行くにも帰るにも

メッセージ

<詩篇 120~121篇>
牧師:砂山 智 師

開会聖句

主はあなたを行くにも帰るにも 今よりとこしえまでも守られる。

<詩篇 121篇8節>

メッセージ内容

<序論>  
・新年、明けましておめでとうございます。詩篇120篇から134篇までは、「都上り(巡礼)の歌」が集められています。特に、今日のテキストの二つの詩は、当時のユダヤ国内に住んでいた民、そして外国の地に散らされていた民(ディアスポラ=離散のユダヤ人)がエルサレムに戻ってきて、神殿に上る時に歌った賛美と言われています。離散のユダヤ人は、外国の地に住んでも、そこにコミュニティーを形成し、その中心には会堂(シナゴグ)を建て、安息日を守りました。そして、年に三度、「過越しの祭り」「七週の祭り・五旬節」「仮庵の祭り」には、エルサレムに帰ってきて、再会を喜び合い、自分たちの信仰を確かめ合ったのでした。そう考えると、今日の元旦礼拝も、少し似ているのかもしれません。

<本論>
1、都上り(巡礼)の歌

詩篇120篇には、離散のユダヤ人が、自分の身を嘆いて歌ったことばが出てきます。

『ああ 嘆かわしいこの身よ。メシェクに寄留し ケダルの天幕に身を寄せるとは。』(詩編120:5)。

メシェクもケダルも、創世記にそのルーツが記されていますが、長い歴史を経て、今やユダヤ人と争うようになった人たちのことです。この詩篇の作者は、そのような異邦人に囲まれた外国の地に住み、恐れと不安の中に暮らしていたのです。

『この身は 平和を憎む者とともにあって久しい。私が 平和を──と語りかければ 彼らは戦いを求めるのだ。』(同120:6~7)。

彼は、まさにそのような、「四面楚歌」とも言えるような状況の中で、神に向かって助けを求めます。ただ、それと同時に、本当に不思議なんですが、この詩人は、この詩篇の冒頭で、次のように歌っています。

『苦しみのうちに私が主を呼び求めると 主は私に答えてくださった。』(同120:1)。

主は私の叫びに答えてくださったと、歌っているんですね。その答えが、どのようなものであったのかは、具体的には分かりません。ただ彼は、実際の生活の中で、そのような体験をしてきたからこそ、まず、そのように歌えたのではないでしょうか。それは、単なる知識としての信仰ではなく、実体験としての信仰と言ってもいいと思います。苦しみに遭いたい人は誰もいません。しかし、苦しみを通してしか、経験しえないものがあるのではないでしょうか。そして、そのように、「苦しみの中で、確かに神様は答えてくださった」という経験こそ、私たちの信仰の証しであると思います。それが、何か、自慢話や、自分の成功体験をひけらかすような証しになってはならないと思いますが、今年も、一人一人の証しを通して、主の御名が崇められれば、と願います。

2、私の助けは主から来る

そして、続く121篇にも、「都上りの歌」という表題がついています。これは、都上り(巡礼)の人たちが、いよいよエルサレムに近づいた時、シオンの山に目を向けて歌った詩であろうと言われています。イスラエルでは、山というのは神様と出会う場所とされていますが、それと同時に、人生の試練や困難を象徴する場所でもあります。

『私は山に向かって目を上げる。私の助けは どこから来るのか。』(詩篇121:1)。

確かに、私たちは、苦しみの真っ只中にいる時には、その問題(山)ばかりに目を奪われてしまいます。しかし、この詩人は、その後で我に返って、次のように告白するのです。

『私の助けは主から来る。天地を造られたお方から。』(同121:2)。

そして、よく読んでみると、この短い詩篇の中に、何度も繰り返し出てくることばがあることに気づきます。それは、『守る』ということばです。六回も出てきます。何度かお話ししましたが、私は、牧師になる前、保険の仕事をしていました。保険の役割は、契約者の方々をリスク(危険)から守ることにあります。しかし、それはもちろん、7節のように、私たちのたましいまで守ってくれるものではありません。地位も、名誉も、財産も、健康も、そうです。確かに、それらものは、一時的な安心をもたらしてくれるかもしれませんが、永続するものではありません。頼りになる時もあれば、頼りにならない時もあるでしょう。けれども、イエス様は言われました。

『わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。あなたがたは、心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません。』(ヨハネ14:27)。

<結論>

『主はあなたを 行くにも帰るにも 今よりとこしえまでも守られる。』(詩篇121:8)。

本日の開会聖句ですが、この『行くにも帰るにも』ということばを、口語訳聖書は『出ると入るとを』と、また、新共同訳聖書は『出で立つのも帰るのも』と訳しています。ある方は、このことばに着目し、大変面白い表現であるとして、次のように書いておられました。「これは古い生活から出て新しい生活に入ることなのである。そして、ここで大事なのは、まず出るということである」。確かに、アブラハムは、「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい」という神のことばに従って国を出て、そこから神の恵みにあずかる信仰生活が始まりました。イスラエルの民も、まず出エジプトがあって、約束の地カナンに入ることができたのです。
私たちも、出ていかなければなりません。それも、荒野へ。そこには多くの苦難や障害が待ち受けているでしょう。飢えや渇き、そして獣もいるかもしれません。けれども、私たちがみことばに従って本気になって出ていく時、そこで神の御守りを経験し、本当の神の御手の業にふれることができるのです。

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新聖歌

開会祈祷後:9番、メッセージ後:301番

聖書交読

詩編 103篇1~14節

#51-2640

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