あなたこそ 私の主

令和5年5月8日(月)より新型コロナウイルス感染症が5類感染症へ移行することに伴い、礼拝での規制を緩和します。具体的には、会衆讃美は全節歌唱する、省略していた聖書交読を復帰し、司会者朗読→会衆朗読を交互に行います。
なお、礼拝中のマスク着用は引き続き推奨、「平和の挨拶」の握手の自粛は今後も実施しますので、ご理解とご協力を宜しくお願いいたします。

メッセージ

<詩編 16篇1~11節>
牧師:砂山 智

開会聖句

あなたは私に いのちの道を知らせてくださいます。満ち足りた喜びが あなたの御前にあり 楽しみが あなたの右にとこしえにあります。

<詩編 16篇11節>

メッセージ内容

Youtube動画

動画公開をいましばらくお待ちください。

 
 

 メッセージ原稿を公開しました。  

<序論>  
・「詩篇」には表題にミクタムとつけられたものが6つあり、その最初の詩篇が今朝の第16篇です。ただ、その意味は不明で、「黄金の歌」や、「贖罪の歌」など、諸説あるそうです。特に、今朝の詩篇は、神に対する信頼を公に告白する信仰告白であり、祈りでもあります。

<本論>
1.あなたこそ 私の主
今朝の詩人は、まず、『私をお守りください』という、神のご加護を願うことばから始めます。そして、2節で、

「あなたこそ 私の主。私の幸いは あなたのほかにはありません」

と、主をほめたたえます。この讃美こそ、彼の信仰告白と言えるでしょう。「あなたこそ 私の主」ということばから、イエス様と弟子たちとのある場面を思い出しました。イエス様はペテロを始めとする弟子たちにお尋ねになりました。

「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」(マタ16:15)。

その前に、イエス様は「人々は人の子をだれだと言っていますか」と尋ねられて、弟子たちが「バプテスマのヨハネだと言う人たちも、エリヤだと言う人たちもいます…」と答えたので、さらに尋ねられたんですね。この質問の核心は、もちろん、「わたしをだれだと言いますか」ということなんですが、それは「人々は」ではなく、「あの人は」でもなく、「あなたがたは(あなたは)」なんです。それに対してペテロが「あなたは生ける神の子キリストです」と答えますが、それは、「あなたこそ 私の主(です)」ということですよね。そのように、主語というのは本当に大切なんですが、私は、神学校の「卒論」で、「ローマ」13章のみことばを自分なりに調べてみて、そのことを改めて学びました。13章1節に次のようなことばがあります。

『人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられているからです』(ローマ13:1)。

このみことばは、古くから、所謂「王権神授説」の根拠の一つとされてきました。国王の権力は神から直接授けられたものであり、神聖で、絶対的不可侵であるとする政治思想のことです。日本でも、明治から先の大戦までは、「大日本帝国憲法」があり、その第3条に「天皇は神聖にして侵すべからず」と書かれていました。けれども、今は、日本も、他の王制を敷いている国々も、そういう思想と言うか、立場を取っている国は無いでしょう。そもそもパウロがここで言いたかったことは、「人はみな」ということであって、彼は、原則論と言うか、一般論を言ったのだと思うのです。(三人称命令形)。そしてもう一つ、みことばを解釈する上で大切なことは文脈です。一つ前の12章を見ると、パウロは次のように言っています。

『ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。(中略)悪に負けてはいけません。むしろ、善をもって悪に打ち勝ちなさい』(ローマ12:1~2、21)。

つまり、ここでパウロが言いたかったことは、クリスチャンも、この世においては上に立つ権威に従い、善き市民として社会のルールを守るべきである。しかし、もしそれが神のみこころに明らかに反するようなものであるならば、絶対に調子を合わせてはならない。むしろ、善をもって悪に打ち勝つように努めなさい、ということでしょう。それがいかに困難なことであるかということは歴史が証明していますが。

2.輝かせよ 主のともしび

さて、今朝の詩篇に戻りましょう。少し後の6節から、「あなたこそ 私の主。私の幸いは あなたのほかにはありません」と告白する者の喜びが歌われています。

『割り当ての地は定まりました。私の好む所に。実にすばらしい 私へのゆずりの地です』(詩16:6)。

『割り当ての地』に※印があって、下に※直訳「綱が落ちました」とありますが、前の訳では、

『測り綱は、私の好む所に落ちた。まことに、私への、すばらしいゆずりの地だ』

となっていました。測り綱とは土地を測量する道具のことで、この詩人は、神はすばらしい土地をきちんと測った上で私に割り当ててくださった、と心から喜び、感謝しているのです。そして7節。

『私はほめたたえます。助言を下さる主を。実に 夜ごとに内なる思いが私を教えます』(同16:7)。

夜というのは、多くの人にとって、一人静かに物思いにふける時でしょう。一日の仕事や用事を済ませ、食事をし、風呂に入り、ほっとして、寝床の中で今日一日の出来事に思いを巡らせる方もおられるでしょう。ユダヤでは日没から一日が始まるそうです。私たちにはとても不思議なんですが、確かに「創世記」の最初の天地創造物語には次のように書かれています。

『神は光を昼と名づけ、闇を夜と名づけられた。夕があり、朝があった。第一日』(創1:5)。

神様は、光だけでなく闇も、夕も造られました。それには大切な意味があるように思えます。私たちは人生の色々な場面で色々な経験をするものですが、「よきおとずれ」今月号に書かせていただいたボンヘッファーの詩、「輝かせよ 主のともしび われらの闇の中に 望みを主の手にゆだね 来るべき朝を待とう」という讃美こそ、私たち信仰者の歩みを表しているように思えます。

3. 主は私の前に 右におられる方

そして、8節。

『私はいつも 主を前にしています。主が私の右におられるので 私は揺るがされることがありません』(詩16:8)。

主は私の前に、右におられる方です。ずいぶん前になりますが、教団協議会で石橋教会の船橋先生が教団議長に就任される時に話されたことをとてもよく覚えています。それは、議長であろうが、一信徒であろうが、たとえ大教会の大牧師であろうが、大伝送者であろうが、私たちはすべて「しもべ」なんだと。主人は、もちろんイエス様です。そのイエス様を、いつも前にし、右にして歩むのが、信仰者の歩みだと。しかし、いつの間にやら、自分が前になり、右にいて、イエス様に「ああしてください。こうしてください」と指図しているような。あの「ルカ」10章のマルタではないですか、「イエス様、なんで妹のマリアにびしっと言ってくださらないんですか。何とも思われないんですか」と文句を言っている。皆さんはいかがでしょうか?

<結論>

最後に、10、11節を、もう一度お読みします。

『あなたは 私のたましいをよみに捨て置かず あなたにある敬虔な者に 滅びをお見せにならないからです。あなたは私に いのちの道を知らせてくださいます。満ち足りた喜びが あなたの御前にあり 楽しみが あなたの右にとこしえにあります』(詩16:10~11)。

このみことばの前半部分は新約の「使徒」13章で引用されています。それは、パウロの第一回伝道旅行での最初のメッセージにおいてです。彼の信仰の原点は復活のキリストに出会ったこと。その一点にありました。ですから彼は、この場面でも、愚直なまでに復活の希望を語ります。

『しかし、神はイエスを死者の中からよみがえらせました』(使13:30)。

イエス様は私たちの初穂としてよみがえられました。それが私たちの最後の希望です。
今日は、この後、O兄弟のご両親の納骨式が行われます。クリスチャンも、そうでない人たちも、死ねば骨になり、なにも変わりないように見えるかもしれませんが、私たちはキリストにある復活の希望を持っています。今日も、そして明日も、「あなたこそ 私の主」と告白しつつ、歩んでゆきましょう。ともに御国で相まみえる日まで。

→メッセージ内容のダウンロード(PDF97KB)

新聖歌

開会祈祷後:新聖歌337番、メッセージ後:新聖歌428番

聖書交読

詩編46篇 1~11節

2026年教会行事

11月4日(水)オリーブ・いきいき百歳体操 10時~11時

#58-3049

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