アザゼルの雄やぎ

コロナ・オミクロン株の感染拡大は減少傾向にあるものの、医療機関の逼迫が現在も続いているとして、令和4年1月27日(木)から大阪府に発出され、3月6日(日)までとされたまん延防止等重点措置は、3月21日(月・祝)まで延長されました。
このため、教会での対面礼拝の中止も3月20日(日)まで延長し、オンライン礼拝として動画配信します。当ホームページに掲載のメッセージ原稿や、YouTube動画をご活用いただき、ご自宅で礼拝をおささげしましょう。
また、まん延防止等重点措置発出期間中の、日曜礼拝以外の集会もお休みします。

メッセージ

<レビ記 11章1~9節>
メッセージ:牧師:砂山 智

開会聖句

雄やぎは彼らのすべての咎を負って、不毛の地へ行く。その人は雄やぎを荒野に追いやる。

<レビ記 16章22節>

メッセージ内容

Youtube動画

 
 メッセージ動画公開:3/19 PM 11:15 


メッセージ原稿を公開しました。家庭での礼拝に用いてください。 
 
<序論>  

・今朝のテキストの「レビ記」16章には、「大贖罪日(ヨム・キプル)」における大祭司の儀式のやり方が記されています。「大贖罪日」は、15章までのきよめの規定を総括し、贖いと和解を完成させる重要な年中行事として行われていました。その中に、今朝のメッセージの題にさせていただいた「アザゼルの雄やぎ」というのが出てきます。この「アザゼル」という名前がどこから来たのかについては様々な説があり、はっきりしないのですが、このやぎは、英語の「スケープゴート」ということばの由来になったと言われています。その意味するところは「身代わり」「いけにえ」ということですが、「スケープゴートにされた(となった)」とは、他の人の罪や責任を、身代わりとなって背負わされた立場の弱い人を形容する際に用いられる表現です。

<本論>
1、四つぞろいの亜麻布の装束

さて、今朝の最初の1節で言及されているアロンの二人の息子の死についてなんですが、その経緯は10章冒頭に記されています。

『さて、アロンの子ナダブとアビフはそれぞれ自分の火皿を取り、中に火を入れ、上に香を盛って、主が彼らに命じたものではない異なる火を主の前に献げた。すると火が主の前から出て来て、彼らを焼き尽くした。それで彼らは主の前で死んだ』(レビ10:1~2)。

私たちプロテスタント教会における大切な教理と言うか、理念の一つに「万人祭司」というものがあります。それは、牧師などの教職者だけでなく、クリスチャンは皆、等しく祭司であるという意味ですが、私はやはり牧師として、アロンの二人の息子のように、主が命じられたものではない異なる火を主の前に献げるようなことのないようにと切に願います。それは、例えば、みことばを間違った解釈や偏った思いで語るようなことがないようにということです。ぜひ、私や、月に一度、メッセージを担当してくださっているK姉のみことばのご奉仕のために、続けてお祈りをお願いいたします。
そして、2節と3節にある聖所についてなんですが、これは、厳密には「至聖所」と呼ばれる場所で、「出エジプト記」26章31節以下にあるように、幕屋の中でも特別に神聖な場所とされ、年に一度、大祭司だけが入ることのできた場所でした。アロンは、この至聖所に入るたびに、二人の息子の死を想い、自らを深く省みさせられたのではないでしょうか。4節には、その際に着なければならないとされた特別な装束について書かれています。これら、四つぞろいの亜麻布の装束は、「出エジプト記」28章4節以下に書かれている、神の栄光と美を表す本来の大祭司の装束とは異なり、特別なへりくだりを表すための装束とされていたのです。

2、ささげ物

そして、この時、献げられたのが、3節にあった罪のきよめのささげ物としての若い雄牛と全焼のささげ物としての雄羊、さらに、5節以降に出てくる二匹の雄やぎでした。これら、ささげ物についての細かな規定は、同じ「レビ記」1~7章で詳しく述べられています。ただ、実際に、それらのささげ物が、どのような罪のために献げられていたのか。それぞれの区別を明確に説明することは、今日においては難しいことだと言わざるを得ないでしょう。

3、二匹の雄やぎ

その上でなんですが、今朝の16章を読んでいて、一つ、不思議に思えることがありました。それは二匹の雄やぎについてなんですが、先程は読みませんでしたが、16章15節以下には次のように書かれています。

『アロンは民のために、罪のきよめのささげ物である雄やぎを屠り、その血を垂れ幕の内側に持って入り、この血を、先の雄牛の血にしたように、『宥めの蓋』の上と『宥めの蓋』の前にかける。彼はイスラエルの子らの汚れと背き、すなわちそのすべての罪を除いて、聖所のための宥めを行う。彼らの汚れのただ中に、彼らとともにある会見の天幕にも、このようにする。彼が宥めを行うために聖所に入って、再び出て来るまで、だれも会見の天幕の中にいてはならない。彼は自分と自分の家族、それにイスラエルの集会全体のために宥めを行う。そして、主の前にある祭壇のところに出て行き、そのために宥めを行う。すなわち、彼はその雄牛の血と雄やぎの血を取り、それを祭壇の四隅の角に塗る。また、その残りの血を、その祭壇の上に指で七度振りまく。こうして彼はイスラエルの子らの汚れからそれをきよめ、聖別する』(レビ16:15~19)。

そして、その後の20節。

『彼は、聖所と会見の天幕と祭壇のための宥めを行い終えたら、先の生きている雄やぎを連れて来る』(同16:20)。

この生きている雄やぎは、今朝の開会聖句の22節にありましたように、屠らず、生かしたまま、不毛の地、荒野へと追いやられることになるのですが、二匹の雄やぎのうち、一匹は屠って、その血によってきよめを行い、もう一匹は生かして、荒野に追いやる。「その違いって、一体、何なの?」と。正直、何か、二重と言うか、やることがダブってるように思えたんですね。

<結論>

その答えは、最終的には神様に聞いてみないと分からないのですが、ただ、少し前の14章にも、ツァラアトからのきよめを宣言する際に献げる二羽の小鳥のうち、一羽は屠って、その血によってきよめを行い、他の一羽は生かしておいて野に放たなければならないというのがあって、それと同じような理由だと考えることはできると思います。その上で、私が思わされたのは、人間の心理現象に、「フラッシュバック」というのがありますが、もしかしたら、神様は、私たち人間が、罪からきよめられ、罪赦された後にも、時に、過去の罪を思い出して心が責め苛まれるというようなことがあるということをご存じで、このアザゼルの雄やぎというものを用いられたのではないかと。つまり、私たちのすべての咎は、アザゼルの雄やぎとともに荒野に追いやられ、もう二度と再び私たちの下へと戻って来ることはないということを決して忘れてはならない、ということですね。
「ナルニア国物語」の作者として有名なC・S・ルイスという人は、「神があなたを赦した後で、あなたが自分を赦さないなら、それは自分を神より高い地位の裁判官としているということである」と書き残しています。
私たちも、時に、過去の苦い思い出に心が責め苛まれるようなことがあるかもしれませんが、その時には、今朝のアザゼルの雄やぎのことを思い出し、愛と恵みに富みたもう赦しの神を仰ぎ見させていただきたい、と切に願います。

メッセージ内容のダウンロード(PDF86KB)

2022年教会行事

コロナ感染予防のため、お休みとなります。

#54-2808

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