アルファでありオメガである方

メッセージ

<イザヤ書 9章1~7節>
牧師:砂山 智 師

開会聖句

神である主、今おられ、昔おられ、やがて来られる方、
全能者がこう言われる。「わたしはアルファであり、オメガである。」

<ヨハネの黙示録 1章8節>

メッセージ内容


<序論>  
・イザヤというのは旧約の預言者で、紀元前8世紀頃(イエス様が生まれる700年以上前)に活躍した人物です。そして、「イザヤ書」は、新約聖書で一番多く引用されている旧約の書簡です。特に、メシア(ギリシア語ではキリスト)預言としては、7章14節、11章、53章(苦難のしもべ)などが、よく知られていますが、今日の9章6節も、クリスマスの時期には、よく読まれる箇所だと思います。

<本論>
1、 大きな光

『しかし、苦しみのあったところに闇がなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は辱めを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダンの川向こう、異邦の民のガリラヤは栄誉を受ける。闇の中を歩んでいた民は大きな光を見る。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が輝く』(イザヤ9:1~2)。

これらの預言は、直接的にはイザヤが生きた時代についての預言と言えます。その時代背景は、「Ⅱ列王記」の15章以降を読んでいただければお分かりいただけると思いますが、北イスラエルがアッシリアによって亡ぼされ、南ユダも滅亡の危機に瀕していた時代です。ただ、新約聖書の著者(マタイ)はそれだけにとどまらず、これらの預言をイエス様がメシアとしてこの世界に来てくださったことの預言として受け止め(再解釈)、引用しました。これは厳密にはクリスマスの出来事とは言えない箇所になると思いますが、マタイ4章12~16節には次のように書かれています。

『イエスはヨハネが捕らえられたと聞いて、ガリラヤに退かれた。そして、ナザレを離れ、ゼブルンナフタリの地方にある、湖のほとりの町カペナウムに来て住まわれた。これは、預言者イザヤを通して語られたことが成就するためであった。「ゼブルンの地とナフタリの地、海沿いの道、ヨルダンの川向う、異邦人のガリラヤ。闇の中に住んでいた民は大きな光を見る。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が昇る。」この時からイエスは宣教を開始し、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と言われた』(マタイ4:12~16)。

マタイは、イエス様のことを、闇の中に輝く大きな光になぞらえたんですが、先日の教団有志早天祈祷会で聞かせてもらった、ある姉妹の奨励(証し)を通して、本当にそうだなと思わされました。その方は、愛する家族を失うという耐え難い痛みを経験をされ、真っ暗闇のボロボロの状態の中で、「マタイの福音書」11章28節のみことばを通してイエス様と出会った、とおっしゃってました。

『すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます』(マタイ11:28)。

聖書は、闇が無くなって一切が明るくなる、とは言っていません。あなたがたは闇の中に大きな光を見る、と言っています。また、あなたの人生から重荷は無くなり、何も背負わなくてもよくなる、とは言っていません。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽い、とイエス様は言ってくださったのです。私たちは闇が無くなること、病が癒され、重荷が無くなること願います。しかし、残念ながら、この世に生きている限りは、今の病気が癒されても、また別の病気が襲ってくるかもしれません。一つの重荷を降ろしたとしても、また新たな重荷を背負うことになるでしょう。本当に大切なことは、病が癒されること、重荷が無くなることではなくて、たとえ病の中にあり、重荷を背負っていたとしても、

『わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである』(Ⅱコリント12:9)

と言われたイエス様の約束を信じ、歩み続けることではないでしょうか。

2、 不思議な助言者、平和の君

『ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に就いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これを支える。今よりとこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる』(イザヤ9:6~7)。

「ルカの福音書」1章には、次のように書かれています。

『さて、その六か月目に、御使いガブリエルが神から遣わされて、ガリラヤのナザレという町の一人の処女のところに来た。この処女は、ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけで、名をマリアといった。御使いは入って来ると、マリアに言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」しかし、マリアはこのことばにひどく戸惑って、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。すると、御使いは彼女に言った。「恐れることはありません、マリア。あなたは神から恵みを受けたのです。見なさい。あなたは身ごもって、男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。その子は大いなる者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また神である主は、彼にその父ダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その支配に終わりはありません』(ルカ1:26~33)。

この後半の部分がイザヤからの引用と思われますが、ルカは、マタイに比べると、
かなり意訳と言いますか、ことばを変えて引用しています。「イザヤ書」には四つの呼び名が出てきますが、最後の「平和の君」と訳されている呼び名は、ヘブル語では「サル・シャローム」、英語では「プリンス・オブ・ピース」ですが、今月号の「よきおとずれ」に、中国地区牧師の竹田滿師が「平和を紡ぐ」と題して、次のように書いておられました。

「平和作りとは、神と人間との和解や人間同士の和解作りを意味する。私たちは和解の使節として行動し、罪によって傷ついた神と人間との関係の修復、人間と人間との関係の修復を目指す。こうした和解が広がっていく現実を「平和を紡ぐ」と表現したい。」

今年も色々な事件がありましたが、先日も、昨年起こった「新幹線車内殺傷事件」の初公判の様子が報道されていました。その被告の発言を聞いて、私は、本当に何とも言えない気持ちになりました。彼の心の闇はどれほど深いのかなと思わされました。和解とは、赦す、赦し合うこととも言えますが、私たち一人一人にとっては、生涯、取り組んでゆかなければならない重い課題であり、また、背負うべき十字架なのではないでしょうか。

<結論>

最後に、今日の開会聖句です。

『神である主、今おられ、昔おられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。「わたしはアルファであり、オメガである。」』(黙示録1:8)。

このみことばには二つの意味があると思います。一つは、聖書の時の流れは一直線であり、始まりがあって終わりがあるということです。つまり、私たち日本人にはなじみの深い「輪廻」、永遠にぐるぐると回り続けるのではないということですね。そして、もう一つ。それは、聖書の神は、そのような時の流れを司る方であり、時を超越した方だということです。
私は、今回のメッセージの準備をしていて、あることに気づかされたんですが、それは、私たちが使っている「新改訳聖書」の訳が、以前の【第三版】と【2017】とで微妙に違っているということです。それは、すべての箇所がそうなんですけれども、特に、このイザヤ書9章を読むと、微妙に違っているんですね。例えば、2節。
【第三版】では、

『やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。』

【2017】では、

『闇の中を歩んでいた民は大きな光を見る。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が輝く。』

【第三版】では過去形に訳されていることばが、【2017】では現在・未来の出来事として訳されています。
少し専門的な話になりますが、過去形とか現在/未来形とかというのは、「時制」と言います。皆さんも、英語の授業で習われたと思いますが・・・。旧約聖書はヘブル語で書かれていますが、へブル語の時制というのは、ある意味、とても自由なんです。完了形(過去形)と未完了形(現在/未来形)しかなく、未完了形でも、必ずしも未来の行為を表すとは限らず、過去の行為を表すこともできるんです。ですから、先程、ご紹介した「新改訳聖書」の【第三版】も【2017】も、訳として間違ってはいないのですが、私は、このことからも、私たちが信じる神は、時というものを超越したお方なんだということを思わされました。イエス様は、

『あなたがたが祈り求めるものは何でも、すでに得たと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります』(マルコ11:24)

と言われました。それは、私たちが神に祈り求める時、その答えは、私たちが求めたものとは違うかもしれないし、いつ答えられるのかは分からないけれども、時というものを超越した神は必ず答えてくださる。必ず最善をなしてくださる。あなたは、そのことを信じなさいということかなと思わされました。「わたしはアルファであり、オメガである。」私たちは、そのように言われた方を信じて、歩み続けようではありませんか。

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新聖歌

開会祈祷後:68番
メッセージ後:75番

聖書交読

伝道者の書 8章9~14節

2019年教会行事

12月11日(水)オリーブ・いきいき百歳体操
新バージョン(脳トレ)がスタートしています!

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