信頼されたい社会人の本音

メッセージ

<エペソ 6章5~9節>
牧師:徳本 篤

開会聖句

何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。

<コロサイ 3章23節>

メッセージ内容

当時の時代と社会的背景

この時代のローマ帝国には数百万単位の奴隷たちがいたと言われます。ローマ帝国の全域に福音宣教のわざが拡張されていくこと自体はとても幸いなことですが、当時の習慣として、ある家の主人が回心するとその家の者全員が同じように回心しなければなりませんでした。自由のない奴隷たちがそのような扱いを受けたことは当然のことでした。もちろん、奴隷たちの間で急速に福音が広まっていったことも事実です。
多くの奴隷たちがクリスチャンになり、その妻や子どもたちも加えられるなら、当時の社会として彼らの役割と影響力は無視できないものになっていました。したがって、キリスト教会が彼らに対してどのようなことを教えているかについて、社会の関心と反響は非常に大きかったことが推測されます。

聖書を理解するための重要な問題

パウロは当時の奴隷制度に反対するとも容認するとも一切自分の考えを公言していない。ただ、人がキリストに従うなら、キリストは人を差別されることがないところまでにとどめています。(6章9節)

例話1 五木の子守唄のルーツと歌詞の意味
日本の民謡の中には、被差別者の境遇や生活を唄ったものがあります。皆さん良くご存知の熊本県の有名な民謡で「五木の子守歌」というのがありますが、この民謡は「子守唄」とはなっていますが、赤ちゃんをあやす唄ではなく、子守娘の気持ちを唄った「守り子唄」と言われています。
五木とは、熊本県人吉市から西北へ25キロ入った山間の村、五木村のことです。昔、源平の戦いに敗れた平家の一族が五木村の隣村に隠れ住んでいることを知った源氏は五木村に武者を住ませて平家の残党を監視させることにしました。
その後、これらの源氏の子孫から三十三人衆と呼ばれ、「よか衆」と唄われている地主階級が生まれました。この人たち以外の者は「勧進(かんじん)」と唄われている「小作人」たちです。小作人は田畑は勿論のこと、家・屋敷から農機具に至るまで「よか衆」から借り受け、奴隷のように最低の生活に甘んじ、被差別者としての苦しみを続けていたわけです。小作人の娘たちは10歳位になると、よか衆の家や他の村の富裕層の家にわずかの賃金で子守奉公に出されていました。その悲しい子守娘の諦めの気持ちと、よか衆に対する小さな抵抗を唄ったのがこの子守唄の内容です。

例話2  母の少女時代の生活環境と事情
私の母も大正10年に貧しい漁師家庭の3女として生まれ、10歳の時に尋常小学校の卒業を待たずして博多の渡辺通りにある旅館(名称不詳)に子守奉公に出されました。まるで「五木の子守歌」を地で行くような少女時代だったそうです。18歳になった昭和15年に、親同士が決めた縁談で父と結婚しました。父の顔を初めて見たのは結婚式当日のこと、真面目そうだったので安心したと話してくれました。
現在では考えられない話ですが、つい最近までこのようなことが私たちの身近なところで行われていたことを忘れてはなりません。「そんなことは児童虐待だから子どもを親から引き離して自由にすべきだ」と主張しても、現在のように教育の環境や経済的事情や職業選択の自由などが整っていない時代に、それを実行しようとするならば、貧しい家庭の子どもたちは行き場を失い、一家は飢え死にするかもしれません。
その厳しい時代に母が生まれて生きてきたからこそ、現在の私が存在するのです。私たちは自分に与えられた自由と平和と豊かさをどれほど神に感謝しているでしょうか。その恵みを存分に活かしているでしょうか。

パウロが奴隷制度について明確な言及を避けたことで彼を責めるなら、私の母と同じように死活問題が生じたことでしょう。だからと言って、あたかもパウロが奴隷制度を容認していることを盾にとって、キリスト教徒であることを自認する国家や社会や教会が奴隷制度は神が許された制度だとしてそれを社会的弱者に押しつけているなら、それはキリスト者として恥ずべきことであり、悔い改めるべき高慢な態度です。天の御国で神からどのようなさばきを受けるか、しっかり覚悟しておかなければなりません。(6章8節~9節)

例話3  パウロの本音が記録されている貴重な資料
ピレモンとオネシモとの関係は奴隷問題に対するパウロの個人的な本音が記録されている貴重な資料です。しかし、これは当時として、あくまでも個人的であり、他に例のない特別な扱いでした。

「16 もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、すなわち、愛する兄弟としてです。特に私にとってそうですが、あなたにとってはなおさらのこと、肉においても主にあっても、そうではありませんか。
17 ですから、もしあなたが私を親しい友と思うなら、私を迎えるように彼を迎えてやってください。」(ピレ16~17)

今日の聖書個所から生まれる霊的な洞察

私たちはキリストが再臨される時に、すべてのことが解決されることを待ち望んでいます。そのときまで、私たちはキリストにあって新しくされた者としてふさわしく行動し、自分の心に確信していることを日々の生活の中であらわさなければなりません。 あらためてエペソ人への手紙をみると、パウロはそれを個人の生活のあり方として、夫婦のあり方として、親子のあり方として、職業人のあり方として、どのように具体的にあらわすべきかを教えていることが分かります。

私たちから神への応答としての決断

私たちは自分が生かされている時代や生活環境に適応しながら、キリストに従う者として自分にふさわしいと判断することを実行していかなければなりません。あるものは時代に応じて、または必要に応じて、変化していかなければならないことがあります。また、あるものは決して変えてはならない、変わるべきではないものがあります。次のみことばから、よく考えて行動する習慣を身につけましょう。

<聖書のみことば> ヘブル13章7節~8節

7 神のみことばをあなたがたに話した指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生活の結末をよく見て、その信仰にならいなさい。
8 イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。

メッセージ内容のダウンロード(PDF115KB)

新聖歌

開会祈祷後:156番、聖書朗読後:339番、メッセージ後:354番

詩編交読

詩篇100:1~5節

お知らせ

★本日礼拝後に10月度の聖餐式を行います。その後に有志の方々のご協力で11月に行われる讃美礼拝招待状のあて名書きを行います。
★次週の礼拝後に第1回目クリスマス実行委員会を行います。指名を受けた方々はご協力をお願いします。
★10月17日(土)NBCにおいてオータムフェスタが行われます。千里教会からムジカンパーニュのメンバーも出演します。お祈りください。

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