あなたがたを自由にする

コロナ・オミクロン株の感染拡大が収まらず、令和4年1月27日(木)から大阪府に発出されたまん延防止等重点措置は、3月6日(日)まで延長されました。
このため、教会での対面礼拝の中止も3月6日(日)まで延長し、オンライン礼拝として動画配信します。当ホームページに掲載のメッセージ原稿や、YouTube動画をご活用いただき、ご自宅で礼拝をおささげしましょう。
また、まん延防止等重点措置発出期間中の、日曜礼拝以外の集会もお休みします。

メッセージ

<ヨハネの福音書 8章31~47節>
メッセージ:信徒:K

開会聖句

「みことばの戸が開くと 光が差し 浅はかな者に悟りを与えます。」

<詩篇 119篇130節>

メッセージ内容

Youtube動画

今週の礼拝メッセージ動画配信はありません。


 

メッセージ原稿を公開しました。 

<はじめに>  
・私はよく市民図書館を利用しますが、国会議員のための図書館があることをご存知ですか。1961年に国会議事堂の北隣に建設された国立国会図書館です。その設立の理念に「真理はわれらを自由にする」という一文が入っています。「国立国会図書館は、真理がわれらを自由にするという確信に立って、憲法の制約する日本の民主化と世界平和とに寄与することを使命としてここに設立される。」 これは歴史学者で参議院議員であった羽仁五郎という人の発案です。彼は留学先のドイツで、大学図書館の建物に刻まれたこのことばに大変感銘を受けたのでした。 初代館長によって書かれたこの一文が、図書館カウンターのひさし部分に刻まれ、多くの人々に知られるようになり、それ以後の図書館の発展に影響を与えたと言われています。今日は聖書の「真理はあなたがたを自由にする。」について考えます。聖書の真理とは何を意味し、自由にするとは、私たちをどうすることなのでしょうか。

<本論>
Ⅰ.聖書の真理とは、世に示されたひとり子の神イエスのことである。

今日の場面は、前回「わたしは世の光です。」の続きです。イエスさまはご自分のことを、

「わたしは上から来た者」(23)
「わたしは父から聞いたままを語っている」(26)

と説明されます。24,28節では、「『わたしはある』である。」とも言われました。モーセが神さま直々に教えられた名前です。イエスさまはこれまでご自分を「パン」や「水」など、生きるのに不可欠なものとして示されましたが、「わたしはある」とは、「初めから存在するもの」という神さまの究極の名前です。この名を名乗るとはかなり大胆なことです。冒.罪で即座に引っ張って行かれそうです。しかし、多くの者がイエスさまを信じました。指導者たちのように反対する者もいましたが、イエスさまのわざを見て驚き、語られることばにうなずく者もいたのです。

この信じた人たちに語られたのが、

31~32節「あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です。あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします」

です。ところが、このことばは彼らにとって聞き捨てならないことばでした。彼らの反応を見ましょう。

33節「私たちはアブラハムの子孫であって、今までだれの奴隷になったこともありません。どうして、『あなたがたは自由になる』と言われるのですか。」

彼らの誇りは、神に選ばれた民であることです。今は一時、屈辱的にローマの支配下にありますが、痩せても枯れても神の祝福の民です。罪人の異邦人なんかの奴隷ではない。それが彼らユダヤ人の自意識です。そんな彼らになぜイエスさまはつまずかせるようなことを言われたのでしょう?それは彼らの信仰がまだ本物ではないからです。メッキでした。この問答はさらにエスカレートし、彼らは「自分たちは奴隷ではなく、アブラハムの子孫で、神が父である。」と言い張るのです。しかしイエスさまは、「それなら神が遣わしたわたしを信じなさい。神から聞いた真理を信じないのは、あなたたちの父が偽りの父、悪魔だからだ。」と答え、彼らを益々怒らせました。

ヨハネ福音書の目的は、人々がイエスさまを信じていのちを得るために、「イエスとは何者?」を明らかにすることです。ヨハネは序論の1章で、イエスさまを簡潔に紹介します。

1節で「初めにことばがあった」

と述べ、 2~4節では「この方」は創造に関わり、 5~8節では「この方」は光であると。 9~16節では「この方」が世に来られたけど、民は受入れなかった。 17節で「この方」は「イエスキリスト」という名で、18節で「父のふところにおられるひとり子の神」であると正体が明かされます。 それまでユダヤ人はモーセの律法を持ち、アブラハムの子孫であることを神の民の根拠だと信じていました。しかしヨハネは、ひとり子の神イエスを信じる人々が本当の神の民であると証するのです。聖書の真理とは、世に示されたひとり子の神イエスに関することです。しかし、彼らはこの真理を受入れません。イエスのことばにとどまらないのは、本当の弟子ではなかったからです。それどころか、「あなたは悪霊に憑かれている」とガンとして拒みました。 やがて十字架と復活の後、ユダヤ社会はこの真理によって、ユダヤ教とキリスト教に分かれていきます。そして、それから1500年経って、再び真理がキリスト教世界(ヨーロッパ)をカトリックとプロテスタントの2つに分けることになります。

Ⅱ.自由にするとは、私たちを神の恵みの世界に導き入れることである。

私たちプロテスタント信仰のよって立つところは、「人は行いによってではなく、信仰によって義とされる」という信仰義認の教えです。宗教改革の立役者マルチンルターはカトリックの司祭でしたが、この聖書の教えに目が開かれ、長く抱えていた苦しみから自由にされました。彼は聖書の真理のことばが、人を自由にし、恵みによって生きるように造り変える力があることに気づきました。それで、誰もが聖書を読めるように、当時禁じられていた自国語での聖書翻訳を完成し、自分たちで歌える讃美歌を作り、日々の生活の中に神のことばを取り入れるように民衆に働きかけました。これがプロテスタント運動の一面です。

彼は法学部の学生だった時に落雷に遭い、死ぬことの恐怖から「お助けください。修道士になります。」と叫び、修道院に入りました。完全無欠な修道士になって、義(正しい)なる神さまに受入れられようと頑張ったのですが、内側から汚れた思いが湧き上がり、神さまに受入れられている思いを持つことができません。彼の良心はいつもビクビクしていました。それでも彼は順調に司祭になり、大学での神学研究を命じられます。彼はそこで熱心に聖書研究に励みました。大学では生徒に聖書を教える立場でしたが、依然として心に葛藤を抱えたままだったからです。当時、救いは意志と能力の限りを尽くし、良い行いに励み、神に受入れられる水準に到達することで得られると考えられていました。彼はいつまでたっても神さまの義に達しないことに苦しみ、そんな神さまを本心嫌いだったと回想録で述べています。

私は彼の苦しみが少しわかる気がします。きよくなりたいと思っても全然きよくなれないことに失望していた時期がありました。クリスチャンになったら、もっときよい人になれるのではなかったのかしら?私はクリスチャン失格かもしれない。皆さんも似た経験をされたことがありませんか。しかしあるとき、わたしは悟りました。自分の意志や努力で解決できたら神さま要らん、悪い思いが湧き上がるのが人間だと開き直りました。ルターより悟りが早い!! しかしそれはルターのおかげです。葛藤を抱えたルターが、まるで神さまと格闘するかのように聖書に取り組み、神の義は自分の行いの義ではなく、十字架の贖いによる義なのだという真理に目が開かれたからなのです。

「みことばの戸が開くと 光が差し 浅はかな者に悟りを与えます」(詩篇119:130)。

今日の開会聖句です。聖書を読むとき、「キリストの光に照らして読む」と言われます。イエスさまと議論していたユダヤ人たちは、聖書を暗記するほど読んでいたでしょう。しかし、彼らはひとり子の神イエスという真理を拒んだので、光は差し込まず、闇の中にとどめられました。しかしルターは、中世の力ある栄光の神とは別に、聖書に描かれている十字架で刑死した惨めなイエスの姿に、恵みの神を発見したのです。光が差し込んだ瞬間ですね。真理によって自由にされた彼は、恵みの世界に導かれ、その後の生き方も大きく変えられました。図書館で得られる真理も、有益です。人の成長や世の中の発展を助けます。しかし、聖書の真理は、私たちを人の考えから自由にし、神さまと私たちの関係を育ててくれます。神さまが恵みに満ちておられるから、ありのままの姿でお会いでき、ありのままを知ってもらってるから、安心なのです。そうして、私たちはイエスさまに似たものに少しずつ変えられていくのです。

<終りに>

今日も蔓延防止のため、共に集まって礼拝をささげることはできませんでした。緊張の毎日が続きます。先が見えない不安に、少しずつ疲れがたまっているかもしれませんが、尽きることのない神さまの恵みに支えられ、この一週間も歩みましょう。

メッセージ内容のダウンロード(PDF185KB)

2022年教会行事

コロナ感染予防のため、お休みとなります。

#54-2806

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