闇の中の光

    令和5年5月8日(月)より新型コロナウイルス感染症が5類感染症へ移行することに伴い、礼拝での規制を緩和します。具体的には、会衆讃美は全節歌唱する、省略していた聖書交読を復帰し、司会者朗読→会衆朗読を交互に行います。
    なお、礼拝中のマスク着用は引き続き推奨、「平和の挨拶」の握手の自粛は今後も実施しますので、ご理解とご協力を宜しくお願いいたします。

    メッセージ

    <ヨハネの福音書 18章28~40節>
    信徒:K

    開会聖句

    光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。

    <ヨハネの福音書 1章5節>

    メッセージ内容

    Youtube動画

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    メッセージ原稿を公開しました。  

    <はじめに>  
    ・今日は18章の後半からの話です。前半はイエスさまが逮捕される場面でした。イエスさまご自身が「わたしがそれだ」と進んで言われたこと、ペテロが捕らえにきた一人の耳を切り落とし、それをその人の親戚が見ていたこと、そしてペテロがその証言を突きつけられてもイエスさまを知らないと言ったことなど話しました。今日はその続きですが、イエスさまはその時のローマ総督ピラトの官邸に連れて行かれ、尋問を受けます。ヨハネ福音書のイエスさまは、一対一で深い話をなさることが多いですが、ピラトもそうです。彼はイエスさまを尋問しながら、無実を確信し、なんとか釈放しようとします。最終的に十字架刑の判決を下しますが、話を読んでいると、ユダヤ人にうまく利用されたようにも思えます。結果、ピラトは酷い汚名を後世に残すことになりました。「使徒信条」をご存知ですか。私たちは読みませんが、カトリック、聖公会、プロテスタントの公の礼拝の場で長く読み継がれている信仰告白です。そこに彼の名があります。

    「主は聖霊によりて宿り、処女マリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架に着けられ…」

    これを読んで、私はフルネームで後世にその名を記憶されることになった彼に少しばかり同情しています。今日の主題は「イエスを十字架につけたのはだれ?」

    <本論>
    I.それは、神に背を向けるこの世です。

    取り調べの様子を見ていきましょう。イエスさまはまず、大祭司の取り調べを受けました。ペテロの失態はその庭でのことでした。28~32節―ユダヤ人は、カヤパの取り調べのあと、イエスさまを総督官邸に連れて行き、告発します。普段総督はエルサレムではなく、少し離れた海岸沿いのカイザリヤに軍と駐留しているのですが、過越の祭りの騒動に備えて総督官邸で待機しています。ピラトは、捕縛に兵士を貸すぐらいですから、イエスのさまのことは色々知っていて、扱いにくいユダヤ人の宗教の問題なので、自分たちの律法で裁くようにと、告発を断るのですが、彼らはあからさまにローマ法による死刑を求めます。殺すなら石打の刑もあるのですが、「預言の成就のため」とあります。恐らく、ユダヤ人指導者たちは、民衆にメシアかもと期待されているイエスさまを自分の手を汚さずに消し去りたかったのでしょう。33~40節―取り調べの様子です。「あなたはユダヤ人の王か」の問いに、イエスさまは「それはあなたが言ってるのか。他の人のことばなのか」と問い返し、対話が始まりました。イエスさまは、「わたしの国はこの世のものではない。」また「あなたの言うとおり王だが、真理を証するためにこの世に来た」と答えました。ピラトはユダヤ人たちとは違って、イエスさまが王であることを認めています。但し違った次元の。だから「真理とは何なのか」と言った後、ユダヤ人たちのところに行って、無罪を宣言しました。彼は真理には関心がありませんが、ローマ法によって、イエスさまを釈放する努力をします。そのために、祭りの恩赦の慣習を持ち出しますが、ユダヤ人たちは強盗のバラバを選び、失敗。19:1~7節―次の手はむち打ちの刑です。これは釈放を前提にした刑罰です。傷と痛みで弱り切ったイエスに茨の冠と紫の衣を着けさせ、惨めな姿をユダヤ人に見せつけ、もうこれで十分だろうと持ちかけますが、ユダヤ人は引っ込みません。2度目の無罪を宣言し、「勝手に十字架につけろ」と言います。ユダヤ人はしつこく十字架を求めます。この後も、ピラトはなんとか努力を続けるのですが、12節がそんなピラトへのとどめになりました。「もし釈放したなら、あなたはカエサルの友ではない。自分を王とする者は、カエサルにそむいている。」これは脅しです。もし釈放して、ユダヤ人のことばがローマに伝われば、彼の政治生命は終わりです。同時に、この発言は「ユダヤ人の王はカエサルである」と、ユダヤ人たち自ら表明したようなものです。このようなユダヤ人に対して、イエスさまはピラトにこう言われました。

    19:11「わたしをあなたに引き渡した者に、もっと大きな罪があるのです。」

    一体、十字架にイエスさまをつけたのは誰でしょう?ピラト?告発したユダヤ人?ユダヤ教の一派にすぎなかったキリスト教は、やがてユダヤ教と決別し、異邦人社会に広がり、国教にまでなりました。事態は一転し、ユダヤ人とローマに迫害されていたクリスチャンたちは、イエスを殺したのはユダヤ人だと考え迫害しました。改宗か追放です。土地を持つことを禁じ、特定の職業につかせ、居場所をなくそうとしました。迫害はヒトラーの時代だけではないのです。

    黒人霊歌「君もそこにいたのか、主が十字架につくとき」 イエスさまを十字架につけたのは、2千年前のあの場面にいなかった私たちをも含む、歴史が始まって以来続く一人一人からなる世です。神に背をむけるこの世。ヨハネは

    3:17で「神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。」

    と言っています。私たちは、イエスさまを信じる者は裁かれることなく神の前に立てることを知っていますが、救いは将来だけの話でしょうか。イエスさまが来られて実現したという「救われた世」とはどんな世なのでしょう?

    II.救われた世とは、赦しのある世界です。

    今日の開会聖句はヨハネ福音書1:5「光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。」です。クリスマスは暗き世に光が来られた日ですが、ユダヤ教にも光が来たことを祝う祭りがあります。「ハヌカの祭り」と言われ、闇に対する光の勝利を象徴したものです。12月8日に世界中のユダヤ人コミュニティーで行なわれました。彼らにとって闇に対する光の勝利とは、他民族に占領されていた神殿を武力で奪回したことでした。彼らにとって光の世界とは、神殿とともにある世界です。一方、私たちクリスチャンにとって、闇に光が来た世界、光の世界とは、目に見えるものではなく、「赦しのある世界」で、赦されて生きることだと思います。
    朝ドラ「ブギウギ」の影響で、笠置シズ子や淡谷のり子の歌をよく聞きますが、同時代の歌手に「渡辺はま子」という歌手がいます。「ああ、モンテンルパの夜は更けて」という代表曲があります。作詞作曲はフィリピンのモンテンルパの刑務所に、BC級戦犯として監禁されている2人の死刑囚でした。フィリピン軍の戦犯裁判は、戦後7年が経って行なわれ、137人が有罪になり、半数以上が死刑判決。執行されたのは17人。この歌は彼らの日本への望郷の念を歌ったものでした。渡辺さんは刑務所から送られてきたこの歌を早速レコード化し、国交のないフィリピンへの慰問を実現させ、翌年恩赦によって全員が日本に帰国しました。
    フィリピンは戦争の被害を多く受けた国で、日本では戦争で亡くなった方は軍人、民間人あわせて310万。人口密度から計算すると、7人に一人。フィリピンは111万で、4人に一人と、日本より戦争の被害者が多いです。戦争末期、日本とアメリカの決戦地となったために、マニラでは多くの民間人が犠牲になりました。日本の戦犯に恩赦を出したエルピディオ・キリノ大統領も、妻、娘二人、息子一人を日本兵に殺されました。2歳の娘は撃たれた妻の手から投げ出されたのを、銃剣で突き刺されたそうです。なぜ、戦犯の命を救わなければならないのか、当初大統領は日本に厳しい態度をとっていたそうです。大統領が恩赦を出したいきさつは、政府や渡辺さんたちの働きかけだけではありません。その4年前から、同郷の死刑囚のために積極的に恩赦を働きかけた人物もいました。加納さんという無名の画家ですが、彼は妻子を殺された大統領に、ただ死刑囚の命を救うためではなく、「日本人が過去を悔い、反省する」ために釈放を求める手紙を出し続けました。

    広島市立大学の永井均教授は、大統領の恩赦は,戦後の賠償責任の交渉をうまく進めるなどの政治的な思惑もあったと同時に、赦しに重きを置くキリスト教信仰に基づく信念にじんでいると言います。フィリピンはアジアでは珍しいキリスト教国です。大統領の恩赦は「ただ今後の友好を深めるためだけでなく、フィリピンに強いた犠牲に対する責任の自覚を日本に期待するものでもあった」というのです。フィリピンは日本軍の加害への恨みを超えて、日本と友好関係を回復した国です。多額の賠償金を支払ったこともありますが、大統領の恩赦が「赦すと赦される」という好循環を双方の間にもたらしたのではと、教授は指摘しています。大統領の「赦すのは戦争責任の自覚のため」、加納さんの「日本人が過去を悔い、反省するため」という二人のことばは、赦しというものが、終着地点ではなく、平和な未来へのスタートであるということを気づかせてくれているのではないでしょうか。

    <おわりに>

    私は赦しがあるから、自分の罪を直視できるだと思います。赦しがあるから、自分の姿をありのままに見ることが出来ます。人のこともそうでしょう。でなければ、必死で互いに隠すしかありません。その赦しはヒューマニズムから生まれたものではなく、光がこの闇の世界に来たからです。イエスキリストが神と人との間にもたらしてくださった赦しがスタートです。人と人との赦しもここから広がります。今も闇が世を覆っています。しかし、光が勝つことを覚え祈っていきたい。

    メッセージ内容のダウンロード(PDF278KB)

    新聖歌

    開会祈祷後:79番、メッセージ後:102番

    聖書交読

    詩編34篇 1~10節

    2023年教会行事

    12月27日(水) オリーブいきいき百歳体操 10時〜11時

    #55-2900

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