この世での報い

京阪神でのコロナ感染者急増と医療現場のひっ迫のため、4月25日、政府から「蔓延防止等重点措置」に代わり、3度目になる緊急事態宣言が発出されました(期限:5月11日→5月31日まで延長)。感染状況を考慮し、4月18日よりしばらくの間対面での礼拝は中止し、オンライン礼拝として動画配信します。当ホームページに掲載のメッセージ原稿や、YouTube動画をご活用いただき、ご自宅で礼拝をおささげしましょう。

メッセージ

<箴言 11章16~31節>
メッセージ:牧師:砂山 智

開会聖句

主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。おまえはわずかな物に忠実だったから、多くの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』

<マタイの福音書 25章21節>

メッセージ内容

Youtube動画


メッセージ動画公開:5/15 PM 22:26

メッセージ原稿を公開しました。 


 
<序論>  

・10章から22章までは、内容的に見て「箴言」の第二集とされ、中心部分とも言われています。ソロモンは、生涯で3,000の箴言を残したとのことですが、ここにはその内の374の対句が無作為に集められ、一行目と二行目で一つを表す平行法(パラレリズム)という表現方法が使われています。また、一行目と二行目とで意味が対照的な反意的平行法がたくさん見られるのも、その特徴と言えます。ある辞書に、平行法とはヘブル語の聖書の詩の主とした修辞技法である、と書かれていました。ただ、私たち日本語の文化にも、古くから平行法は見られますし、大変親しまれてきました。例えば、「平家物語」の冒頭に出てくる一節。「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり」。とても有名ですよね。或いは、反意的なものの例としては、お寺などの掲示板で見た記憶があるので、もしかしたら、あいだみつおの作かもしれませんが、「人間だものと言い逃れ 人間のくせにと他人を責める」というのがありました。思わず、「うまいこと言うなぁ」と感心してしまったんですが…。ある意味、今日のテキストに出てくる「箴言」のことばも、それらと同じように、なんの注釈がなくても理解できる名文と言ってもよいのではないでしょうか。

<本論>
1、優しい女と美しい女

私が使っている静思の時の小冊子「日々のみことば」には、新改訳聖書だけではなく、新共同訳聖書も並べて載せられています。今日のテキストの最初の16節のみことばを見ていて、面白いことに気づかされました。それは、新共同訳では、16節の訳が、

「美しい女は名誉をわがものとし 強い男は富をわがものとする」

となっていたんです。ちなみに、口語訳聖書では、

「しとやかな女は、誉れを得、強暴な男は富を得る」

と訳されていました。それぞれで使われていることばが微妙に違いますが、少しの違いでもずいぶんと受ける印象は変わってきます。実は、新改訳聖書が「優しい」と訳しているヘブル語の元々の意味は、「恵み、魅力」という意味なんです。以下、17節は、新改訳では『誠実な人は』となっていますが、新共同訳は、

「慈しみ深い人は自分の魂を益し 残酷な者は自分の身に煩いを得る」

と訳しています。また、次の18節も、新改訳では『悪しき者は』となっていますが、新共同訳では、

「神に逆らう者の得る収入は欺き 慈善を蒔く人の収穫は真実」

となっています。このように、他の翻訳を見るというのも、何かしらの参考になるものですね。

2、あなたの宝のあるところ

そして、少し飛びますが、25節。

『おおらかな人は豊かにされ、他人を潤す人は自分も潤される』(箴言11:25)。

新共同訳では、

「気前のよい人は自分も太り 他を潤す人は自分も潤う」

となっていました。日本には、「情けは人の為ならず」ということわざがあります。その意味は、「情けを人にかけておけば、巡り巡って自分にもよい報いがある」ということですが、今の若い人の半数以上は、このことわざを、「情けをかけすぎることは、その人を甘やかすことになり、その人のためにならない」という意味だと思っているそうです。「自己責任」「格差社会」等々、様々なことばが頭の中に浮かんできたんですが、「日々のみことば」の執筆者の方は、次のように書いておられました。それは、「富」というのはトランプの「ジョーカー」と同じだと。「ジョーカー」はトランプでは一番強い札とされていますが、ババ抜きなどでは、最後まで持っていたら負けになります。それと同じように、「富」も誰かのために用いるならば、多くの人を幸せにする。しかし、自分のためだけに蓄えるなら、かえって不幸にすると。
「使徒の働き」20章に、パウロがエペソ教会の長老たちに向かって語った決別説教が残されているんですが、その中で彼は次のように言っています。

『このように労苦して、弱い者を助けなければならないこと。また、主イエスご自身が「受けるよりも与えるほうが幸いである」と言われたみことばを、覚えているべきだということを、私はあらゆることを通してあなたがたに示してきたのです』(使徒20:35)。

「受けるよりも与えるほうが幸いである」。実は、福音書には、そのようなことばは書き残されていないのですが、次のようなイエス様のみことばは残されています。

『自分のために、地上に宝を蓄えるのはやめなさい。そこでは虫やさびで傷物になり、盗人が壁に穴を開けて盗みます。自分のために、天に宝を蓄えなさい。そこでは虫やさびで傷物になることはなく、盗人が壁に穴を開けて盗むこともありません。あなたの宝のあるところ、そこにあなたの心もあるのです』(マタイ6:19~21)。

このみことばを読むたびに、私は、自分の宝はどこにあるのかなぁ、と考えさせられるんです。

<結論>

そして、今日のテキストの最後、31節ですが、

『もし正しい者がこの世で報いを受けるなら、悪者や罪人は、なおさら、その報いを受けよう』(箴言11:31)。

新共同訳では、

「神に従う人がこの地上で報われるというなら 神に逆らう者、罪を犯す者が 報いを受けるのは当然だ」

と訳されていました。
仏教に「彼岸」「此岸(しがん)」ということばがあります。「彼岸」とは、所謂「あの世」のことで、「此岸(しがん)」とは「この世」のことなんですが、ある方は、旧約聖書の一つの特徴は、その「此岸性」にある、つまり、この世で決着がついてしまうところにある、と書いておられました。善人には報いがあり、悪人には裁きがある。ただ、現実には、どうでしょうか?昔あった「水戸黄門」のような勧善懲悪の分かり易いテレビドラマは別にして、この世の中、必ずしも、先程、お読みしたみことば通りになっているとは思えないのですが…。
ただ一つ言えることがあるとすれば、それは、聖書に書かれてある裁きや報いというのは神の専権事項であり、私たち人間には、一切、口を挟むことができないということです。私たちにできること。それは、自分の人生に起こってくる思いがけない出来事に対して、どのような態度をとるのか、それだけではないでしょうか。正直、納得がいかない時もあると思います。ただ、それを否定して自分の人生を呪い、嘆き悲しみながら生きるのか。それとも、肯定して人生を受けとめ、前を向いて生きるのか。それは私たち自身に委ねられていると思うのです。
最後に、今日の開会聖句をもう一度お読みします。

『その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ』(マタイ25:21)。

私たち一人一人に与えられている能力や健康、家族やお金なども本当に様々です。そして、それらのものは、どんな人であっても、年を取ればやがては衰え、また失われてゆくことでしょう。ただ、大切なことは、それらのものが、どれだけ立派か、人より優れているか、ということではなくて、いさぎよく、神から自分に委ねられたものとして引き受け、前を向いて生きてゆくことなんですね。

メッセージ内容のダウンロード(PDF97KB)

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「MB信仰告白について学ぼう」で、南野師と田中師と事務局の小寺姉による座談会形式で収録された動画です。

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