神の答え

    令和5年5月8日(月)より新型コロナウイルス感染症が5類感染症へ移行することに伴い、礼拝での規制を緩和します。具体的には、会衆讃美は全節歌唱する、省略していた聖書交読を復帰し、司会者朗読→会衆朗読を交互に行います。
    なお、礼拝中のマスク着用は引き続き推奨、「平和の挨拶」の握手の自粛は今後も実施しますので、ご理解とご協力を宜しくお願いいたします。

    メッセージ

    <ローマ人への手紙 3章21~30節>
    牧師:砂山 智

    開会聖句

    また、祈るとき、異邦人のように、同じことばをただ繰り返してはいけません。彼らは、ことば数が多いことで聞かれると思っているのです。

    <マタイの福音書 6章7節>

    メッセージ内容

    Youtube動画


    メッセージ動画公開:6/4 PM 5:33


    メッセージ原稿を公開しました。  

    <序論>  
    ・何年か前にこの手紙からお話した時にも少しご説明しましたが、パウロがこの手紙を書いたのは、第三次伝道旅行の時、「使徒の働き」で言うと20章冒頭の頃だと推測されています(紀元58年頃・皇帝ネロの時代)。そして、その時点までは、パウロはまだローマを訪れたことはありませんでした。ですから、この手紙には、パウロの他の手紙に見られるような、宛先の教会の具体的な問題について語るというようなことは見られません。そういうこともあって、この手紙は、手紙というよりも論文のようだ、とよく言われます。ただ、この手紙が執筆された背景には、当時の教会(それはユダヤ教の会堂や信徒の家であったわけですが)で顕在化しつつあった、ある共通の問題があったようです。それはユダヤ人と異邦人との問題です。パウロらの宣教の働きによって徐々に増えてきた異邦人クリスチャンと最初期の教会で中心的な存在であったユダヤ人クリスチャンとの間に対立が目立つようになってきたのです。そのような問題があったからなのかどうかは分かりませんが、パウロは1章で次のように言います。

    『福音には神の義が啓示されていて、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです』(ローマ1:17)。

    「義人は信仰によって生きる」。これは旧約聖書の「ハバクク書」からの引用ですので、パウロは、旧約聖書をよく知っているユダヤ人クリスチャンに向かって言っているように思えます。そして、このみことばこそが、「ローマ人への手紙」全体の主題であり、私たちプロテスタント教会誕生のきっかけともなったことばでもあります。

    <本論>
    1.分水嶺

    パウロはこの手紙の1章前半で、いつもの挨拶を述べた後、自分はローマ教会訪問を切望しているということを伝え、後半の18節以降、3章前半までで、律法との関連におけるユダヤ人と異邦人について語ります。特に2章においては、自分たちに与えられた律法を誇り、割礼を誇って異邦人を見下すユダヤ人に対して鋭い批判がなされます。最後の28,29節のことばが印象的です。そして、今朝の箇所の直前の3章19~20節にかけては、律法には一つの限界があるということが語られます。律法によって人間は決して義とされることはなく、むしろ律法を守ろうとすればするほど、罪の自覚が生まれてくるということですね。実際、宗教改革を指導したあのルターも、当初、神の御前で正しくありたい、信仰者として模範的な生き方をしたいと考え、懸命に努力したのですが、そのことによって益々、自分では気づかずに犯している罪があるのではないだろうかと考えるようになり、ついにはノイローゼのような状態になってしまったそうです。そのように、律法に厳しく真剣に生きようとすればするほど、私たちは皆、いたたまれないような精神状態になって来るのです。そして、それはこの手紙を書いたパウロのかつての姿でもありました。彼は、そのような律法の世界を語った後でというか、自らがどっぷりとそのような世界に浸かってもがき苦しんだ末に、今朝のテキストの冒頭、この手紙の大切な分水嶺、或いは頂上とも言われる、21節のみことばに到達するのです。

    『しかし今や、律法とは関わりなく、律法と預言者たちの書によって証しされて、神の義が示されました』(ローマ3:21)。

    よーく読むと何か変と言うか、矛盾しているように思えます。それは、「律法とは関わりなく」と言っておきながら、その後で、「律法と預言者たちの書によって証しされて、神の義が示されました」と言っているからです。ただ、まさにそのような言い回しの中にこそ、先程、お話ししたルター以上に律法の世界に生きてきたパウロの律法理解における大きな<緊張感>が示されていると言ってもいいでしょう。

    2.新しい世界

    今、お読みした中の「律法と預言者たちの書」というのは、旧約聖書全体を指すことばですが、そもそも、ユダヤ教においては、律法とはただ単に神からの戒めというものではなく、神からの啓示すべてを意味していました。ヘブル語では律法を「トーラー」と言いますが、それは旧約聖書の最初の五つの文書(「創世記」から「申命記」)の全体を指すことからも明らかなように、その中には戒めのみならず、勧告、神学的告白、物語、礼拝内容など、ユダヤ人の日常の営みのすべての領域に渡る事柄が含まれていました。つまり、ユダヤ人にとっては、宗教的法律、市民的法律、哲学的教えなどの区別というものは存在せず、そのすべてが律法の中に含まれていたのです。ですから、必然的に、彼らにとっては、自らの生活すべてを律法に沿ったものとすることこそが最重要とされました。しかし、一方で、それは彼らにとって大きな落とし穴ともなったのです。一番分かりやすい例が福音書に登場するあのパリサイ人ですよね。パウロ自身、かつてはパリサイ人。パリサイ人の中のパリサイ人と言うか、律法に最も厳格なパリサイ人だったわけですが、彼らは、自分は律法を守っている、自分は正しいんだという自意識が強すぎて、自己義認と言われるように、神の御前で自らを正しいとする落とし穴に落ち込んでしまったのです。しかし、そんなパウロがここで言わんとすることは、21節にもありましたように、私たち人間の義ではなく、神の義が示されたということであり、私たち人間がどんなに努力しても、救われることも、義とされることもできないということなんですね。私たちが義とされるのは、それは神からの一方的な恵み、恩寵であり、どんな罪人であろうと、どんな過去を持っていようと、どんなにつまらない人間であろうと、すべて信じる者、すべてイエス・キリストにより頼んでゆく者には、イエス・キリストの十字架の贖いの力が及んでゆくということです。それこそが福音(良い知らせ)であり、そこから私たちの新しい世界が始まったわけです。

    <結論>

    そして最後に、今、新しい世界が始まった、と申し上げましたけれども、この新しい、古いということの違いについてお話ししたいと思います。それは、単に時間の経過を意味しているのではありません。そういう、新しい、古いということではなくて、全く異質のもの、質の違うものが現れたということなんです。イエス様は、あの山上の垂訓の中で、弟子たちに「ですから、あなたがたはこう祈りなさい」と言われた後、「主の祈り」というものを教えてくださいましたが、それは、それまでの祈りとは全く異質のものでした。一生懸命に祈ったら神は聞いてくださるとか、私たちの熱心や善い行いによって祈りは聞かれるということではなくて、神のひとり子であるイエス様を私たちの世界に送ってくださったことによって神はご自身の愛を示してくださった。つまり、既に神からの答えは出ているわけです。その神に対して祈っていくのが、キリスト教の、私たちの祈りなんです。私たちが神に祈って(願って)、その願いに対して何か答えをいただくということ以前に、答えは出ているのです。だから、イエス様は、今朝の開会聖句にあったように、くどくどと祈ってはならないと言われたんです。それは神を知らない異邦人の祈りだと。このことが意外とはっきりしないのは、私も含めてですが、イエス様による新しい世界とはどんな世界であるかということへのはっきりとした理解に欠けているからですね。もちろん、私たちは、今までも神に自分の願いをかなえてほしいと祈ってきましたし、これからもそのように祈るでしょう。イエス様も、そのことを否定はされませんでした。ただ、開会聖句のすぐ後のみことばにあるように、神は、私たち以上に、私たちに必要なものがなんであるのかをよくご存じなのです。そのことを心に深く留めつつ、私たちはこれからも祈り続けたいと思います。イエス様が、あのゲッセマネで祈られたように、「アバ、父よ」と。

    メッセージ内容のダウンロード(PDF100KB)

    新聖歌

    開会祈祷後:242番、メッセージ後:318番

    聖書交読

    詩編2篇 1~9節

    2023年教会行事

    6月7日(水) オリーブいきいき百歳体操 10時〜11時

    #55-2871

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