飼葉桶の救い主

メッセージ

<ルカの福音書 2章1~7節>
牧師:砂山 智 師

開会聖句

この方はご自分ところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった。

<ヨハネの福音書 1章11節>

メッセージ内容


<序論>  
・今日から「アドベント(待降節)」第三週です。

<本論>
1、 すべて時にかなって美しい

今日の福音書の冒頭に、歴史上の人物の名前や出来事が出てきます。「コロサイ人への手紙」を見ると、この福音書の著者ルカは医者であったと記されています。医者は病気の専門家ですが、それと同時に科学者でもあると思います。特に聖書の時代はそうだったと思います。ですから、彼は、科学者としての眼で綿密に調べ上げ、この福音書を記しているんです。そのことは、ルカ自身が1章1~3節で述べている通りです。
そして、先週のメッセージで、「アルファであり、オメガである方」と題してお話ししましたが、この歴史の最初であり終わりである方。時の流れの一切を司り、縛られず、超越しておられる神は、私たち人類の歴史の中のある一点を選んでイエス様を送ってくださいました。旧約聖書の「伝道者の書」3章に次のようなみことばがあります。

『神のなさることは、すべて時にかなって美しい 』(伝道者 3:11a)。

クリスマスの出来事は、まさに、「時にかなって美しい」、神様のご摂理の中で起こった出来事であったと言えます。イエス・キリストがお生まれになった時代世界を支配していたのは、古代ローマ帝国の初代皇帝となったアウグストゥス(前63年~後14年)でした。彼は、あのユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)の養子でしたが、アントニウスらとの権力闘争に勝ち残り、それまでの共和制ローマを廃して帝政ローマを打ち立てました。それは、紀元前8世紀に起源を持つローマの全盛時代の始まりでもありました。その最盛期には、地中海沿岸全域を支配し、その影響力は現在のイギリスやルーマニア、イラクのあたりにまで及んだと言われています。イエス・キリストは、そのような時代に、ローマ帝国内においては辺境の地とも言えるパレスチナ(ユダヤ)にお生まれになりました。そして、イエス・キリストの教え(福音)は、このローマ帝国内で大きく広がっていったのです。その背景にはいくつかの要因がありました。例えば、新約聖書の原典は(コイネー)ギリシア語で書かれたと言われています。ローマ帝国の公用語はラテン語でしたが、マケドニアのアレクサンドロス大王(前356年~323年)の影響で、ギリシア文化やギリシア語が、はるか東方にまで伝えられ、ローマ帝国内においても、ローマから東の大多数の人々、多少の教養のある人なら誰でもギリシア語を理解しました(ヘレニズム化)。ですから、イエス・キリストの死後に書かれた新約聖書の原典は書き写され、その教えを広めることができたんですね。また、ローマ帝国は、広大な属州のどこかで反乱がおこっても、軍隊をすぐに派遣して鎮圧できるようにと、立派な道路網を整備しました。「総ての道はローマに通ず」という言葉、皆さんもお聞きになったことがあると思いますが、ローマ人の土木・建築技術は非常に優れており、彼らはその優れた技術によって、現代でも通用するような道路網を作り上げたのです。イエス・キリストの福音は、それらの道を通って、ローマ帝国の隅々にまで届けられました。今日では、インターネットがそのような役割を果たしているのかもしれません。今、お話しした以外にも、ローマ帝国の隆盛が福音宣教に大いに役立ったという例は、いくつも挙げることができます。まさに、イエス様の誕生、クリスマスの出来事は、神が定められた時、「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」と言えるよう な、絶妙のタイミングで起こったのです。

2、 ベツレヘムへの旅

そして、先程お読みした箇所には、その時代に、皇帝アウグストゥスが全世界の住民登録をせよと命じた、と記されていました。古代ローマの住民登録は、14年ごとに行われたそうですが、その目的は二つありました。一つは、課税のため。 そして、もう一つは、兵役のためです。ただ、ユダヤ人は、兵役は免除されていましたので、ユダヤでは、もっぱら課税を目的として住民登録が行われていたようです。これらのことが今日、分かっているのは、実はエジプトで古文書が発掘されたからなんです。当時はエジプト(アエギュプトゥス)もローマ帝国の属州の一つでしたが、その古文 書には次のように書かれてあったそうです。

「ガイウス・ヴィビウス・マクシムス、エジプトの総督は次のように命じる。住民登録の時が来たことを知ったなら、いかなる理由があるにせよ、自分の地区以外に滞在する者はみな、自分の家に帰るように強制しなければならない。それは、住民登録の規則を守らせると同時に、自分に割り当てられた土地の耕作に真面目に従事させるためである。」

マリアとヨセフがいたガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムまでは120Kmほどあります。今から 2000年前ですので、身重のマリアにとっては、さぞかし大変な旅であったと思います。当時の旅人が泊まる宿屋 は、長屋風に建てられた馬屋で、共同に使用される中庭と筒抜けになっているような作りでした。また、今日の旅館のように食事が提供されるようなことはなく、旅人はそれぞれ自分で食べ物を携帯し、宿屋の主人が用意した薪で各自で調理をするようになっていたそうです。ただ、そんな宿屋であっても、泊まることさえできれば、旅の疲れを癒すこともできたでしょう。

しかし、7節の最後には、次のように書かれています。

『宿屋には彼らのいる場所がなかったからである』(ルカ 1:7 b)。

ある本に、これは当時の常識からすればありえないことだ、と書かれていました。それは、ユダヤのベツレヘムという町には、ヨセフの家系(ルーツ)に連なる人たちがたくさん住んでいたはずだからです。当時の常識からすれば、自分たちの家系に属する者たちが帰ってきたならば、何かしらの援助が与えられて当然だと言うのです。しかし、『宿屋には彼らのいる場所がなかった』。これは、イエス様の誕生は、当時のユダヤではタブーとされていた、未婚の女性から出産(私生児)であると受け止められていたからではないか。だから、彼は宿屋にも入れてもらえなかったのだと…。 聖書にはそこまで書かれていませんので、この解釈が正しいのかどうかは、私には分かりません。もしかしたら、大勢の旅人のために、単に宿屋が満杯で、彼らが泊まる場所がなかっただけなのかもしれません。ただ、私は、『宿屋に彼らのいる場所がなかった』というみことばを読むたびに、イエス様が歩まれたご生涯を思い起こしてしまうんです。

<結論>

『この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった』(ヨハネ 1:11)。

今日のメッセージの題は「飼葉桶の救い主」ですが、飼葉桶とは、どのような場所と言うか、どのようなものでしょうか? もちろん、きれいなものではないですよね。王様が飼っている馬の飼葉桶とかでしたら、豪華なものもあるかもしれませんが、普通の宿屋の飼葉桶ですから、粗末なありふれたものであったと思います。しかし、イエス様は、そのような、汚い、粗末で、ありふれた飼葉桶の中に生まれてくださったのです。
ルカ は、その後の羊飼いたちが礼拝しに来る場面では、主の使いが現れ、栄光が周りを照らしたとか、天の軍勢が神を賛美したとか記していますが、彼らが礼拝したイエス様も、やっぱり、飼葉桶の中に寝かされたイエス様だったんです。
このことを私たちは忘れてはならないと思います。私たちは、イエス様を、何か世俗的で、私たちが汚れていると思っているものから引き離して、私たちの頭の中で「聖い」と思い込んでいるよう な所で、信じ、崇めようとしてはいないでしょうか?教会で、静かにオルガンが鳴り響くような、 厳かな雰囲気の中に入ることによって、今までの汚れた自分が聖められ、敬虔な信仰者になったような、そんな気分になる。しかし、イエス様は、そのような世界に来てくださったのではないんですね。現実の、リアルな、薄汚れた飼葉桶の中に生まれてくださったのです。
この「ルカの福音書」の特色の一つは「普遍的」であると言われています。その意味は、イエス様 の福音は、 社会におけるありとあらゆる障壁(隔ての壁)を乗り越え、異邦人や貧しい人、女性や子ども、取税人や遊女、そして、羊飼いのような、当時の社会の中で見下され、罪人として除け者にされていた人たちに対して届けられた、そのような「福音(よい知らせ)」であ ったということです。今の社会にも隔ての壁は存在しています。SNSなどによって、常に人と人がつながっていないと不安を覚えるような社会になりましたが、その反面、現代は、格差社会、分断の時代と言われています。 孤独死・セルフネグレクト(緩慢な自殺)が、高齢者だけでなく、若者世代にも増えてきています。イエス様は、そのような現実の社会、矛盾の只中に、人となって、それも無力な赤ちゃんの姿で来てくださったのです。 クリスマスの時期にもよく歌われる讃美で、私も大好きな讃美なんですが、新聖歌99番「馬槽の中に」の歌詞を、皆さんもご存じだと思います。

「馬槽(まぶね)の中に 産声上げ 大工(たくみ)の家に 人となりて 貧しき憂い 生くる悩み つぶさになめし この人を見よ」。

私たち信仰者は、誰か偉大な聖人とか、 立派な先人たちを見るのではなく、人となられた神であ るイエス様だけを見て、歩み続けなければならないと思います。
最後に、今日の開会聖句の続きをお読みしたいと思います。

『しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権 をお与えになった。 この人々は、血によってではなく、 肉の望むところでも人の意志によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた』(ヨハネ 1:12~14)

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新聖歌

開会祈祷後:70番
メッセージ後:87番

聖書交読

伝道者の書 11章1~6節

2019年教会行事

12月18日(水)オリーブ・いきいき百歳体操
新バージョン(脳トレ)がスタートしています!

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