教会には、神さまの愛が全く欠けていた。そのような現実があったからだと思います。
私たちの教会の「聖餐式」では、毎回、「Ⅰコリント」11章の聖句を読んでいますが、その聖句が書かれた理由が、11章17節以降に記されています。

『ところで、あなたがたが教会に集まる際、あなたがたの間に分裂があると聞いています。ある程度は、そういうこともあろうかと思います。実際に、あなたがたの間で本当の信者が明らかにされるためには、分派が生じるのもやむを得ません。しかし、そういうわけで、あなたがたが一緒に集まっても、主の晩餐を食べることにはなりません。というのも、食事のとき、それぞれが我先にと自分の食事をするので、空腹な者もいれば、酔っている者もいるという始末だからです。あなたがたには、食べたり飲んだりする家がないのですか。それとも、神の教会を軽んじて、貧しい人たちに恥ずかしい思いをさせたいのですか。私はあなたがたにどう言うべきでしょう。ほめるべきでしょうか。このことでは、ほめるわけにはいきません。』(Ⅰコリント11:17~22)。

「食い物の恨みは恐ろしい」とは、よく言われることですが、教会の中で、そんな酷い食事会(愛餐会)が行われていた。だから、パウロは、そのことを深く憂い、そして、彼らに気づいてもらうために、最後の晩餐の席で主イエスから教えられたことを伝えようとしたんですね。もっとも、彼自身は、その席にはいなかったのですが。

<結論> 
「愛の賛歌」も、このような私たち人間の現実、罪の現実があって、書かれたものと言えます。

『こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です』(同13:13)。※口語訳・新共同訳・岩波訳では、「最も大いなるものは愛である」と訳されています。

私は、最初、パウロは、この三つ(信仰・希望・愛)を比較してみて、その上で、一番すぐれているのは愛だという意味なのかな、と思っていたのですが、どうもそうではないのではと、最近、思うようになりました。それは、この愛というのが、私たち人間の愛のことではなくて、神さまの愛のことだということに、今更ながら気づかされたからです。
つまり、それは、一つがすぐれていて、他の二つが劣っているというような意味ではなくて、神さまの愛こそが、私たちの信仰と希望の土台である、という意味だと思います。もし、神さまの愛がなかったなら、何一つ始まることはなかった。私たちの信仰も、希望も、何もなかった。そして、この神の愛とは、イエス・キリストそのものであると言うことができると思います。イエスさまのご生涯、その教えを見れば、私たちにも神の愛が分かります。
この方から目を離さずに、今日も、そして今週も歩んで行ければと、切に願います。

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新聖歌

開会祈祷後:433番、メッセージ後:257番

聖書交読

詩篇 122篇1~9節

2018年教会行事

6月6日(水) オリーブいきいき百歳体操(10時~11時)
6月17日(日)特別讃美礼拝 (Maki & Lily)

#50-2609

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