ハレルヤ賛歌

メッセージ

<詩編111篇1~10節>
牧師:砂山 智 師

開会聖句

直ぐな人たちのために 光は闇の中に輝き昇る。
主は情け深く あわれみ深く 正しくあらわる。

<詩編112篇4節>

メッセージ内容


<序論>  
「詩篇」111~118篇は「ハレルヤ詩篇集」と呼ばれています。特に111篇と112篇とは、元々、一つであったと考えられています。また、冒頭の『ハレルヤ』を除けば、二十二行から成り立っており、ヘブル語アルファベット文字の数と同じで、その頭文字を使った「いろは歌」の形式になっています。それは、現代のように書物やパソコンが普通に無い時代においては、後に続く世代に大切なことを伝えてゆくための、有効な手法であったと思います。

<本論>
1、 みわざ
冒頭の

『ハレルヤ』(詩111:1a)

は、「いろは歌」とは関係のないことばで、後代に書き加えられたと考えられています。このことばは、今も、クリスチャンの間では、挨拶代わりによく使われますが、聖書では「詩篇」にのみ出てくることばです。
そして、

『私は心を尽くして主に感謝をささげよう。直ぐな人の交わり 主の会衆において』(同111:1b)

と、この詩篇の作者は歌います。神さまは、私たちの外面的な姿ではなく、心をご覧になる方ですから、私たちも心を尽くして主に感謝をささげなければなりません。そして、「直ぐな人の交わり 主の会衆において」。「直ぐな人」とは、先週の説教でもお話ししましたように、自らの道徳的な正しさを追求する人のことではなく、神さまとその恩寵とを情熱的に追求する人のことだと、私は思います。
そして、この詩篇には、繰り返し出てくる一つのことばがあります。それは、『みわざ』ということばです。2節、3節、4節、6節、さらに、7節には、『御手のわざ』とあります。合計5回も出てきます。
このことばは、直接的には、出エジプトの出来事を指していると思われます。イスラエルの人たちにとって、出エジプトの物語こそ、まさに「神のみわざ」そのものであり、イスラエルの歴史が続く限り、語り継いでゆかなければならないことでした。
出エジプトの出来事は、私たちに、罪を決して見過ごしにされない厳しい神さまの姿を思い起こさせます。ただ、それと同時に、主は情け深く、あわれみ深い方であるということも(同111:4)、改めて思い起こさせてくれます。「出エジプト記」の34章には、神がモーセにご自分のことを次のように宣言しておられる箇所があります。

『主は彼の前を通り過ぎるとき、こう宣言された。「主、主は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのに遅く、恵とまことに富み、恵みを千代まで保ち、咎と背きを赦す。しかし、罰すべき者を必ず罰して、父の咎を子に、さらに子の子に、三代、四代に報いる者である』(出エ34:6~7)。

2、 主を恐れる
そして、今日のテキストの5節です。

『主を恐れる者に食べ物を与え ご自分の契約をとこしえに覚えておられる』(詩111:5)

新約聖書の「Ⅰヨハネ」4章18節には、「全き愛は恐れを締め出します」「恐れる者は、愛において全きものとなっていないのです」とありますが、その「恐れる」と、この詩篇の「恐れる」とは、もちろん意味が違います。それは、単に戦々恐々として怯えるということではなく、かしこみ恐れること、つまり、神を畏れ敬うという意味です。これは、旧約の「知恵文学(ヨブ・詩・箴言・伝道者)」と呼ばれている書簡に共通することばです。そして、今日の詩篇の最後にも、そのことがはっきりと歌われています。

『知恵の初め それは主を恐れること。これを行う人はみな賢明さを得る。主の誉れは永遠に立つ』(同111:10)。

<結論>
今日の開会聖句は、111篇の姉妹編とも言える112篇のみことばです。

『直ぐな人たちのために 光は闇の中に輝き昇る。主は情け深く あわれみ深く 正しくあられる。』(詩112:4)。

どのような人の人生にも、闇と思える時があるのではないかと思います。聖書は、「直ぐな人たちには、闇はない、存在しない。」とは言っていません。『直ぐな人たちのために、光は闇の中に輝き昇る。』と言っています。この『直ぐな人』のことを、新共同訳聖書は、『まっすぐな人』と訳していました。『まっすぐな人には闇の中にも光が昇る』と。私は、このことばから、旧約の「創世記」に出てくるヤコブという人のことを思い浮かべていました。ある方は、ちょっとおかしいんちゃう、と思われるかもしれません。確かに、ヤコブという人は、とても「まっすぐな人」とは呼べないような、狡猾で抜け目のない人物であったからです。彼は、兄エサウを唆して長子の権利を譲り受け、父イサクをも欺いて、兄が受けるべき祝福を横取りします。人間的に考えれば、とても友人にはなりたくないと思うような人物です。しかし、神さまは、そんな彼をイスラエル民族の父祖の一人とされたのです。本当に不思議としか言いようがないのですが、ただ、そんなヤコブが、一つだけ、まっすぐに求め続けたものがありました。そのことを象徴する場面が創世記32章に記されています。ヤコブは、かつて自分が騙した兄エサウと再会することを恐れていました。

『その夜、彼は起き上がり、二人の妻と二人の女奴隷、そして十一人の子どもたちを連れ出し、ヤボクの渡し場を渡った。彼らを連れ出して川を渡らせ、また自分の所有するものも渡らせた。ヤコブが一人だけ後に残ると、ある人が夜明けまで彼と格闘した。その人はヤコブに勝てないのを見てとって、彼のももの関節を打った。ヤコブのももの関節は、その人と格闘しているうちに外れた。すると、その人は言った。「わたしを去らせよ。夜が明けるから。」ヤコブは言った。「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」その人は言った。「あなたの名は何というのか。」彼は言った。「ヤコブです。」その人は言った。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたが神と、また人と戦って、勝ったからだ。」ヤコブは願って言った。「どうか、あなたの名を教えてください。」すると、その人は「いったい、なぜ、わたしの名を尋ねるのか」と言って。その場で彼を祝福した。』(創32:22~29)。

ヤコブがまっすぐに求め続けたもの、それは、神さまからの祝福でした。彼の人生は、道徳的に見れば正しくないことだらけでしたし、この時も、自分が過去に犯した過ちのせいで兄に報復されるかもしれないという恐れの中にいたのですが、そんな中にあっても、否、そんな中にいたからこそ、神の恵みを求めるというその一点だけは、御使いも根負けするほどに、まっすぐであったんです。もちろん、神さまは、彼を祝福する前に、ももの関節を外された。つまり、彼の頑なな自我を打ち砕かれたのですが・・・。

『直ぐな人たち(まっすぐな人)のために 光は闇の中に輝き昇る。主は情け深く あわれみ深く 正しくあられる』(詩112:4)。

私たちも、まっすぐに、主の恵みを追い求める者でありたい。そして、「ハレルヤ!」と、心から賛美をささげる者でありたいものです。

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新聖歌

開会祈祷後:18番、メッセージ後:311番

聖書交読

詩篇 136篇1~9節

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#50-2614

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