自分の弱さを誇る人 [家庭礼拝対応版]

「緊急事態宣言」が解除されたことから、5月31日(日)から、感染拡大予防に配慮したうえで礼拝を再開しています。
高齢の教会員、教会での礼拝に参加することが困難な教会員のために、Youtubeによる動画配信を行っています。
本ページ内容は家庭礼拝に対応しています。

メッセージ

<コリント人への手紙 第2 10章1~18節>
牧師:砂山 智

開会聖句

しかし主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」と言われました。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。

<コリント人への手紙 第2 12章9節>

メッセージ内容

Youtube動画

 <序論>  

・「Ⅱコリント」からの二回目です。この手紙の特徴の一つは、語られているテーマがそれぞれの部分で異なっていて、その違いがはっきりしている、ということではないかと思います。8章と9章では、当時、困窮していたエルサレム教会への支援(献金)の問題が主題として取り上げられています。しかし、10章になって主題ががらっと変わります。9章と10章の間には、内容的に見て別の手紙(?)と思えるような大きな違いがあり、10~12章までの主題は、パウロ自身の使徒職の正統性についてなんです。

<本論>
1、パウロの使徒職

使徒(アポストロス)というのは、狭い意味では、あのイエス様の12人の弟子たちのことを指しますが、その解釈に従えば、パウロは使徒に含まれないことになります。しかし、広い意味では、その原語の本来の意味である「遣わされた者」「キリストの使節」ということだと思います。「ルカの福音書」や「使徒の働き」などを書いたと言われているルカは、十二使徒ではなかったパウロやバルナバのことも使徒であると書き残しています(使徒14:14)。それではパウロ自身は使徒についてどのように考えていたのでしょうか?その一つは、使徒とは復活のキリストの証人であるということ(Ⅰコリ9章)。そして、二つ目は、キリストご自身から使徒として召された者であるということです(使徒26章)。ですからパウロは、使徒を12人、或いは自分も含めた13人に限定してはいないんです。そのあたりの厳密な定義、線引きについては、今となってははっきりしないところもあるんですが、いずれにしましても、前回の説教でお話ししましたように、当時のコリント教会には、パウロが使徒であるということに疑いの眼差しを向ける人たちがいた。パウロはそんな人たちに向かって、箇所によっては、感情的と言うか、かなり激しい口調で弁明するのですが、それは彼らの背後に、所謂「偽使徒」と呼ばれるような人たちがいたからなんです(Ⅱコリ11:13)。彼らはユダヤ人キリスト者だったみたいですが(同11:22)、今日のパウロのことばを借りれば、自分自身を推薦する者であり、互いを比較し合って限度を超えて誇る者であり(同10:13)、要するにコリント教会でいばっていたんですね(同11:20)。

2、パウロの皮肉

それにしても、今日の最初のみことばは面白いなと思いました。

『さて、あなたがたの間にいて顔を合わせているときはおとなしいのに、離れているとあなたがたに対して強気になる私パウロ自身が、キリストの柔和さと優しさをもってあなたがたにお願いします』(Ⅱコリ10:1)。

これは恐らく、偽使徒たちが言っていた自分に対する批判を、パウロが皮肉としてそのまま書いたのではないかと思われます。そして、その批判の内容が窺えるようなことばが10節にあります。

『「パウロの手紙は重みがあって力強いが、実際に会ってみると弱々しく、話はたいしたことはない」と言う人たちがいるからです』(同10:10)。

誰にでも得手不得手というものはあると思いますが、あの大伝道者パウロも、面と向かって人と話すのは、どちらかと言うと苦手だったのかもしれません。パウロがコリント教会を去った後、アポロという人が同じコリント教会で伝道しました。パウロが、

『私が植えて、アポロが水を注ぎました』(Ⅰコリ3:6a)

と言ったあのアポロですが、彼はたいへん雄弁だったとルカは記していますので、もしかしたらコリントの人たちは、そのアポロと比べて、パウロのことをそのように言ったのかもしれません。そのような批判に対してパウロは次のように反論します。

3、肉にあって歩んでも、肉に従って戦わない

『私たちが肉に従って歩んでいると見なす人たちに対しては、大胆にふるまうべきだと私は考えていますが、そちらに行ったときに、その確信から強気にふるまわないですむように願います』(Ⅱコリ10:2)。

そして、3節。

『私たちは肉にあって歩んではいても、肉に従って戦ってはいません』(同10:3)。

日本語では同じ「肉」ですが、3節前半の「肉(サルクス)」は、文字通り人間の肉体という意味です。しかし、2節と3節後半にある「肉」は違います。それは人間の罪を表しています。パウロは、「確かに私たちも肉体を持った普通の人間ですが、私たちの信仰の戦いは罪(の性質)による戦いではない」と言ってるんですね。4節以降の

『私たちの戦いの武器は肉の物ではなく~』

ということばが、そのことを示していると思います。確かに、私たちの信仰の戦い、イエス様をお伝えしようとする時に用いるべき武器は、私たち人間のことばや知恵などではありません。それは、神の力、聖霊の働きであり、5節後半にあるように、その神の力が、すべてのはかりごと、人間的な思いを取り押さえて、人間の魂をキリストに服従させてくださるんです。まさにパウロが、「Ⅰコリント」2章4節5節で、

『私のことばと私の宣教は、説得力のある知恵のことばによるものではなく、御霊と御力の現れによるものでした。それは、あなたがたの信仰が、人間の知恵によらず、神の力によるものとなるためだったのです』

と言った通りです。

<結論>

そして、今日の10章の後半で、パウロは、自分は何を誇るのかということについて述べています。その結論は17節です。

『「誇る者は主を誇れ。」』(Ⅱコリ10:17)

ということですね。
今日の開会聖句、12章9節のみことばは、皆さんもそうかもしれませんが、私の大好きな聖句の一つです。このことばに、私自身、何度も何度も励まされてきました。その前の12章7節でパウロは、

『私は肉体に一つのとげを与えられました』

と言っていますが、それは眼の病気か、癲癇か、それともまた別の病気であったのか、色々と言われていますが、ハッキリとは分かっていません。そして8節には、

『この使い(とげ)について、私から去らせてくださるようにと、私は三度、主に願いました』

とあります。イエス様も、十字架に架けられる前夜、あのゲッセマネで、

「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください」(マタイ26:39)

と三度祈られたと、聖書は記しています。
以前の説教で「ええかっこしい」ということばを使いましたが、私たちの本音、ええかっこしいじゃないありのままの心は、涙を流すような人生は歩みたくない。そんな人生はできるだけ避けて、明るい、光り輝くところだけを歩みたい、ということだと思います。それが、私たちの人情と言うか、嘘偽りのない正直な気持ちだと思います。ただ、それと同時に、今朝、私たちには、認めざるを得ないことがあると思うんです。それは、私たちの信仰の最終的な目標というのは、自分の願いが叶えられたり、祈りが聞かれることではない。そうではなくて、この私の中で神がどのように働いてくださったのか、神の力がどのように現れたのか、ということなんです。私たちはよく勘違いをしてしまいますけれども、それは自分の信仰が素晴らしくなれば、神はきっと病を癒し、自分の祈りを聞いてくださる、と。しかし、そうじゃないと思うんです。素晴らしい信仰者というのは、たとえ病が癒されなかったとしても、祈りが聞かれなかったとしても、

「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」

という主のみことばを、信じ受け入れる人のことだと思うのです。それは決して、負け惜しみでも、やせ我慢でもないでしょう。パウロは、

『私たちは、この宝を土の器に入れています』(Ⅱコリ4:7a)

と言いましたが、私たちも、そのことに気づかされた時、自分の弱さを誇る人、言い換えれば、本当の意味で神の力を誇る人になることができるのではないでしょうか。
メッセージ内容のダウンロード(PDF92KB)

新聖歌

開会祈祷後:204番、メッセージ後:251番

聖書交読

詩編 43篇1~5節

2020年教会行事


10月14日(水)オリーブ・いきいき百歳体操
7月1日(水)から感染予防対策を講じつつ、再開しました。

#52-2733

Comments are closed