メッセージ
<ヨハネの福音書 9章1~12節>
メッセージ:信徒:K
開会聖句
「あなたの重荷を主にゆだねよ。主があなたを支えてくださる。」
<詩篇 55篇22節>
メッセージ内容
Youtube動画
今週の礼拝メッセージ動画配信はありません。
メッセージ原稿を公開しました。
<はじめに>
・今日はいやしの記事です。ヨハネ福音書には今まで2つの例がありました。王室の役人の病気で死にかかっていた息子のいやしと、ベテスダの池で38年伏せっていた男性のいやしです。他の福音書はもっと多いです。ツァラアトと言われる皮膚病、女性の病気、中風、様々な障害などが記されています。今日は目の見えなかった人のいやしです。数ある記事の中で、とりわけ今日の箇所は、多くの人々の慰めや励ましになった話ではないでしょうか。それは、私たちに降りかかる病気や災い、困難に対して、「こんな不幸や苦しみはなぜ起きたのだろう?一体誰の罪のせいなのだろう?」と考えることへの、聖書からの答えだからです。聖書は人間が思いつく考え方をきっぱりと退け、とても積極的な答えを示しています。それは「神のわざが現れるため」と、とらえることです。2つの神のわざについて考えます。
Ⅰ.この人の目が見えないのは、神のわざが現れるためである。
1節「さて、イエスは通りすがりに、生まれたときから目の見えない人をご覧になった。」
目の見えなかった人が見えるようになったという記事はどの福音書にも登場します。それぞれ、細かな違いがあります。例えば、目の見えない人が2人のとき(マタイ)。その人の名前が記されている場合(マルコ)。その人に触れる場合(マタイ)。でも、3つの福音書は大体パターンが同じで、先ず彼ら自身がイエスさまが通りかかるのを知り、「ダビデの子よ、あわれんでください。」と叫ぶ。周りの人たちが黙らせようとするが、イエスさまが騒ぎに気づき、声をかける。「何をしてほしいか」と尋ね、彼らが「見えるようにしてください。」とお願いして、いやされるというものです。どれも8節足らずの短い記事です。しかしヨハネの場合はもっと長く、9章全体に話が展開していきます。その他の違いとしては、生まれたときからと記されていること、彼が叫んだのでなく、イエスさまが通りすがりにご覧になったことがあげられます。イエスさまがご覧になったので、弟子たちは好奇心から質問をしたのです。
2~3節「先生。この人が盲目で生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか。」イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。」
現代の私たちなら「誰の罪のせい?」」とは尋ねません。医学が進み、なぜそうなったかの原因がある程度わかるからです。昔は私たちの住む世界に起きる現象の原因は神さまであり、特にそれが悪いものであった場合は、神の怒りとか罰と考えました。今は、異常気象の仕組み、地震のメカニズム、病気の原因も説明可能です。しかし、理屈はそうなのですが、起こった悪が誰かのせいではないか、と考えてしまう傾向があると思います。私の知人は色々苦労が多いのですが、苦労が降りかかる度に「神さまからの罰ゲームと思うことにしてる。」と口癖のように言います。 よいことをしたからよい結果、悪いことをしたから悪い結果になるという「因果応報」は、もとは仏教用語ですが、ユダヤ社会もそうでした。イエスさまはルカ13章で、災難や事故にあった人たちについて、こう述べられました。
「そのガリラヤ人たちは、そのような災難にあったのだから、ほかのすべてのガリラヤ人たちよりも罪深い人たちだったと思いますか。…シロアムの塔が倒れて死んだあの18人は、エルサレムに住んでいる誰よりも多く、罪の負債があったと思いますか。」
弟子たちも同じように考えていたのでしょう。それで、興味本位にこの人のことも尋ねてみたのです。
この人は座って物乞いをしていたようですから、自分の頭上で交わされた「この人が盲目で生まれたのは、だれの罪のせいですか。」という無神経な話が聞こえたでしょう。物心のついた頃から何度も耳にし、「親か自分のせい」と思い込まされ、自分でもそう思い込んでいたと思います。しかし、イエスさまはこう言いました。「本人の罪のせいでも、両親の罪のせいでもない。神のわざが現れるため。」 はじめて聞くことばでした。ずっと、目が見えない原因は自分たちに、責任は自分たちにあると、彼も両親も自分を長い間責めていたでしょう。ところが「本人のせい、親のせいではない。」それどころか「神のわざ」のためだと言うのです。 本来、苦しむ人の力となり、希望を与えるはずの当時の宗教は、彼のような人を律法守れないから罪人と定め、神さまの祝福の外、恵みの外と教えていました。しかし、今イエスさまは「神のわざが現れるため」、つまり、彼は神の恵みの中、祝福の中にいると言われたのでした。
Ⅱ.神のわざとは、生き方が変えられていくことである。
その後、彼のためのいやしのわざが行われます。イエスさまは泥をこね、それをこの人の瞼に塗りつけ、シロアムの池まで行き、そこで洗い流すように命じます。その通りにすると、彼は見えるようになりました。神のわざが現されました。戻ってきた彼は、そこにいた人たちにジロジロ見られ、色々聞かれます。「あなたは本当にあの人か?」」「どうやって目があいたの?」 私たちもそのいやしに目が向きます。しかし、イエスさまが言われる神のわざとは、それだけではないのです。先に、この記事は9章全体に展開していくから長いと言いました。いやしの記事自体は12節で終わってますが、そこから生まれつき目が見えなかったという事実を否定しようとするユダヤ人たち相手に論じる様子が繰り広げられていくのです。自分の意見を持ち、堂々と述べる者へと変わっていくのです。2つめの神のわざとは人が変えられていくことです。
ここで誤解してはいけないのは、イエスさまは、罪の結果としての不幸、苦しみがないと言われているのではありません。ガラテヤ6:7に「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、刈り取りもすることになります。」とあります。罪は人間関係を損ない、健康を害したりもします。しかし、その良くない結果にいつまでも縛られ、後悔ばかりしている生き方を、神さまはよしとはされません。人間の思いは、原因や責任の追及という責めてばかりの後ろの方向に向きがちです。大なり小なり、人は思い出すことが辛い過去の何かを背負って生きています。今日の開会聖句は
詩篇55:22「あなたの重荷を主にゆだねよ。主があなたを支えてくださる。」
です。 神のわざとは、過去に囚われず、積極的に前を向いて生きる生き方を実現することです。自分ではもうどうしようもない過去に引きずられることから、そのような重荷をひとまずイエスさまに委ねて、一歩を踏み出す生き方を用意してくださるのです。神さまのわざの目的は、人を生き生きと生かすことだと思うのです。
1つの新聞の記事を紹介します。淀キリのチャプレンをされている方のお話です。 そのホスピスの患者さんは、「身体はお医者さんに治してもらうけど、心は聖書のことをよく知っている人に話を聞いてもらわないと解決しない」と思い、牧師に病室を訪問してもらいました。患者さんの苦しみは、「どうしても赦せないことがある」ということで、こんな気持ちのまま死んでいくのは、あまりに辛いから心が楽になるように手伝って欲しいということでした。牧師はそんな人に、「赦せないのはいいことではない。赦せる人になりましょう。」なんて言っても無駄で、それが出来るならとっくに解決していると思い、こう言いました。「自分は人を赦せない人間ですけど、そんな私をどうにかしてください、とゆだねる先があります。」 そして神さまにすべてを打ち明けて、祈ることを勧めましたが、患者さんは「神さまに祈るなんて、汚いところを全部さらけ出すみたいで、恥ずかしくてできない。」となかなか祈れませんでした。この方はミッションスクールの出身で、英語の聖書を持っていました。あるとき、「あなたの重荷を主にゆだねよ。」の節を英語で読むと、「ゆだねる」がCAST(キャスト)「投げる」と書かれていて、「ああ、投げてもいいんだ」と気持ちが変わり、初めて祈ることができたと、涙を流して話してくれました。「『神さま、私をあなたに投げます。』と祈ったら、本当に楽になりました。十年来の恨みが消えました。面と向かって、『赦す』とは言えないけれど、赦せないしんどさを抱えて生きることはなくなりました。」と話され、長年の恨みから解放されて最後を過ごされたそうです。
<終りに>
最後にその牧師のことばを続けて読みます。「人は自己完結しなくてはいけないと思っていて、それができないから苦しい。ですが、最終的には人間ができる領域は決まっていて、そこから先は神さまに預けるというか、風呂敷に包んでポイと投げ渡すしかない部分があると思います。キリスト教で言う『ゆだねる』は、神さまにすべてを打ち明けて祈るという行為と同じです。」 過去を背負って生きることも、今の現状を何とかしようとすることも、未来のことを心配することも同じではないでしょうか。自分の領域は決まっているのです。そこから先は神さまの領域で、私たちは最終的にそれをポイと投げ出すしかないのです。「神のわざ」とは、その風呂敷の中のことはイエスさまに任せて、今日という新しい一日を、前を向いて、生きていくことなのだと思います。
→メッセージ内容のダウンロード(PDF173KB)
新聖歌
開会祈祷後:477番、メッセージ後:200番
聖書交読
詩編91篇 1~16節
2022年教会行事
3月30日(水)オリーブいきいき百歳体操(10時~11時)
#54-2809
One comment to this article
mb-senri_web
on 2022年3月26日 at 11:26 PM -
ご参考までに、今回の開会聖句を日本語と英語で引用しておきます。
あなたの重荷を主にゆだねよ。
主は、あなたのことを心配してくださる。
主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない。
(詩篇55:22)
Cast your burden upon the Lord and He will sustain you;
He will never allow the righteous to be shaken.
(Psalm 55:22)