自由の律法

大阪府における緊急事態宣言が6月20日(日)に解除され、7月11日(日)までの期間「蔓延防止等重点措置」に移行したことに伴い、7月4日(日)より、礼拝を再開します。千里教会では3密を避けるため、当面の間 2 階の礼拝堂で短時間の礼拝を行うこととします。
体調のすぐれない方、ご不安な方および高齢の方は、当ホームページに掲載のメッセージ原稿やYoutube動画を活用いただき、それぞれのご自宅で礼拝をお捧げください。

メッセージ

<ヤコブの手紙 1章19~27節>
メッセージ:牧師:砂山 智

開会聖句

しかし、自由をもたらす完全な律法を一心に見つめて、それから離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならず、実際に行う人になります。こういう人は、その行いによって祝福されます。

<ヤコブの手紙 1章25節>

メッセージ内容

Youtube動画


メッセージ動画公開:7/4 PM 2:25

メッセージ原稿を公開しました。家庭での礼拝に用いてください。 
 
<序論>  

・「ヤコブの手紙」は、新約聖書の分類上では「公同書簡」の一とされています。「公同」とは「普遍的」という意味で、この「ヤコブの手紙」から「ユダの手紙」までがそうなんですが、それは、これらの手紙の宛先(読み手)が特定の教会ではなく、キリスト者一般(全体)と見なされているためです。

『神と主イエス・キリストのしもべヤコブが、離散している十二部族にあいさつを送ります』(ヤコブ1:1)。

著者であるヤコブの名前も冒頭の1節に出てきます。旧約聖書でヤコブと言えば、あの「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」のヤコブを連想する方が多いと思いますが、新約聖書にはヤコブという名前の人物は4人登場します。有名なところでは、十二使徒の一人であったゼベダイの子ヤコブ(大ヤコブ)とアルパヨの子ヤコブ(小ヤコブ)なんですが、どちらもこの手紙の著者ではありません。伝承では、この手紙の著者は、イエス様の弟で、当時、エルサレム教会の重要な指導者の一人であったヤコブのことであるとされています。彼は、イエス様が亡くなられた後になってから、はっきりとした信仰に導かれたようです。キリスト者となってからは、その生涯をエルサレムで送り、パウロのように各地を伝道して廻るというようなことはなかったと伝えられています。

<本論>
1、聞くのに早く、語るのに遅く、怒るのに遅くありなさい

さて、今日のテキストですが、最初の19節のみことばを読んで、私は、「雄弁は銀、沈黙は金」という諺を思い出しました。元々、英語の諺だったそうですが、日本にも、これに類する諺はたくさんあります。「口は禍の元」「言わぬが花」等々。それは裏を返せば、そのようなことは、どんな国のどんな時代の人でも思い当たる節がある、ということではないかと思います。先月までメッセージでお話しした「箴言」にも、同じような意味のことばがいくつもありました。一つだけご紹介しますと、10章19節。

『ことば数が多いところには、背きがつきもの。自分の唇を制する者は賢い人』(箴言10:19)。

ただ、今日の手紙で著者ヤコブが言いたかったことは、聞くことと語ることだけではなかったようです。彼は最後に、怒るのに遅くありなさいと勧めています。そして、次の20節。

『人の怒りは神の義を実現しないのです』(ヤコブ1:20)。

私たちも、怒ることが度々ありますよね。私の場合には、自分勝手な妬みや自己中な性格によるものが多いのですが、時には、ニュースなんかを見て、心の中に怒りがむらむらと湧き上がってくる時もあります。最近では、通商産業省のキャリア官僚二人によるコロナ給付金の不正請求。昔、ボヤキ漫才で有名やった人生幸朗・生恵幸子の漫才やったら、「馬鹿者!責任者出てこい!」と叫んでるとこですが、まぁ、二人とも、既に捕まっていますが…。ただ、ここでヤコブが言っていることは、そんな怒りも、神の義を実現しないということなんです。「匹夫の勇」ということばがあります。それは、「思慮浅く、ただ血気にはやってがむしゃらに行動したがるだけの勇気」という意味なんですが、私たちの怒りもそんな勇気と同じで、ともすれば、思慮浅く、頭に血が上っただけで終わってしまう。そんなことが多いのではないでしょうか。不正を憎み、正しく怒ることは決して間違ったことではありませんが、やはり、私たちは、究極的には、「ローマ人への手紙」12章のみことばを忘れてはならないと思います。

『愛する者たち、自分で復讐してはいけません。神の怒りにゆだねなさい。こう書かれているからです。「復讐はわたしのもの。わたしが復讐する。」主はそう言われます』(ローマ12:19)。

また、「日々のみことば」を読んでいましたら、その執筆者の方が興味深いことを書いておられました。それは、ここで言われている「聞く、語る、怒る」というのは、特に、私たちのみことばに対する姿勢を示しているということです。確かに、23節に「鏡」ということばが出てきますが、これは、みことばの比喩だと解釈することができます。ちょうど、鏡が私たちの姿を正しく映してくれるのと同じように、みことばは私たちの信仰を正しく映してくれる鏡のようなものだということですね。けれども、私たちは、みことばが自分の願いと違っていると、つまり自分の姿が思うように映っていないと感じると、すぐに不平不満を漏らしてしまいやすいんですね。みことばが語られる時、私たちの内なる霊は喜びますが、私たちの内なる肉は逆らいます。そんな時、自分自身の内側を深く見つめ、神に祈る者でありたいと願います。

2、みことばを行う人

そして、22節。

『みことばを行う人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけません』(ヤコブ1:22)。

この箇所は、本書で初めて「行い」について言及されている箇所なんですが、16世紀に起こった宗教改革の指導者マルティン・ルターは、「ヤコブの手紙」を「藁の書」と呼んで厳しく批判しました。それは、この手紙の内容が、彼が特に重要視した、宗教改革の三大原理の一つ、「信仰義認」「信仰によって義とされる」という教義に反すると考えたからですね。ルターは、その「信仰義認」を、パウロの手紙から示されたようですが、確かに「エペソ人への手紙」には、パウロの次のようなことばがあります。

『この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです』(エペソ2:8,9)。

しかし、一方で、「使徒の働き」の中で、パウロは次のようにも言っています。それは、彼が三度目の伝道旅行の後、エルサレムに戻り、捕えられて、カイサリアでヘロデ・アグリッパに対して弁明した際のことばです。

『こういうわけで、アグリッパ王よ、私は天からの幻に背かず、ダマスコにいる人々をはじめエルサレムにいる人々に、またユダヤ地方全体に、さらに異邦人にまで、悔い改めて神に立ち返り、悔い改めにふさわしい行いをするようにと宣べ伝えてきました』(使徒26:19,20)。

そうなんです。パウロも決して、行いを軽んじていたわけではないのです。
今日のテキストで、ヤコブもまた、聞くことの大切さを丹念に説いた上で「行い」について語っていることを、私たちは見落としてはならないと思います。みことばを自分自身に語られたものとして真剣に聞く人は、それを行わずにはいられないはずだ、ということではないでしょうか。

<結論>

今日の説教題は「自由の律法」とさせていただきました。開会聖句に『自由をもたらす完全な律法』とありますが、前の訳では『完全な律法、すなわち自由の律法』となっていました。この25節のみことばについて、ある注解書に次のような一文がありました。

「この節こそ、まさにルターが非常に嫌ったヤコブの手紙の一文章である。ルターは律法という概念を非常に嫌った。というのは、パウロとともに彼は「キリストは律法の終わりである」ローマ10:4(※【2017】では「律法が目指すものはキリストです」)とよく言ったからである。ルターは「ヤコブは私たちを、律法とわざに追いやる」と言った」。

しかし、この箇所でヤコブの言う「自由の律法」というのは、今、ご紹介したような、ルターが嫌った旧約の律法とは少し違っているようなんです。その具体的な内容は、26節以降に示されています。

『自分は宗教心にあついと思っても、自分の舌を制御せず、自分の心を欺いているなら、そのような人の宗教はむなしいものです。父である神の御前できよく汚れのない宗教とは、孤児ややもめたちが困っているときに世話をし、この世の汚れに染まらないよう自分を守ることです』(ヤコブ1:26,27)。

当時のイスラエルは厳格な家父長制の社会でした。今でも中東などの国々ではそうみたいですが、そのような社会で、家長、一家の大黒柱を失うということになれば、遺された家族はたちまち生活に行詰まってしまいます。ですから、聖書では、孤児ややもめというのは、最も悲惨で無力な人たちを表す代表例としてよく出てくるんですが、ヤコブが言うところの「自由の律法」というものを端的に説明するとすれば、それは、孤児ややもめのように、この世界で小さくされ、弱くされた者たちとともに歩まれたイエス様の生き方に倣おうとするキリスト者たちの間に伝えられてきた倫理的な命令、及び、それらを規範として再解釈されたモーセ律法などの総体のことではないかと思います。
この少し後の2章12,13節にも「自由の律法」ということばが出てきます。

『自由をもたらす律法によってさばかれることになる者として、ふさわしく語り、ふさわしく行いなさい。あわれみを示したことがない者に対しては、あわれみのないさばきが下されます。あわれみがさばきに対して勝ち誇るのです』(同2:12,13)。

イエス様は、

「あなたがたの父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くなりなさい」(ルカ6:36)

と言われました。祈りましょう。

メッセージ内容のダウンロード(PDF110KB)

新聖歌

開会祈祷後:24番、メッセージ後:366番

聖書交読

詩編69篇 1~18節

2021年教会行事

7月7日(水)オリーブ・いきいき百歳体操

#53-2769

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