ヨブ記最終章

令和5年5月8日(月)より新型コロナウイルス感染症が5類感染症へ移行することに伴い、礼拝での規制を緩和します。具体的には、会衆讃美は全節歌唱する、省略していた聖書交読を復帰し、司会者朗読→会衆朗読を交互に行います。
なお、礼拝中のマスク着用は引き続き推奨、「平和の挨拶」の握手の自粛は今後も実施しますので、ご理解とご協力を宜しくお願いいたします。

メッセージ

ヨブ記 42章1~17節>
牧師:砂山 智

開会聖句

こうしてヨブは死んだ。年老いて満ち足りた生涯であった。

<ヨブ記 42章17節>

メッセージ内容

Youtube動画


公開が遅れて申し訳ありません。 メッセージ動画公開:1/6 PM 9:10
 


 メッセージ原稿を公開しました。  

<序論>
・11月から「ヨブ」をテキストにして話してきました。今日は大晦日で、一年の締めくくりなんですが、何か、「ヨブ」の最後からお話しするのも、不思議なお導きのように感じています。

<本論>
1.神からのことば(第一回目)

今回の説教を準備するにあたっても頭を悩ませ、悪戦苦闘しましたが、あの榎本先生も、「ヨブ」から執筆するのに約一年を要し、出版社から矢のような催促を受けながら自分のペンは一向に進まなかった、と正直に書いておられました。それを読んで、自分だけではなかった、と少しホッとしました。そして、それほど、「ヨブ」は深く、究めがたい。しかし、それがゆえに、多くの人の心を打ち、幾多の不朽の名作がここから生まれたのだ、ということを改めて思わされました。
今朝の箇所は、そんな「ヨブ」のエンディングなんですが、苦難の中にあったヨブは、三人の友人たちとの長い長い論争や、前回、お話しした若者エリフとの論争を経て、ついに神と向き合わされます。38章から、神がヨブに直接語り掛けられるのです。

『主は嵐の中からヨブに答えられた。知識もなしに言い分を述べて、摂理を暗くするこの者はだれか。さあ、あなたは勇士のように腰に帯を締めよ。わたしはあなたに尋ねる。わたしに示せ。わたしが地の基を定めたとき、あなたはどこにいたのか。分かっているなら、告げてみよ』(ヨブ38:1~4)。

嵐というのは、神がご自身を顕される時(顕現)に、しばしば伴う自然現象ですが、まず神はヨブに向かって、「さあ、あなたは勇士のように腰に帯を締めよ」と、ご自分と真正面から向き合うように命じられます。そして、ご自身の天地創造の御業を背景として、矢継ぎ早に質問を投げかけられます。それは、ヨブに自分の無知を悟らせ、被造物としての人間の立場を再認識させるためであったと思います。そして、やがてそのみことばは、人間と同じ生き物である動物界の神秘にまで及んでゆきます。動物の世界の不思議な営みも、神の配慮と知恵によってコントロールされているのだと。そして、40章1節。神からの一回目のみことばの結びです。

『主はヨブに答えられた。非難する者が全能者と争おうとするのか。神を責める者は、それに答えよ』(同40:1)。

ヨブは答えます。4節。

『ああ、私は取るに足りない者です。あなたに何と口答えできるでしょう。私はただ手を口に当てるばかりです。一度、私は語りました。もう答えません。二度、語りました。もう繰り返しません』(同40:4~5)。

ヨブは自らの高慢を打ち砕かれ、自分の知識の限界を認めていますが、どうでしょうか?「もう、どうでもいいです」と言うか、まだ本音の部分では納得がいっていないような印象も受けます。

2.神からのことば(第二回目)
そんなヨブに向かって、神は再び語り始めます。40章6節からです。その中に二つの生き物が出てきます。その一つは、15節の「河馬(※あるいはベへモテ)」で、もう一つが41章1節の「レビヤタン」です。河馬は皆さんもよくご存じかと思います。以前に万博公園の「ニフレル」で「ミニカバ(コビトカバ)」を見たことがありますが、とても愛くるしい見た目でした。しかし、普通の河馬は大きさも全く違いますし(1.5トンから2トン!)、とても獰猛で、一説には動物界最強とまで言われています。それは、①凶暴性 ②顎のかみ砕く力 ③走る速度(時速約40キロ!)にあります。特に水中ではあの凶暴な鰐でさえ河馬には全く敵わないそうです。また、レビヤタンは鰐とも訳されますが、41章後半の描写などを見ると、ここで言われているのは、神に逆らう神話的な怪獣のようです。神はヨブに向かって、河馬も、レビヤタンも、お前にはどうすることもできない存在だけれども、自分にとっては、作品(被造物)の一つであり、

『天の下にあるものはみな、わたしのものだ』(ヨブ41:11b)

と宣言されたのです。
その神からのみことばへの応答が、今朝の42章冒頭にあるヨブのことばなんですが、最後の6節にある「それで、私は自分を蔑み、悔いています。ちりと灰の中で」ということばについて、榎本先生は、「旧約聖書一日一章」で、東京神学大学の船水衛司教授の「むしろ『私は無の中に溶けてしまいます』の意である(イザヤ6:5「私は滅びるばかりだ」)。これは人間の自己嫌悪とは違う。『聖なるもの』にふれた人間における『人間性の限界』の自覚である。創造者なる神への復帰である。自己中心的世界から、神中心の世界への移行である。―以下省略―」という註釈を引用された上で、次のように書いておられました。

「信仰とは神についての知識を理解したり、納得して生きることではない。神の顕現にふれるときに起こってくるものである。ヨブが「私はあなたのことを耳で聞いていました。しかし今、私の目があなたを見ました」と告白しているとおりである。そして、神の顕現にふれるためにはあのヨブが執拗なまでに神にむしゃぶりついていったような、神への求めが大切なのではなかろうか」ii
「旧約聖書一日一章」榎本保朗著 主婦の友社刊 P515

<結論>
「ヨブ」の最後はハッピーエンドで、古来、この結末については様々な解釈や受け止め方があります。以前に、旧約は新約に比べて此岸的(この世的)だということをお話ししましが、学者の中には、「ヨブ」が旧約聖書の中で最初に書かれた書簡だと考える人もいるそうで、ある意味、「ヨブ」は最も旧約らしいと言えるのかもしれません。ただ、私は、ヨブが苦難の中から立ち上がり、この世的にも祝福されたという結末は、その結末そのものが大切なのではなくて、彼が、理不尽な苦難を通して、神とはどのようなお方であるかということを悟るに至ったという、その一点にあるのではないか、と思わされました。

『こうしてヨブは死んだ。年老いて満ち足りた生涯であった』(ヨブ42:17)。

「日々のみことば」を使っておられる方はよくご存じかと思いますが、「日々のみことば」の執筆者の解説欄には、「神さまはどのようなお方ですか」という設問があります。実は、私は、「なんで毎回毎回、同じ設問なんやろ?」と、少々疑問に思っていたんですが、結局、私たちにとって一番大切なことは、神様とはどのようなお方であるかということをより深く知ること(体験する)ことなんですね。
そして、最後に。ヨブと違って、私たちは新約の時代に生かされています。私たちには、救い主であり、真の大祭司であるイエス様がおられます。イエス様は「ヨハネ」にある弟子たちへの告別説教の中で、ピリポに

「わたしを見た人は、父を見たのです」(ヨハネ14:9)

とおっしゃいましたが、イエス様こそ、人となられた生ける神です。そのことを覚えつつ、「ヨブ」からのメッセージを閉じたいと思います。

メッセージ要約のダウンロード(PDF103KB)–>

会衆讃美

開会祈祷後:新聖歌199番、特別讃美後:新聖歌99番

聖書交読

詩編35篇 1~10節

2023年教会行事

年末年始の行事はお休みとなります。

#55-2901

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