異国の地で故郷を想う

メッセージ

<詩編137篇 1節~9節>
牧師:徳本 篤師

開会聖句

しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。

<ヘブル人への手紙 11章16節>

メッセージ内容

序論)
私たちに人生には想定外のことが起こるものです。中でも悲しい出来事は大変辛いものとなります。しかし、そのことが新しい人生を歩み出すキッカケになったということもしばしばあることです。

今日の詩篇137の作者は捕らえ移されたユダヤ人たちの窮境を嘆き、彼らのエルサレムに対する強い愛情と敵に対する強い憎悪を書き表しました。この詩篇がとくに有名なのは、おそらくそれがある特定の歴史上の出来事を取り上げた数少ない詩篇のうちの一つであり、この物語の特性になっているからです。
それは587BCにバビロン人によってエルサレムが破壊された後に強制的にバビロンに移されたユダヤ人共同体が存在していたことを明確に記しています。このユダヤ人共同体はエレミヤ書とエゼキエル書の背景として反映されます。

この共同体はかつての自分たちが故郷エルサレムで暮らしていた時の記憶に強く執着しており、ゆるぎない情熱で帰還を望んでいます。それと同時に捕囚とされた時に味わった残虐行為も記憶されています。
敵地バビロンにおいて、「シオンの歌を歌え」と言って人々にからかわれた時に、そのエルサレムに対する愛国心と敵に対する強い憎悪感が一気に噴き出してきて、彼らはそこで涙を抑えることができませんでした。

私たちが知っているユダヤ教がこの時に生まれたのです。それまで彼らは自分たちの先祖がアブラハムであり、モーセという偉大な指導者に導かれてエジプトから出てきた者たちの子孫であることは知っていました。先祖からの伝統に従って祭りも儀式も安息日も割礼も行っていました。しかし、それは彼らにとって生まれた時からすでにあったものでした。ただ当たり前のことをしているだけでした。バビロンに引き連れられて行ったあとになって初めて自分たちはいったい何者なのかに気付いたのです。自分たちがどこにおいても自分たちであるための生き方として誕生したのがユダヤ教です。そこで律法の専門家の律法学者、安息日の礼拝、子どの宗教教育学校、集会場になった会堂を守る会堂司、徹底した愛国主義者であるパリサイ人などがこの地で誕生したのです。のちにユダヤ教は世界の救い主キリスト誕生の受け皿としての役目を担うことになるのです。

本論)
1囚人である悲しみ137:1-4
137:1のバビロンの川のほとりとは、現在のユーフラテス川およびその運河のことです。エルサレムからバビロンまでの道のりは直線で約800㎞ですが、実際に歩いたのはその倍近く、例えば、東京から鹿児島までを兵士たちに急かされながら無理やり歩まされたことになります。
バビロンに着いても彼らはかつて故郷のお祭りの時の楽しかったことや故郷ではみんなで歌っていた歌を忘れることはありません。それは唯一なる神をほめたたえ、恵みに感謝する歌でした。バビロン人たちは宴会の席での余興として、ユダヤ人たちにその歌を歌えといってからかったのです。ユダヤ人はとても歌うような気持にはなれませんでした。
この歌えないような状況は自分たちの愚かさと罪が招いた悲劇です。彼らはそれを思い出して嘆きました。通常、喜びの歌は人々に楽しい思い出の記憶と感情を呼び戻すものですが、ユダヤ人たちはその歌が悲しい心と無残な記憶を呼び覚ましてしまいました。彼らは歌うことができないので、竪琴を木の枝に掛けてしまいました。

2. エルサレムに対する愛情137:5-6
詩人は、このとき永遠にエルサレムを覚えていることを心に誓いました。かつてエルサレムの神殿で行われていた礼拝や祭りが神への讃美と互いの親睦の時として非常に楽しいものだったからです。もし、そのことを忘れてしまうなら、それは自分たちではない。
たとえ、バビロンで幸せに暮らし、そこで歌を歌うことがあったとしても、それはもはや自分たちではない。自分たちが自分たちでなくなるくらいなら、すべてを失ったのも同然である。自分たちがそこに存在することも、生きることにも意味がなくなるからです。
「手と舌」は、譬えとして、すべての行動と言葉を表していました。エルサレムを意識していることが自分の存在理由です。もし忘れるなら存在理由を失うばかりか、生きがいを失うことになります。生きがいのない人生は精神的にも身体的にも実際に悪い影響を与えます。

3. 敵に対する憎悪137:7-9
バビロンによってエルサレムが破壊された時、兵士たちは、情け容赦なく若い女性や、妊婦、幼い子どもたちを殺しました。とくに子どもに対する殺戮の描写は当時の戦争の厳しさを表現しているものです。
戦争ではつねにこうした若い女性、妊婦、少女、幼子が犠牲者になるのです。著者は自分たちが身に受けた同じ悲しみと苦悩を加害者側に与えられるよう神に願っています。それだけに作者の心の痛みと敵に対する憎悪が激しいものであったことが伝わってきます。

結論)
1 生きがいは心身の健康に影響するものです。本当の生きがいは自分が神とともに生きる者であることを確信させ、それを意識するところから生まれます。それは心に永遠に残る楽しい記憶となる。私たちはもう間もなくクリスマスを祝おうとしています。今年もみんなで一緒にキリストのご降誕をお祝いできることを喜びましょう。その日が心からの喜びとなり、楽しいお祝いの日となることを期待しましょう。

2 私たちは犠牲者となった方々の痛みと悲しみをすべて理解することはできなくとも、無関心であったり、見下げたりすることはもってのほかです。心から神による癒しと慰めを祈りましょう。また、被害者が加害者に変わり、加害者が被害者になることが繰り返されないように、神のみこころに従って私たちはどうすべきかを判断し、支援する必要があれば心を閉ざすことがないよう心がけましょう。どのような人々が戦争の犠牲者になるのかを決して忘れないで、平和のために関心をもち、平和のために祈りましょう。

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新聖歌

開会祈祷後:70番、聖書朗読後:203番、メッセージ後:471番

詩編交読

詩篇127:1~5節

お知らせ

★本日の午後からクリスマスの飾付を行います。
★教会備品を整理しています。児童図書、ビデオテープ、カセットテープ等も処分対象になります。欲しい方は申し出てください。
★今年のクリスマス礼拝・祝会は12月20日(日)に行います。

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