現場で生きる人

8月22日(日)までの期間、大阪府に発出されている「蔓延防止等重点措置」に伴って、7月4日(日)より、礼拝を再開しましたが、8月2日(月)から9月12日(日)(8月31日(火)までの期間が延長)までの期間、再び緊急事態宣言の発出に切り替わるため、千里教会では感染状況を考慮し、8月8日(日)から9月12日(日)までの期間、対面での礼拝は中止し、オンライン礼拝として動画配信します。
対面礼拝休止期間は、当ホームページに掲載のメッセージ原稿やYoutube動画を活用いただき、それぞれのご自宅で礼拝をお捧げください。

メッセージ

<ヨハネの福音書 6章1~15節>
メッセージ:信徒:K

開会聖句

幸いなことよ。弱っている者に心を配る人は。 わざわいの日に 主はその人を助け出される。

<詩篇 41篇1節>

メッセージ内容

Youtube動画

今週の礼拝メッセージ動画配信はありません。


 

メッセージ原稿を公開しました。 

<はじめに>  
・緊急事態宣言が延長になりました。もう一年以上、私たちは「不要不急」という言葉をしっかりと頭に叩き込んで、日々行動していますが、問題は、この基準は人によってまちまちということです。今日の聖書箇所は、イエスさまが5千人の人を養った「パンの奇跡」と言われるところです。 この話はどの福音書にも含まれている唯一の奇跡です。つまり、マタイもマルコもルカもヨハネも、この話は不要(不急)ではない、イエスさまが救い主であることを伝える為に絶対必要だ!と考えたということです。それぞれが、この話を通して大切なメッセージを語っていますが、ここでもヨハネ特有のユニークな視点があります。それは、あまり有名でない人の存在を紹介してくれることで、今日もそういう人物が登場するのです。いったい誰でしょうか。まず、奇跡そのものに目をとめることから始めましょう。

<本論>
Ⅰ.奇跡は神の深い憐れみのこころのあらわれです

以前にもマルコの福音書6章で、この奇跡の話をしたことがあります。そのときのタイトルは「驚くべき神の国の祝宴」でした。祝宴(食事会)に「驚くべき」ということばをつけた理由は、私などはイエスさまが5つのパンを裂き始めると、その手からどんどんパンが出てきて、参加者全員に配ったという、わくわくするような光景に関心がいくのですが、そういう不思議さからくる驚きではありません。イエスさまが食事会の主催者で、神のみこころがなされている祝宴とは、この世のものとは全く違って、誰もが満ち足りて、喜びにあふれるという意味でした。

この時代、ユダヤ社会は宗教的差別があり、人々は分断されていましたし、ローマ支配下で、重税のために生活はとても苦しかったのです。ヨハネの福音書にはないのですが、イエスさまの祝宴と対称的に描かれているのが、ヘロデの祝宴です。それはガリラヤ地方の権力者ヘロデ王主催の祝宴で、招待客は利害関係の絡むメンバーばかりです。そこでは、ご機嫌伺い、権威の誇示、陰謀策略が繰り広げられ、捕らえられていたバプテスマのヨハネが首をはねられるのも、この場でのヘロデ王のええ格好しいが原因でした。 またその祝宴は、民衆から取り立てた税金の浪費と、奴隷たちの労働によって成り立っていました。 一方、イエス主催の祝宴は全く違いました。男も女も子供も、身分、職業の区別なく参加できます。イエスさまが食事会に人を招くルールを説明されている場面があります。

ルカ14:12~14「昼食や晩餐をふるまうのなら、友人、兄弟、親戚、近所の金持ちなどを呼んではいけません。彼らがあなたを招いて、お返しをすることがないようにするためです。食事のふるまいをするときには、貧しい人たち、からだの不自由な人たち・・・その人たちはお返しが出来ないのであなたは幸いです。・・・」

イエスさま主催の食事会は利害関係ゼロです。全員が参加でき、協力して配膳し、片付けもします。食料は有り余るほど豊かで、誰もが満ち足りて喜んでいる。それが「驚くべき神の祝宴」の姿でした。

イエスさまの奇跡というのは、ただ人を驚かせ、力を見せつけるような不思議なわざではありません。目の見えない人の視力を回復することも、足の悪い人をいやすことも、メシアの憐れみ深いわざとして、旧約聖書ですでに語られていました。イエスさまが人となって地上に来られたとき、人々の様子は、まるで羊飼いのいない羊のよう、世話してもらえない羊のようだと心を痛められました。羊は健康に必要な食べ物や水が与えられ、毛を刈るなど清潔に保たれ、転んだら起こしてもらうなど、人の手による十分な世話を必要とする動物です。イエスさまのなさった奇跡は、そういう世話が受けられず、目の前で苦しんでいる人のために、神さまの憐れみがあふれでたものだったのです。では、次に登場人物を見ましょう。

Ⅱ.アンデレは現場の人の声を聞き、イエスに取り次ぐ人です

5~9節「イエスは目を上げて、大勢の群衆がご自分の方に来るのを見て、ピリポに言われた。『どこからパンを買ってきて、この人たちに食べさせようか。』 イエスがこう言われたのは、ピリポを試すためであり、ご自分が何をしようとしているのかを、知っておられた。 ピリポはイエスに答えた。『1人ひとりが少しずつ取るにしても、2百デナリのパンでは足りません。』 弟子の1人、シモン・ペテロの兄弟アンデレがイエスに言った。『ここに、大麦のパン5つと、魚2匹を持っている少年がいます。でも、こんなに大勢の人々では、それが何になるでしょう。』」

さて、有名でない人物とは誰でしょうか。ピリポとアンデレのペアが登場しますが、特にアンデレは、ペテロの兄弟と言わないと通じないくらい存在感が薄いようですね。しかし、5つのパンと2匹の魚のお弁当の持ち主をイエスさまのところに連れてきたのは、彼なのです。今日の主人公は彼です。 イエスさまのこの事態をどうするかという質問に対して、ピリポの答えは「一人ひとりが少しずつ取るにしても、2百デナリのパンでは足りません。」 ピリポは非常に現実的な人で、パパッと計算したら、この人数では200デナリでも足らないと考えました。そして、アンデレは、お弁当を持った少年を連れて戻って来ました。

9節「ここに、大麦のパン5つと魚2匹を持っている少年がいます。でも、こんなに大勢の人々では、それが何になるでしょう。」

と言い訳しながら。 このお弁当の提供者の場面が他の福音書ではありません。誰がパンを提供したかより、その後のイエスさまのわざに関心がいったのかもしれません。

実は、アンデレが登場する場面はヨハネ福音書の3カ所だけです。 1章で、アンデレは
最初にイエスさまに会ってメシアだと確信し、翌日兄弟ペテロをイエスさまに引き合わせます(40~42)。12章では、過越の祭にエルサレムに上ってきたギリシャ人をイエスさまに引き合わせようとします(20~22)。今日は、お弁当を持った少年をイエスさまに引き合わせます。お気づきでしょうか。アンデレは、誰かをイエスさまに引き合わす人、間をとりなす人なのです。

イエスさまに会いたいという人が多くいましたが、誰もがすんなり会えたのではありません。 例えば、お母さんと子供たちが祝福してもらいたくて近づこうとした時、弟子たちがうるさいと妨げました。ザアカイがイエスさまを見たくて、列の前に行こうとした時、町の人たちは通せんぼうしました。目の見えないバルテマイが近くにいるイエスさまに大声で叫んだ時、人々は黙らせようとしました。社会的に弱い立場の人が、イエスさまの前に出て行くのは難しかったようです。パンと魚のお弁当を差し出したのは少年でした。アンデレが彼を連れて来たとき、「こんなに大勢の人々ではそれが何になるでしょう。」と言いながらなので、このお弁当に期待してないことはわかります。でも少年をイエスさまの前につれてきたのは、少年の「イエスさまに会いたい」という気持ちを汲んだのではと思うのです。大麦のパンは彼の貧しい身分をあらわします。子どもでした。5千人の大人がいました。誰も、彼のために、イエスさまに近づく道を開けてくれなかったのでしょう。
今日の開会聖句は「幸いなことよ、弱っている者に心を配る人は。」です。 私はアンデレという人は、他の人の声を聞き、その思いを理解し、助けになろうとする人だと思いました。「現場で生きる、現場重視の人」です。コロナ禍でも、医療現場の逼迫性が上の偉い人たちには伝わってないのではと言われています。なかなか届かない声、かき消されてしまう思いというものがあります。アンデレは、目立たない弟子でしたが、声をあげにくい人たちの声や思いに心を配り、イエスさまに取り次ぐことを自分の役割とした弟子だと思います。

<むすび>

今も教会に来ることが困難な人たちがいます。病気、家庭の事情、敷居が高いなど。今はさらにコロナが重なりましたし、教会の活動自体も出来なくなりました。しかし、私たちにとっての現場とは、本当は日常生活にこそあるのではないでしょうか。コロナ化だからこそ、そこでの役割は期待されるものだと思います。確かに不要不急で、行動範囲は狭いですが、それでも、色んな人たちに囲まれ、出会います。父なる神さまはすべての人に恵みを注がれる方です。弱っている誰かのこと、嘆いている誰かのこと、悲しんでいる誰かのことを、父なる神さまに取り次ぎ届けましょう。そのために、周りにいる人たちに耳を傾け、思いを向けましょう。アンデレのように。

メッセージ内容のダウンロード(PDF185KB)

2021年教会行事

週日の集会は、しばらくの間、お休みとさせていただきます。

#53-2778

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