神の愚かさ 神の弱さ[家庭礼拝対応版]

「緊急事態宣言」が解除されたことから、5月31日(日)から、感染拡大予防に配慮したうえで礼拝を再開しています。
高齢の教会員、教会での礼拝に参加することが困難な教会員のために、先週の礼拝から、Youtubeによる動画配信を行っています。
本ページ内容は家庭礼拝に対応しています。

メッセージ

<コリント人への手紙第1 1章 10~17節>
牧師:砂山 智 師

聖書箇所 コリント人への手紙第1 1章より抜粋(新改訳2017版より引用)

1:10 さて、兄弟たち、私たちの主イエス・キリストの名によって、あなたがたにお願いします。どうか皆が語ることを一つにして、仲間割れせず、同じ心、同じ考えで一致してください。
1:11 私の兄弟たち。実は、あなたがたの間に争いがあると、クロエの家の者から知らされました。
1:12 あなたがたはそれぞれ、「私はパウロにつく」「私はアポロに」「私はケファに」「私はキリストに」と言っているとのことです。
1:13 キリストが分割されたのですか。パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか。あなたがたはパウロの名によってバプテスマを受けたのですか。
1:14 私は神に感謝しています。私はクリスポとガイオのほか、あなたがたのだれにもバプテスマを授けませんでした。
1:15 ですから、あなたがたが私の名によってバプテスマを受けたとは、だれも言えないのです。
1:16 もっとも、ステファナの家の者たちにもバプテスマを授けましたが、そのほかにはだれにも授けた覚えはありません。
1:17 キリストが私を遣わされたのは、バプテスマを授けるためではなく、福音を、ことばの知恵によらずに宣べ伝えるためでした。これはキリストの十字架が空しくならないようにするためです。

開会聖句

神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。

<コリント人への手紙第1 1章25節>

メッセージ内容

Youtube動画

メッセージ原稿は、礼拝前ですが、家庭礼拝用として事前公開します。
<序論>  
今回のコロナの件で「無観客」ということばをよく耳にするようになりました。野球や大相撲の「無観客試合」等々。この前の土曜日に、Aokkie姉のご協力で初めて説教を撮影し、Youtubeで視聴できるようになったんですが、説教も「無観客(?)」というのは本当に難しいなと思わされました。今日からは礼拝で収録できるので、少しホッとしています。

6月の説教は「コリント人への手紙第一」からになります。今月号の「日々のみことば」の最初にある「INTRODUCTIONアドバイス」でも紹介されていましたが、宗教改革の指導者の一人であるカルヴァンは、この手紙の宛先であるコリント教会について「神よりも、むしろ悪魔が支配しているとでも思われるほど、悪徳の充満したこの人間集団」ということばを残しています。これは決して誇張ではなく、パウロの時代のコリント教会は、本当に多くの問題を抱えていました。そして、それらの問題の多くは、教会があったコリントという町に由来するものであったようです。コリントはギリシア本土と最南端にあるペロポネソス半島とを結ぶ地峡に位置しており、古代から交通の要衝として大いに栄えていました。ただ、その一方で、偶像崇拝も盛んで、ギリシア神話の女神アプロディーテー(ヴィーナス)を祀る神殿があり、そこには1,000人もの巫女(神殿娼婦)がいて、とても賑わっていたそうです。ですから、ギリシア語には「コリンティアゼスタイ(直訳:コリント人のように生活する)」ということばがあるんですが、それは「堕落し、放蕩した生活をする」ということを意味したそうです。パウロがこの地を伝道したのは、「使徒の働き」18章にある第二回目の伝道旅行においてです。彼は、1年半程の間、熱心に伝道し、それがコリント教会誕生のきっかけとなったのですが、パウロが去ってから、やっぱり周りからの影響もあったのでしょうか、信徒たちの信仰はだんだんとダメになっていったんですね。パウロはそのことを知って、この手紙を書き送ったのです。それは恐らく「使徒の働き」19~20章のエペソ滞在中でのことはないかと言われています(紀元55年頃)。

<本論>
1、神の教会へ

まず、この手紙の冒頭の部分に注目したいと思います。

『神のみこころによりキリスト・イエスの使徒として召されたパウロと、兄弟ソステネから、コリントにある神の教会へ』(Ⅰコリント1:1~2a)。

パウロはこれから、コリント教会にあった様々な問題について論じて行くのですが、その多くは、クリスチャンでなくても顔をそむけたくなるような、不道徳、不品行な問題でした。しかし、彼は、そのような教会に向かって、『コリントにある神の教会へ』と呼びかけています。これは単なる儀礼的な挨拶でしょうか?それとも、皮肉を込めて、そのように言っているのでしょうか?その後のことばも見てみましょう。

『すなわち、いたるところで私たちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人とともに、キリスト・イエスにあって聖なる者とされ、聖徒として召された方々へ。主はそのすべての人の主であり、私たちの主です』(同1:2b)。

私たちは人から「聖徒」なんて呼ばれると、「いやー自分なんか、とてもとても」と、穴があったら入りたいような気持ちになるのではないかと思いますが、パウロは、あえてコリント教会の人たちにそのように呼びかけているのではないでしょうか。それは決して皮肉とかではなく、教会というのは、コリント教会であれ、どこの教会であれ、誰か人間の努力や、素晴らしい行いによって建てられたものではない。ただ、神の恵みによって建てられたのであり、そこに集う人々は、元々、聖徒と呼ばれるような立派な人たちではなく、キリスト・イエスにあって聖なる者とされ、聖徒として召された者たちなんだ、ということではないかと思います。
これからパウロは、彼らの教会の問題について、具体的に、一つ一つ丁寧に論じてゆきますが、教会の人々にとって、それらのことばは、本当は聞きたくない、耳にするのも嫌なことばであったと思います。ただ、パウロは、そんな彼らに、自分が語ることばを単なる道徳的なお説教のようなものとして受けとめてほしくはなかったと思うのです。だから、パウロは、本題に入る前に、まず自分たちの信仰の原点というか、その出発点はどこにあるのかということを、もう一度はっきりと示しておきたかったのではないでしょうか。
この手紙には、一見すると、道徳的な教えや戒めのようなことばが多く出てきます。しかし、以前、ご紹介した、ポール・トゥルニエの「聖書ではあくまで宗教的なものにアクセントが置かれているのであって、決して道徳的なものにアクセントが置かれているのではない。宗教とは神とその恩恵を情熱的に追及することを意味し、これに反して道徳主義とは自分自身を追及することを意味する。別の言い方をするなら、道徳主義とは、善意を自分の力で識別し、あらゆる過ちから自分で自分の身を守ることを自分に要求するということであり、こういう人間は、自分はまちがっていないだろうかと始終びくびくしながら、真面目一点張りに、あらゆる楽しみを断念する。この態度が極端になると、しまいには神も必要ないし、神の恩恵もいらないということになる」ということばを忘れずに読み進めることができれば、と願っています。

2、 神の御名で

そして、パウロがまず最初に取り上げる問題は、分裂・分派の問題でした。

『さて、兄弟たち、私たちの主イエス・キリストの名によって、あなたがたにお願いします。どうか皆が語ることを一つにして、仲間割れせず、同じ心、同じ考えで一致してください。私の兄弟たち。実は、あなたがたの間に争いがあると、クロエの家の者から知らされました。あなたがたはそれぞれ、「私はパウロにつく」「私はアポロに」「私はケファに」「私はキリストに」と言っているとのことです』(Ⅰコリント1:10~12)。

パウロも、アポロも、ケファ(ペテロ)も、素晴らしい指導者であり、それぞれが異なった賜物を持った人たちでした。アポロはアレクサンドリア生まれのユダヤ人で、聖書にも精通し雄弁な人でした。アレクサンドリアは当時の学問の中心地でしたので、アポロを支持する人たちには恐らくインテリ層が多かったのではないでしょうか。また、ケファ(ペテロ)は、皆さんもよくご存じの通り十二使徒の一人ですよね。ですから、ペテロを支持する人たちは、ユダヤの伝統を何よりも尊重する人たちが多かったのではないかと思われます。それにしても興味深いと言いますか、不思議に思うのは、『私はキリストに(つく)』という人たちです。元々、「キリスト者(クリスティアノス)」という呼び名は、「キリストにつく者」「キリストの奴隷」という意味なんですが、私はキリストにつくというのなら何も問題はないように思えます。しかし、そうではなかったんですね。そもそも、キリストを、パウロやアポロ、ペテロなどの人間と同列に置いていること自体、おかしいわけですが、それ以上に問題なのは、キリストの名前を使って他の人たちを批判するというか、教会内に分裂を引き起こそうとしているということだと思うんですね。モーセの十戒の一つに、

『あなたは、あなたの神、主の名をみだりに口にしてはならない』(出20:7)

という戒めがあります。余談ですが、昔、ルツ・ウインズ宣教師が、悪い英語の例として、「Oh, my God!」「Jesus Christ!」というようなことばを挙げて、「そんな英語は使ったらだめです」と言っておられたことを思い出しました。どちらも大阪弁で言えば「なんでやねん!」というような意味ですが、それも神の名をみだりに口にすることですね。コリント教会の場合には、神神の名前を盾にして自分を正当化し、教会内の一致を乱していたようですが、そんなことは絶対にあってはならないことです。新聖歌に「God bless you」という讃美がありますが、私たちは「あなたに神の祝福が豊かにありますように」と、神の名前を、キリストの名前を唱える者でありたいですね。

<結論>

そして、最後に、今日の開会聖句。素直に読めば、不思議なことばです。

『神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです』(Ⅰコリント1:25)。

聖書やイエス様のことばには逆説的なことばも多いのですが(『心の貧しい者は幸いです。』『悲しむ者は幸いです。』等々)、パウロもそうですね。
神が愚かなわけはなく、神が弱いわけもないのですが、パウロはこのことばを通して何を言いたかったのかな、と自分自身に問いかけてみました。その答えは今も見つかっていませんが、ただ、今日のテキストの最後の17節に、『福音を、ことばの知恵によらずに宣べ伝えるためでした』ということばと密接につながっているように思えました。「ことばの知恵によらずに」。ギリシア人やユダヤ人、神を知らない世の人々からは愚かで弱く見える、あの十字架に架けられたイエス様こそ、私たちの救い主であり、福音そのものです。今週もその方から目を離さずに、歩んで行きましょう。

メッセージ内容のダウンロード(PDF118KB)

新聖歌

開会祈祷後:242番、メッセージ後:396番

聖書交読

詩編 24篇1~10節

2020年教会行事

6月10日(水)オリーブ・いきいき百歳体操はお休みです。
吹田市からの連絡を待ってから再開します。

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