なお、礼拝中のマスク着用は引き続き推奨、「平和の挨拶」の握手の自粛は今後も実施しますので、ご理解とご協力を宜しくお願いいたします。
メッセージ
<詩編 119篇1~8節>
牧師:砂山 智
開会聖句
あなたのみことばは 私の足のともしび 私の道の光です。
<詩編 119篇105節>
メッセージ内容
Youtube動画
メッセージ動画公開:5/5 PM 12:54
メッセージ原稿を公開しました。
・詩篇119篇は176節まであり、詩篇だけでなく、聖書の中でも一番長いのですが、それだけでなく「超絶技巧」と呼べるほどの形で作られています。それは8節ごとに節の最初の文字がヘブル語のアルファベット(アレフ、ベス、ギメル、ダレス~タブの22文字)の順番に並び、韻を踏む形になっているからです(アクロスティック=日本のいろは唄?)。この119篇は176節までありますので、ヘブル語のアルファベット順にちょうど22の組に分けることができます。と言いますか、8×22節で、ちょうど176節になったと言った方がいいでしょう。ユダヤ人は、この詩篇を暗記し、朗唱しました。それは、9節にあるように、『若い人』への教育的な意味合いも大きかったと思われます。
<本論>
1.幸いなこと
さて、今朝の詩篇では、様々なことばで「みことば」が表現されています。例えば
『みおしえ』(詩119:1)
『さとし』(同119:2)
『戒め』(同119:4)
『おきて』(同119:5)
『仰せ』(同119:6)
などなど。それらをすべてまとめると「みことば」ということになると思います。そして、1節、2節の冒頭には、『幸いなことよ』と書かれていますが、このことばも詩篇には何度も出てきます(1篇1節、2篇12節等々)。それでは、聖書は、何が幸いだと言っているのでしょうか?柏木哲夫先生は、その著書の中で、よく二つのことばを対比させながら分かりやすく説明しておられます。「平安」と「安心」の違いであるとか、「安心」は横から来るもので、「平安」は上から来るものだと。「幸い」と「幸福(しあわせ)」の違いも、それと似ているように思えます。例えば、詩篇第1篇は『幸いなことよ』ということばで始まりますが、一見すると、正しい者には神から恵みが与えられ、悪しき者には罰が与えられる、というように読めるかもしれません。しかし、現実の世界ではどうでしょうか?なんか、そうなっていないことのほうが多いような…。福音書などを読んでいると気づかされることですが、イエス様の時代にも、そんな常識があったみたいですね。それは、因果応報的な考え方と言えますが、この世で恵まれた暮らしをしている人は、その人の、或いはその人のご先祖様の信仰が素晴らしかったからで、病人や物乞いをしているような人は、罪の結果としてそのような報いを受けているのだという。昔、「あなたが恵まれないのは、あなたの祈りが、信仰が足らないからです。もっと献げなさい。そうすれば、神は天の窓を大きく開けてあなたに恵みを惜しみなく注いでくださるのです」というような説教を聞いたことがありますが、本当にそうなんでしょうか?もし、そうであるなら、何か人間が神様をコントロールできるかのようですよね。「創世記」のカインとアベルの物語で、神はアベルのささげ物に目を留められたが、カインのささげ物には目を留められなかった。しかし、その理由は聖書には書かれていません。私たちはああだこうだと推測するんですけれども、結局、私たちには分からないんです。私たちにできることは、人生で起こって来る様々な出来事(みこころ)に対してどのような態度をとるかということ。それだけなんですね。カインはアベルを殺してしまいましたが。
聖書が言っている「幸いなこと」というのは、その人がどんな環境や状況に置かれたとしても、
『主のみおしえに歩む人々』(同119:1)
『主のさとしを守り、心を尽くして主を求める人々』(同119:2)
は幸いだ、ということなんですね。
2. 愛と戒め
そして、9節。
『どのようにして若い人は 自分の道を 清く保つことができるでしょうか。あなたのみことばのとおりに 道を守ることです』(詩119:9)。
この詩篇の作者が何歳で、若い頃どのように過ごしたのかは分かりませんが、このことばは昔の自分を振り返って言っているような気がします。私も高校生の頃に教会に行くようになって、もう50年になりますが、自分の若い頃はどうだったかなぁ、と思い返してみると、とても、みことばのとおりに道を守り、清く保ってきました、とは言えないですね。口が裂けても。ただ、次のようにはありたいと願います。それは14節。
『私は あなたのさとしの道を どんな宝よりも楽しんでいます』(同119:14)。
そして、16節。
『私は あなたのおきてを喜びとし あなたのみことばを忘れません』(同119:16)。
私も、この詩篇の作者のように、みことばをどんな宝よりも楽しみ、喜びとしていますと言いたいなぁ、と思います。それは私たちにとっては、とても難しいことなんですが。あのパウロも、「ロマ」の中で、
『私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか』(ロマ7:24)
と、正直に告白しています。確かに、この世界で、この世の価値観にどっぷりつかって生きている私たちにとって、みことばに従うということは喜びであると同時に戦いでもあり、時にはパウロのように自分は本当にみじめな人間だなぁと、自分自身が嫌になることもあるでしょう。ただ、イエス様は、あの最後の晩餐の席で弟子たちに向かって次のように語りかけ、励ましてくださいました。
『シモン、シモン。見なさい。サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って、聞き届けられました。しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい』(ルカ22:31~32)。
そして、
『わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛している人です。わたしを愛している人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身をその人に現します』(ヨハ14:21)。
このみことばも、何か、イエス様はご自分を愛している人だけを愛してくださる、というふうにも読めてしまうのですが、同じヨハネは「Ⅰヨハネ」で次のように書き残してくれています。
『私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです』(Ⅰヨハ4:10)。
そうですね。まずイエス様が、この私を、そして、あの人を愛してくださった。それがすべての始まりなんです。そして、私たちもイエス様と同じようにとは言えなくても、そんなイエス様を愛している。これが、私たちがイエス様の戒めを守る根拠(動機)なんです。これ以外に私たちが戒めを守る根拠(動機)はないと言うか、あってはならないと思うんです。けれども、それがいつの間にやら別の動機にすり替えられてしまうことがあります。お互い気をつけたいですね。
<結論>
私たちMB教会の信仰告白の第二部「日本メノナイトブレザレン教会はいかに神の目的に応答するか」の最初に「日本MB教会は聖書の民である」と書かれています。その2番目には、
2,聖書解釈の基盤 聖書解釈の基盤は、新約聖書に示されたキリストである。それは、イエスの生涯・死・復活を通して明らかにされた神の価値観に基づいて聖書を解釈することである。
とあります。
昨日の「日々のみことば」に、武田師が、
34節の『私に悟らせてください。私があなたのみおしえから目を離さず心を尽くしてそれを守るために』
というみことばから次のように書いておられました。
「「あなたのみおしえから目を離さず」と語られていますが、新約を知る私たちは「イエスから目を離さないで」(へブ12:2)ということばを知っています。イエスさまという尊いご人格から目を離さずに、私たちは生きていくのです。それも「心を尽くして」です。」
『あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です』(詩119:105)
会衆讃美
開会祈祷後:新聖歌37番、メッセージ後:新聖歌505番
聖書交読
詩編121篇 1~8節
2025年教会行事
5月7日(水) オリーブ・いきいき百歳体操 (10時~11時)
#57-2971