まことの奉納物

メッセージ

<出エジプト記 25章1~22節>
メッセージ:牧師:砂山 智

開会聖句

「わたしに奉納物を携えて来るように、イスラエルの子らに告げよ。あなたがたは、すべて、進んで献げる心のある人から、わたしへの奉納物を受け取らなければならない。

<出エジプト記 25章2節>

メッセージ内容

Youtube動画


メッセージ動画公開:10/3 PM 3:51


メッセージ原稿を公開しました。家庭での礼拝に用いてください。 
 
<序論>  

・「出エジプト記」20章にはモーセに「十戒」が告げられる場面が描かれています。そして、神はモーセに、「わたしはあなたに石の板を授ける。それは、彼らを教えるために、わたしが書き記した教えと命令である」と告げられます。モーセは、その石の板を受け取るためにシナイ山に登るのです。

『「私たちがあなたがたのところに戻って来るまで、私たちのために、ここにとどまりなさい。見よ、アロンとフルがあなたがたと一緒にいる。訴え事のある者はだれでも彼らのところに行きなさい。」』(出エジプト24:14)。

今、お読みした中の『ここにとどまりなさい』の『ここ』とは、現在、「ラスハーラ高原」と呼ばれる、シナイ山の麓の荒野のことだろうと言われています。その風景を写真で見たことがあります。前回、説教でお話しした「旧約の風景」という本でなんですが、赤茶けた岩しかない、実に荒涼とした場所でした。夏には五十度を超し、冬には寒風が吹き荒れるのだそうです。その場所について、山本七平さんは次のように書いておられました。

「もし、この寒風の中で、一人でここに立てと言われたら、俺は一体どうするだろうか。何にでもいいから、すがりつきたいという気がするのではないか。荒野に一人立つ。それは大変なことであり、普通の意味の「勇気」は、その時には全く無力であり、それが虚勢にすぎないことを思い知らされる」。

<本論>
1、幕屋

先程、お読みした24章14節のモーセのことばを聞いたイスラエルの長老たちは、一人ではなかったんですが、やっぱり同じような気持ちだったのではないでしょうか。実際、彼らは、モーセがシナイ山から下りて来るのを待ちきれずに、同胞たちから金の耳輪を集め、それで子牛の偶像を作り、「イスラエルよ。これがあなたをエジプトの地から導き上った、あなたの神々だ」と言って、民に偶像崇拝の罪を犯させてしまうのです。今朝のテキストもそうですが、「出エジプト記」には、幕屋やその中に置く品々、儀式を行う祭司が着る聖なる装束などについて、実に事細かな指示が書かれています。それは、彼らが、荒涼とした死の世界のような荒野で、契約の民、神の民として生きていくために、何か形あるもの、人間の目に見える形で神の臨在を表すもの、神が本当に自分たちとともにおられるんだということを保証するものが必要だったからではないでしょうか。もちろん、「金の子牛」のような偶像、すなわち、それが神そのものになってしまっては本末転倒なんですが、やっぱり目に見える何かがないと、という弱さが、私たち人間にはあるんだなぁと思わされます。幕屋というのは持ち運びできる神殿と言えますが、それは神殿と同じく、この地上で神が住まわれる所であり、また、神がご自分の民イスラエルと会見される所でもありました。その幕屋を作るにあたって一番大切なことは、最初に告げられています。今朝の開会聖句です。

『「わたしに奉納物を携えて来るように、イスラエルの子らに告げよ。あなたがたは、すべて、進んで献げる心のある人から、わたしへの奉納物を受け取らなければならない』(出エ25:2)。

このみことばは、新約聖書のパウロのことばを思い起こさせます。

『一人ひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は、喜んで与える人を愛してくださるのです』(Ⅱコリント9:7)。

【2017】の訳になって、後半の「神は、(点)喜んで~」と、間に点が入ったんですが、それは、このみことばの「喜んで」ということばがどこにかかっているのかをはっきりさせるためですね。神は、私たちの心の中をご覧になる方です。献げる金額が多いか少ないかではなくて、心から喜んで、進んで献げる人を神は愛してくださるのです。イエス様がおっしゃった「天に宝を積みなさい」というのは、そういう意味ではないかと思います。

2、契約の箱

そして、今日の箇所で、幕屋と共に作るようにと命じられているものがあります。それは、10節以降にある契約の箱です。「出エジプト記」では、あかしの箱と呼ばれています。幕屋の中には様々な調度品がありましたが、その中で、最も神聖で中心をなすものが契約の箱でした。それは、神のご臨在を象徴するものであり、この箱の中には、神さまとイスラエルとの契約の証しとなる、あの十戒を刻んだ二枚の石板(さとしの板)が入れられたのです。
今朝の箇所では、その契約の箱の作り方が詳しく述べられています。例えば、アカシヤ材で作るとか。古い話ですが、西田佐知子の「アカシアの雨がやむとき」という大ヒット曲がありました。ただ、日本でアカシヤと呼ばれている木は、実はニセアカシヤという木で本当のアカシヤではないそうです。幕屋の材料として使われたアカシヤは、荒野のような水の乏しいところでも枯れることはなく、育つスピードは遅いのですが、その分、木目が緻密で、とても堅牢なのだそうです。ですので、「七十人訳聖書(ギリシア語訳旧約聖書)」は、これを「不朽材」と訳しています。
そして、私たちクリスチャンは、これらのものを、新約の光に照らすことによって、素晴らしい恵みの啓示として受け止めることができます。新約聖書の「へブル人への手紙」10章1節に、

『律法には来るべき良きものの影はあっても、その実物はありません』(へブル10:1a)

とある通りです。前回の説教で、モーセが杖で打って水を出したという岩についてお話ししましたが、モーセが打った岩が影で、キリストが実物ということですね。今朝の幕屋や契約の箱についても同じことが言えます。例えば、アカシヤ材はキリストの「人性」を表し、全体を覆う純金はキリストの「神性」を表す。また、箱をかつぐための棒は、私たちと共にどこにでも行ってくださるキリストの「機動性(遍在性?)」を表している。そして、17節以降では、『宥めの蓋(贖いのふた)』について述べられていますが、これも純金で作るようにと命じられています。メチャメチャ重かったでしょうね。18節の『ケルビム』とは、いわゆる「天使」のことですが、今朝のテキストの最後のみことば、22節で、神は、その宥めの蓋の上にある二つのケルビムの間から、イスラエルの民と会見するとおっしゃいました。それは、この場所こそ、神と人とが和解する場所、人間の罪が赦され、神の前に立つことができる場所であったということを意味しています。この宥めの蓋には、一年に一度、「大贖罪日」という日に、大祭司がいけにえの動物の血を振りかけることになっていました。「大贖罪日」とは、全ての借金が免除され、罪が贖われる日で、この日は一年の中で最も聖なる日とされていました。この、宥めの蓋の上で、神は人と会見し、その罪を赦してくださる。それはまさに、イエス様の十字架上での贖いを指し示すものでした。

<結論>

今朝は、私たちにとって、2か月ぶりの教会での礼拝ですが、本当に久しぶりに皆さんとともに礼拝をささげることができ、神様の御前に立つことができたことは大きな喜びです。私たち千里教会は、コロナの緊急事態宣言の間も、リモートによる礼拝を続けてきました。少し前でしたら本当に考えられなかったことですが、今は「YouTube」という便利なSNSがあり、スマホやパソコンを使って、それぞれが自分の家にいながらにして礼拝をささげることができるんですね。今日のイスラエルの民も、ある意味、荒野という厳しい環境の中にあって、なんとかして礼拝をささげるために、幕屋や契約の箱というものを作ったわけです。それはもちろん、神から命じられたことでしたが、神は彼らが神の民として歩むために、それらのものが必要だと思われたから、そのように備えてくださったのではないでしょうか。時代は変わり、世の中の仕組みもどんどん変わっていきます。私たちは、その変化についてゆけずに、右往左往してしまうこともあるんですが、今朝のイスラエルの民がそうであったように、私たちもしぶとく生き残っていきたいですね。先の「MB70周年記念大会」のスローガンは「みんなでブレイクスルー」でした。教会の制度や礼拝などのあり方、そしてもちろん教団もそうなんですが、これからも柔軟に変わっていく必要があるでしょう。ただ、一番大切なことは、いつの時代にあっても、外見や形式的なことではなくて、その中身、私たちの心、進んで献げる心なのではないでしょうか。それこそ、神へのまことの奉納物ではないかと思います。祈りましょう。

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新聖歌

曲の指定はありません
開会祈祷後:220番、メッセージ後:395番

聖書交読

詩編75篇 1~10節

2021年教会行事

10月6日(水)オリーブ いきいき百歳体操(10時~11時)

#53-2784

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