「ワンフォーオールオールフォーワン」[家庭礼拝対応版]

「緊急事態宣言」が解除されたことから、5月31日(日)から、感染拡大予防に配慮したうえで礼拝を再開します。
高齢の教会員、教会での礼拝に参加することが困難な教会員のために、Youtubeによる動画配信を行うことになりました。
新しい情報はホームページでお知らせします。
本ページ内容は家庭礼拝に対応しています。

メッセージ

<エペソ人への手紙 4章 11~16節>
牧師:砂山 智 師

聖書箇所 エペソ人への手紙 4章より抜粋(新改訳2017版より引用)

4:11 こうして、キリストご自身が、ある人たちを使徒、ある人たちを預言者、ある人たちを伝道者、ある人たちを牧師また教師としてお立てになりました。
4:12 それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためです。
4:13 私たちはみな、神の御子に対する信仰と知識において一つとなり、一人の成熟した大人となって、キリストの満ち満ちた身丈にまで達するのです。
4:14 こうして、私たちはもはや子どもではなく、人の悪巧みや人を欺く悪賢い策略から出た、どんな教えの風にも、吹き回されたり、もてあそばれたりすることがなく、
4:15 むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において、かしらであるキリストに向かって成長するのです。
4:16 キリストによって、からだ全体は、あらゆる節々を支えとして組み合わされ、つなぎ合わされ、それぞれの部分がその分に応じて働くことにより成長して、愛のうちに建てられることになります。

開会聖句

キリストによって、からだ全体は、あらゆる節々を支えとして組み合わされ、つなぎ合わされ、それぞれの部分がその分に応じて働くことにより成長して、愛のうちに建てられることになります。

<エペソ人への手紙 4章16節>

メッセージ内容

Youtube動画

【Web管理者・注】動画を2020年5月31日礼拝時に収録されたものに差替えました。


<序論>  
教会での礼拝が再開できたことは大きな喜びです。今日は「ペンテコステ」=「教会の誕生日」です。皆さんもそうかもしれませんが、今回のコロナのことをきっかけとして、教会に集まって礼拝をささげるということについて色々と考えさせられました。今日のメッセージの題「ワンフォーオール オールフォーワン」は、ラグビー(の素晴らしさ)を語る時によく使われる言葉です。一般的には「一人はみんなのために みんなは一人のために」という意味だと理解しておられる方が多いと思います。ただ、平尾誠二というラガーマンは、ことラグビーに関して言えば、それは間違った訳だと言ってました。彼は、この言葉を「一人はみんなのために みんなは一つの目的のために」と訳すべき(理解すべき)だと言ってたんです。
私は、この言葉には、今、お話しした二つの意味があると思っているんです。つまり、一つは、「一人はみんなのために みんなは一人のために」。もう一つは、「一人はみんなのために みんなは一つの目的(勝利)のために」ですね。どちらかが間違っているということではなくて、どちらも大切ではないかと思っています。今日は、皆さんと一緒に、私たちの教会も含めて、教会というものについて考えてみたいと思うのですが、この二つの訳(意味)を切り口としてお話しできればと願っています。

<本論>
1、一人はみんなのために、みんなは一人のために

「エペソ人への手紙」には、今日の箇所だけでなく、教会に関する箇所が多いのですが、例えば、1章23節。この手紙全体の主題ともされているみことばですが、
『教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです』(エペソ1:23)。
また、2章19節にも、次のようなみことばがあります。
『こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、聖徒たちと同じ国の民であり、神の家族なのです』(同2:19)
ステイホーム中、久しぶりにDVDを見ました。今から50年近く前に公開された「ペーパームーン」という古い映画です。家族をテーマにした映画はたくさんありますが、本当にいい映画でした。舞台は1935年の大恐慌時代のアメリカ中西部。ケチな詐欺師モーゼと、ひょんなことから彼と一緒に旅をするようになった孤児ですれっからしの9歳の少女アディ。彼女の実の父親はモーゼかもしれないのですが、度胸があって機転の利くアディはモーゼに見込まれて、「俺と手を組まないか」と誘われるんです。二人は珍道中を繰り広げながら、やがて本当の親子のようになっていくという…。
改めて思わされたのですが、殆どの映画は、その描かれ方は様々であっても、家族というものを重要なテーマの一つとして取り上げています。それは、誰にでも少しは思い当たるふしがあると言うか、普遍性のあるテーマだからですね。家族は、時には本当に厄介なもので、きれいごとでは済まないようなこともたくさんあるのですが、やっぱり、この世における他のつながりとは違うものだと思います。
例えば、この世の組織(会社)であっても、「ワンフォーオール オールフォーワン」の最初の訳「一人はみんなのために みんなは一人のために」ということは、よく言われます。しかし、それは、結局、利害・損得によって結びついたつながりのことだと思います。けれども、家族や、そして教会は、そうではない、そうであってはならないと思うのです。パウロは第三次伝道旅行の最後で、ミレトスという港町にエペソ教会の長老たちを呼び寄せて決別説教を行いましたが、その中で教会のことを指して、

『神がご自分の血をもって買い取られた神の教会』(使徒20:28)

と言っています。教会というのは、人間の考えで作られたものではなく、神のひとり子であるイエス・キリストの血によって買い取られたものだと。それは言い換えれば、教会を教会たらしめるものとは、まさにイエス様の愛なんだということだと思います。イエス様は、

『わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい』(ヨハネ13:34)。

と言われました。一人はみんなのために、みんなは一人のために、ですね。

2、 一人はみんなのために みんなは一つの目的(勝利)のために

そして、「ワンフォーオール オールフォーワン」のもう一つの訳、「一人はみんな
のために みんなは一つの目標(勝利)のために」ということですが、ラグビーのようなスポーツの場合には、その目的というのははっきりしています。それは、試合で勝つということですね。団体競技では、その目的のために、勝利のために、チームのみんなは一つになるわけです。それでは、私たち教会にとっての目的、勝利とはなんなのでしょうか?教会が大きくなることでしょうか?或いは、献金が増えて経済的に豊かになることでしょうか?勿論、結果としてそうなることは悪いことではありませんが、それが目的だと言い切ってしまうと、ちょっと違うんじゃないかと思います。なぜなら、もしそれが目的だと言い切ってしまえば、教会も、結局は、この世の組織と何ら変わらないではないか、ということになってしまいますよね。
かく言う私も、牧師になるまでは、そんな世界にどっぷりとつかって生きてきたんですが…。そして、牧師になったら、そんな世界から解放されるかと思っていたんですが、やっぱり、牧師にも同じような戦いがあるということに気づかされました。アメリカの神学者でE・H・ピーターソンという人は、「牧会者の神学」という本の中で、「アメリカでは、多くの牧師が、まるでファーストフードの店を経営するような感覚で教会を経営している」と書いていました。もちろん、日本とアメリカではクリスチャン人口も全く違いますし、歴史や文化など、教会や牧師が置かれている社会的な背景というものも異なりますので、それを同じように論ずることはできないと思います。けれども、正直、ドキッとさせられました。私たちの教会は、一体何を目指しているでしょうか?その一つの答えが、今日の聖書、「エペソ人への手紙」4章11~16節の中にあると考えます。

3、エペソ4章11~16節

この箇所は、日本語では1節ずつ区切って訳されていますが、原典のギリシア語では一つの長い文でできています。そして、「~のため」という目的表現を多く使うことで、「AはBのため」「BはCのため」、或いは「CはDするまで」というような、時間的な経過に沿った書き方になっています。まず、11節、12節をご覧ください。

『こうして、キリストご自身が、ある人たちを使徒、ある人たちを預言者、ある人たちを伝道者、ある人たちを牧師また教師としてお立てになりました。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためです』(エペソ4:11,12)。

牧師や役員などのリーダーシップは、教会の皆さんを整えて奉仕の働きをさせる(していただく)ことにあるんですね。そして、それはキリストのからだを建て上げるためなんです。決して誰か他の人を喜ばせるため、或いは、自分が評価されるためではないでんす。そして、その次の13節には、一人一人の信仰者の最終的な目的、目指すべきゴールが書かれています。

『私たちはみな、神の御子に対する信仰と知識において一つとなり、一人の成熟した大人となって、キリストの満ち満ちた身丈にまで達するのです(達するためです)』
(同4:13)。

気が遠くなるほど、とてつもなく高いゴールです。そして、14節、15節。

『こうして、私たちはもはや子どもではなく、人の悪巧みや人を欺く悪賢い策略から出た、どんな教えの風にも、吹き回されたり、もてあそばれたりすることがなく、
むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において、かしらであるキリストに向かって成長するのです』(同4:14,15)。

この、最後の『成長するのです』というギリシア語には、それが完全に成長してしまうまで成長し続ける、継続するという意味があります。私たちは、天に召されるその日まで、未完成ということですね。

<結論>

そして、最後の16節。今日の開会聖句ですが、この箇所全体のまとめと言ってもいいと思います。

『キリストによって、からだ全体は、あらゆる節々を支えとして組み合わされ、つなぎ合わされ、それぞれの部分がその分に応じて働くことにより成長して、愛のうちに建てられることになります』(エペソ4:16)。

大切なことは、キリストによって(別訳:頭であるキリストの側から)、スクラムのように組み合わされ、つなぎ合わされたそれぞれの部分(これは教会に属する一人一人、或いは北部地区・MBに属するそれぞれの教会と解することもできます)は、その分に応じて働くことにより成長し(足なら足、目なら目、耳なら耳のように働くことにより成長して)、神の愛のうちに建てられる。それが、私たち教会の目的であり、目指すべき姿なんですね。
教会は一致しなければならない、とよく言われます。しかし、教会が一致するということは、皆が同じになるということではありません。それは、違う者同士がいたわり合い、助け合い、調和しあって共に歩むということです。もっと言えば、教会が一つであるということは、それは何かを成し遂げるための条件ということではなく、それこそ教会の目的そのものであると言ってもいいと思います。
ですから、結論として、私たちにとって「一人はみんなのために みんなは一人のために」ということは、イコール「一人はみんなのために みんなは一つの目的のために」ということでもあると思っています。「ワンフォーオール オールフォーワン」。

メッセージ内容のダウンロード(PDF104KB)

新聖歌

開会祈祷後:141番、メッセージ後:146番

聖書交読

詩編 23篇1~6節

2020年教会行事

6月3日(水)オリーブ・いきいき百歳体操はお休みです。
吹田市からの連絡を待ってから再開します。

#52-2713

One comment to this article

  1. mb-senri_web

    on 2020年6月1日 at 2:09 PM -

    私は日曜出勤のために、礼拝に出席出来ませんでしたが、
    収録動画を受け取りましたので、若干の編集の上、差替えています。
    牧師先生が着用されておられるフェイスシールドは、K姉のご子息が製作された物です。
    5月30日(土)に事前撮影した方の動画は、以下のリンクからご覧いただけます。
    礼拝メッセージ動画(5月30日事前収録分)