主が救うのなら

メッセージ

<サムエル記第一 13章1~15節>
メッセージ:牧師:砂山 智

開会聖句

多くの人によっても、少しの人によっても、主がお救いになるのを妨げるものは何もない。」

<サムエル記第一 14章6節前半>

メッセージ内容

Youtube動画

 

動画公開が遅れて申し訳ありません。 メッセージ動画公開:6/14 PM 4:57 


メッセージ原稿を公開しました。家庭での礼拝に用いてください。  
<序論>  

・「Ⅰサムエル」からの5回目です。10章で、サウルはサムエルから油を注がれ、くじで王に選ばれましたが、その時点では、王となるに相応しい実績は何もありませんでした。また、彼は、十二部族の中でも末っ子で最も弱小と言えるベニヤミン族の出身でしたし、ベニヤミン族は士師の時代の終わりに恐ろしい罪を犯し、同族から滅ぼされかけるという暗い過去を引きずっていましたので、尚の事、他の部族の見る目には厳しいものがあったと思われます。ですから、イスラエルの中には、「こいつがどうしてわれわれを救えるのか」と、つまり「こいつはわれわれの王に相応しくない」という声が、一定数、存在していたのです。しかし、先週、お話しした、アンモン人ナハシュからの脅威を見事にはね返したという勝利は、そんな声を一掃するのに十分な実績となったでしょう。今朝の箇所の一つ前の12章で、サムエルは、イスラエルの人たちに告別の説教とも言えることばを語りますが、それは、「これで、わしの役目も無事に終えることができた。やれやれ」という安堵の思いからだったのかもしれません。しかし、残念ながら、そうは問屋が卸さなかったんですね。サウルの生涯を見た時、先週の11章がまさに頂点で、後は下り坂ばっかり、失敗の連続で、彼はついに王位から退けられてしまうのです。今朝は、その、けちのつき始めと言いますか、サウルがしでかした最初の失敗についての話です。

<本論>
1、愚かなこと

それは、「ミクマスの戦い」と呼ばれるペリシテ人との戦いで起きました。サウルの息子ヨナタンがゲバにいたペリシテ人の守備隊長を打ち殺したことによって、彼らはイスラエルに報復しようと攻め寄せて来るのですが、その数は戦車三万、騎兵六千、それに海辺の砂のように数多くの兵たちであった、と記されています。また、先程は読んでいただきませんでしたが、19節以降を見ると、この頃、イスラエルとペリシテとの間には、武器の面でも相当な格差があったようです。22節には、イスラエルで剣や槍を持っていたのはサウルとヨナタンだけであった、とあります。それでイスラエルの兵たちは恐れ慄き、洞穴などに隠れる者、また、ヨルダン川を渡って逃げ出す者さえいたんですね。かろうじてサウルとともにギルガルに踏みとどまった者たちですら、みな震えながら彼に従っていた、と7節の最後に書かれています。そのような絶望的な状況の中、サウルはサムエルが現れるのを待ちます。しかし、約束の例祭の日になってもサムエルは姿を見せず、それで兵たちはサウルから離れて散って行こうとするのです。先週のアンモン人との戦いの時には、畑から牛を追って帰って来たサウルに、突然、神の霊が下って、彼はそれで力を得て、見事に敵を打ち破るんですが、なぜか今朝の場面ではそのようなことは起きません。それで、彼はとうとう待ちきれなくなって、本来、祭司であるサムエルしか行うことのできない儀式、全焼のささげ物を献げるということを自ら行ってしまうんですね。ちょうど、そのいけにえを献げ終わった時、サムエルがやって来ます。そして、サムエルはサウルに詰問します。「あなたは、何ということをしたのか。」サウルは必死に言い訳をしますが、サムエルは、「愚かなことをしたものだ」と言って、「あなたの王国は立たない」と、神のさばきを宣告するのです。

2.召しと賜物

確かに、この時、サウルは焦っていたと思います。その焦りが、彼の判断を狂わせてしまったと思うのですが、ただ、状況が状況ですし、もちろん、彼は偶像にいけにえを献げたわけではなく、主にいけにえを献げたわけですから、私なんか、何もそこまで足ざまに罵倒しなくても、とつい思ってしまうんですが、一体、サウルの行為のどこが愚かだったのでしょうか?
その一つは、彼が神の召しというものを軽く考えていた、ということではなかったかと思います。サウルは確かに王として召されてはいましたが、祭司として召されてはいませんでした。にもかかわらず、彼は祭司の業を行ってしまった。新約聖書の「Ⅰコリント」で、パウロはコリント教会の人たちに向かって、クリスチャンに与えられる御霊の賜物について述べています。12章以降ですが、御霊(聖霊)がすべての人に与えられることによって、賜物もすべての人に、それぞれに相応しく与えられるのだと。その賜物というのは、それぞれの召しとも深く関わっていると思います。すべての人に同じ賜物が与えられるのではなく、それぞれに違った賜物が与えられているように、召しもそれぞれで違っているのです。しかし、違ってはいても、それは、からだの中の各部分と同じように、どちらが優れていてどちらが劣っているとか、どちらが尊くてどちらが尊くないとか、そんなことは言えないのです。コリント教会の人たちは異言を語る者が一番偉いように思っていたみたいですが、そんなことはないのです。ですから、私たちはお互いの賜物を尊重するのと同時に、お互いの召しも尊重しなければならないのです。まさに、パウロが、

『あなたがたはキリストのからだであって、一人ひとりはその部分です』(Ⅰコリ12:27)

と言った通りです。そうすることによって、サウルが王となったイスラエルもそうだったと思いますが、キリストのからだである教会は整えられ、建て上げられてゆくのです。

3. 危機の時こそ
そして、もう一つのことは、サウルは戦いの先行きを心配するあまり、そこにもなお、神のご支配は存在するということを見失っていたことです。彼の王としての使命は外敵からイスラエルを守ることではなく、神に対してイスラエルを整えることでした。イスラエルを守る者はサウルではなく、神ご自身だったのです。厳しいようですが、もし彼が神を全く信頼していたのであれば、サムエルが来るのを最後まで待つべきだったのです。
この時代からかなり後の話ですが、「ダニエル書」で、ダニエルたちは、バビロンの王ネブカドネツァルの建てた金の像を拝まなかったということで、火の燃える炉に投げ込まれてしまいます。その時、ダニエルは次のように言いました。

「もし、そうなれば、私たちが仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。王よ、あなたの手からでも救い出します。しかし、たとえそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々には仕えず、あなたが建てた金の像を拝むこともしません」(ダニエル3:17~18)。

ダニエルには、神はきっと自分たちを救い出してくださるに違いない、という確信があったと思います。しかし、それ以上に、もし、そうならなかったとしても、それはそれで神のみこころなのだから、自分は喜んでそれを受け入れますという、神への絶対的な信頼があったのだと思うのです。それは決して強がりでも負け惜しみでもありませんでした。私たちも、何か事が起こって、自分の身の危険さえ覚えるような時、そんな時でも、なお神に信頼して生きる。そこにこそ私たちの信仰告白があるのではないかと思います。

<結論>

さて、今朝のメッセージの最後に、「ミクマスの戦い」の結果はどうなったかということを見ておきたいと思います。その鍵となるのが今朝の開会聖句です。これはヨナタンのことばですが、彼は、父サウルには知らせずに、自分の道具持ちの若者に、「多くの人によっても、少しの人によっても、主がお救いになるのを妨げるものは何もない」と言って、ペリシテ人の陣営に奇襲攻撃を仕掛けます。それは、主が救うのなら、人数が多いとか少ないとかは全く問題ではないということですね。ヨナタンは、イスラエルに勝利をもたらすものは、兵の数とかではなく、ただ主であるということを知っていたのです。私たちはどうでしょうか?ある方が面白いことを書いておられました。信仰とはプラスアルファではなく、プラス無限大だと。私たちの力が一か百か千かとかは全く問題にならないのです。主が救うのなら、私たちはそこで、主のなさる業をさやかに拝する者となるのです。

メッセージ内容のダウンロード(PDF103KB)

新聖歌

開会祈祷後:22番、メッセージ後:505番

聖書交読

詩編101篇 1~8節

2022年教会行事

6月15日(水)オリーブ・いきいき百歳体操(10時~11時)

#54-2820

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