思い直される神

メッセージ

<出エジプト記 34章1~17節>
メッセージ:牧師:砂山 智

開会聖句

すると主は、その民に下すと言ったわざわいを思い直された。

<出エジプト記 32章14節>

メッセージ内容

Youtube動画

 


メッセージ動画公開:10/17 PM 3:04  


メッセージ原稿を公開しました。家庭での礼拝に用いてください。 
 
<序論>  

・今日のテキストの少し前、32 章には、「金の子牛事件」が記されています。十戒が書かれた石の板を神から拝受するためにシナイ山に上ったモーセでしたが、その帰りを待ちきれなかったイスラエルの民は、金の耳輪で子牛の偶像を造り、それを神として拝んでしまうのです。おまけに、民に詰め寄られたとはいえ、それを導いたのはモーセの兄で最初の大祭司アロンだったのです。モーセは激しく怒る神に対して必死にとりなします。その結果は、どうだったでしょうか?今朝の開会聖句です。

『すると主は、その民に下すと言ったわざわいを思い直された』(出エ 32:14)んです。

ただ、なんとか神の怒りを抑えることには成功したモーセでしたが、自分自身の怒りを抑えることはできませんでした。彼は、シナイ山から持ち帰った石の板をたたき割り、兄アロンを激しく詰問します。32 章 22~24 節には、アロンの愚にもつかない言い訳が記されています。

<本論>
1、旧約の神

そして、その後、神はモーセに対して、再び前と同じような十戒が書かれた二枚の石の板を授けてくださいます。今朝の 34 章 6~7 節を、もう一度ご覧ください。

『主は彼の前を通り過ぎるとき、こう宣言された。「主、主は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのに遅く、恵みとまことに富み、恵みを千代まで保ち、咎と背きと罪を赦す。しかし、罰すべき者を必ず罰して、父の咎を子に、さらに子の子に、三代に、四代に報いる者である。」』(出エジプト 34:6~7)。

「主」(聖四文字:ヤハウェ?)とは、神ご自身の名前ですが、このことばから、私たちは、主とはどのような方であるかということを知ることができます。

  1. あわれみ深く、情け深い方
  2. 怒るのに遅い方
  3. 恵みとまことに富む方
  4. 恵みを千代まで保つ方
  5. 咎とそむきの罪を赦す方
  6. しかし、罰すべき者を必ず罰する方
  7. 父の咎を子に、子の子に、三代、四代に報いる方

恵みは千代まで保ち、罰は四代まで報いる、というのは、ある意味、公平ではありません。しかし、このことばこそ、まさに、神の本質を表しているのではないでしょうか。ある本によると、この四代までということばは、当時の家族構成、つまり一緒に暮らしていたのが四代目(曾孫)までということを念頭に置いたことばではないかということです。言い換えれば、咎が及ぶのは現在の家族、実際にともに暮らす家族までということですね。そして、もし、恵みは千代だから罰も千代まで、という神様だったら、イスラエルの民はとっくに荒野で滅んでしまっていたでしょう。それはもちろん、私たちもですが。ただ、もしかすると皆さんの中には、旧約聖書の神について(実際には旧約も新約も同じ神と私たちは信じているんですが)、荒ぶる神、恐ろしい裁きを下す神、というようなイメージを持っている方もおられるかもしれません。
新約で、イエス様が、そのことばだけではなく、ご自分の生き様を通して示してくださった愛なる神とは、何かギャップがあるような・・・?けれども、旧約聖書を注意深く読むと、何度も何度も、思い直される神様の姿を見出すことができます。この「思い直す」と訳されているヘブル語「ナーハム」は、「悔いる・ひっくり返す」とも訳せることばで、神様のご意志が変わったという意味に理解することができます。今日の箇所以外にも、例えば「創世記」18 章に、神とアブラハムとの、ソドムとゴモラへの裁きについてのやり取り。結局、最終的に、ソドムとゴモラには十人の正しい人さえいなかったので滅ぼされてしまうのですが、アブラハムからの懸命の嘆願に対して、神は全く聞く耳を持たないということではなくて、実にあわれみ深く、誠実に答えようとしてくださるんですね。その御姿にも、今朝の 6 節の、あわれみ深く、情け深い、怒るのに遅い神を見る思いがします。

2、神に怒ったヨナ

そして、今朝、そのことに関連して、もう一つ皆さんと見ておきたいのが「ヨナ書」なんです。旧約には面白い書簡がたくさんありますが、「ヨナ書」ほどユニークな書簡は他にはないように思えます。教会学校などでもよく取り上げられますが、あの大きな魚の腹の中で三日三晩過ごしたヨナの姿は、紙芝居や絵本でお馴染みの場面です。
そして、改めて読み直してみると、「ヨナ書」って本当に不思議な書だなって思わされるんです。まず、神がヨナに宣教をお命じになったのは(実際には滅びの宣告でしたが)、イスラエルの憎むべき敵ニネベであったということ。そして、ヨナは、その務めが嫌で嫌でたまらなくて逃げ出すんですが、その途中、自分のせいで船が嵐で沈んでしまいそうになったときには、いけしゃあしゃあと「私はへブル人です。私は、海と陸を造られた天の神、主を恐れる者です」と宣言し、結果的に、その船の乗組員たち(異邦人)が信仰に導かれるということ。そして、もっともっと不思議なのが、ヨナからの宣告を聞いたニネベの人たちが、王から下々の者に至るまで、素直に、心から悔い改めたということです。「ヨナ書」3章10節には次のように書かれています。

『神は彼らの行いを、すなわち、彼らが悪の道から立ち返ったのをご覧になった。そして神は彼らに下すと言ったわざわいを思い直し、それを行わなかった』(ヨナ3:10)。

しかし、この心変わり(?)はヨナを怒らせます。ヨナは、ぶんむくれるんですね。「俺のいのちを取ってくれ!こんなことなら、死んだほうがましだ!」と。それを神は一本の唐胡麻の木を備え、それで陰を作って、ぶんむくれたヨナの機嫌を直そうとまでされるんです。さらに、「ヨナ書」は最後までユニークです。それは、そのエンディングで、ヨナを諭すかのような神のことばで終ってるんですが、その後どうなったのか、一切書かれていないんです。ヨナは神のことばを聞いて悔い改めたのか?それとも、悔い改めずに神によって裁かれたのか?私はいつも、このエンディングを読むと、最後に「暗転」と書き足してしまいたくなるんですが、本当に舞台で見る劇かなにかの脚本のような終わり方ですよね。

<結論>

さて、そろそろ結論なんですが、私は、私も含めてなんですが、クリスチャンの多くに、この「ヨナ書」のヨナについての一つの思い込み、固定観念と言いますか、偏見というのがあるように思うんです。それは、「わがままで不信仰なヨナさん」ということですね。私たちは今まで、「初めに不信仰ありき」という前提で、この「ヨナ書」を読んでいたのではないかと。しかし、注意深く別の角度でヨナという人を見てみると、実は彼はとても正直な人ではなかったかなぁ、とも思うんです。ただし、それは人に対してではなく、神に対してです。彼が怒っているのは、いつも神に対してなんですね。ニネベの人たちへの憎しみはあったと思いますが、彼が怒りをストレートにぶつける相手は神様なんです。私たちは、心の奥底に神への怒りのマグマのようなものがあっても、それを押し殺して、「神に向かって怒るなんて、そんな不信仰でだいそれたこと…」と、つい思ってしまうんですが、よく考えてみたら、神は、そんな私たちの心の中までよくご存じの方なんですね。私は、最近、ある一冊の本を通して、この「ヨナ書」を改めて読み直してみて、神は、ヨナとのやり取りを楽しんでおられるんじゃないか。そして神は、ご自身に正直にぶつかってくるヨナに対して、愛をもって誠実に応えようとしてくださっているように感じたんです。
その本の最後に次のような一文がありましたので、それをご紹介して、今朝のメッセージを閉じたいと思います。

「神がことをなされるときには、時には非情な神としか思えないときがあります。それに巻き込まれて、振り回されて、ただ怒りだけが積もってくるのです。それを神に持って行くことを、それこそ神が仕向けているかのようです。人に、家族に、教会員に、同労者に持って行ったら、怒りの連鎖は悪の連鎖になります。それを断ち切るために、神に怒りを持って行くことを神は待っているのです。神への怒りは、神との新しい交わりの展開を促してくれます。神とのパイプが広がり、思いがけない恵みが届いてきます。そこには計り知れない神の計画が隠されていて、怒っている本人も知ることのない神の深い取り扱いに巻き込まれるからです。それに振り回されて怒りが出てきたら遠慮なく怒って神に祈ろう。「あなたは当然のように怒るのか」と言われても」
「怒って神に ヨナの怒りに触れて」上沼昌雄[著] YOBEL 新書 P216

メッセージ内容のダウンロード(PDF115KB)

新聖歌

開会祈祷後:206番、メッセージ後:283番

聖書交読

詩編77篇 1~15節

2021年教会行事

10月20日(水)オリーブ いきいき百歳体操(10時~11時)

#53-2786

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