神からのギフト

北部地区牧師巡回講壇交換

メノナイトブレザレン教団の教会のうち、大阪府北部地区の教会が共に手を携えて、全ての教会をサポートし合う活動として行っており、今回は寝屋川キリスト教会牧師の大山 明先生をお迎えしました。当千里キリスト教会牧師は、星田チャペルでご奉仕をいたします。

メッセージ

<コリント人への手紙 第一 12章12~31節前半>
メッセージ:寝屋川キリスト教会牧師:大山 明

開会聖句

あなたがたはキリストのからだであって、一人ひとりはその部分です。

<コリント人への手紙 第一 12章27節>

メッセージ内容

Youtube動画


動画公開が遅れて申し訳ありません。 メッセージ動画公開:9/18 PM 7:18 


メッセージ原稿を公開しました。家庭での礼拝に用いてください。 

1.コリント教会の問題
コリント教会で起きた問題の一つが「教会の中で賜物をどのように用いるか」でした。「賜物」は「贈り物(ギフト)」という意味で、新約聖書のギリシア語では「カリスマ」です。また「カリス」とは「神の恵み」のことなので、「カリスマ」の本来の意味は「神の恵みによって与えられた能力」です。この「賜物」がきっかけとなって、コリント教会の中に深刻な問題が生じました。「できる人たち」と「できない人たち」との間に溝ができてしまったのです。

12:8-11で「御霊によって」「同一の御霊」といった表現が繰り返し使われています.また12:12,13では「一つのからだ」という表現も繰り返されています。これらは教会の一致や調和を強調しています.また賜物の種類が幾つか上げられていて、知恵のことば、知識のことば、信仰、癒やし、奇跡、預言などについて語られています。

なぜでしょうか。その問題を具体的に知る手がかりが14:26-33にあります。ここに出てくる「異言」は外国語のことと思われます。使徒の働きの2章で.ペンテコステの時に集まっていた弟子たちに聖霊が降り、弟子たちは学んだことのない外国語を話し始めるという奇跡が起きました、その時に弟子たちが話したのが「異言」でした。

コリント教会の信者の一部の人たちにも.異言(外国語)を話す能力が神から与えられていました。ところがその信者たちは集会の中で異言ばかりを話すようになり、他の人に対する配慮を忘れてしまったのです。解き明かし(通訳)する人もいなかったので、異言を理解できない人は何が話されているか分からずに混乱し、集会の秩序が失われてしまったのです。

本来、教会に集うことは、お互いに励まし合い、支え合う場であるはずなのに、逆に教会の集まりが信者たちにつまずきを与えてしまいました。そこでパウロは12-14章で、集会の秩序を保ち、信者に与えられている賜物をどのように用いるべきかについて語っているのです。

  
2.教会は聖霊によって一つのからだとされている(12:12-13)
「御霊によって」、「同じ御霊」、「同一の御霊」、「ひとつのからだ」ということばを使ってパウロが伝えているのは「教会はそれぞれに与えられている御霊の賜物を秩序に基づいて用いるべきである」ということです。そしてパウロは教会のあり方を人間の肉体にたとえて説明しています。これがパウロのユニークな教会論「キリストのからだ」です。肉体の中に様々な役割を果たす器官がたくさんあるように、神は私たちにそれぞれ異なる賜物を与えてくださっています。

またイエスを救い主として信じ受け入れた人は、その瞬間に「聖霊のバプテスマ」を経験します。これは全ての信者が体験するものです。そのバプテスマによって「ユダヤ人もギリシア人も」「奴隷も自由人も」、つまり国籍や地位にかかわらず全ての人がキリストのからだにつながる者とされ、聖霊が内に住んでくださるようになるのです。そしてそれぞれに与えられている賜物は違っても、それらの賜物を私たちに与えてくださったのは同じ一つの御霊です。だから一致や秩序を得ることができるはずなのです。

3.教会にはそれぞれに異なる賜物が与えられている(12:14-26)
12:14-20でパウロは、一つのからだに、手、足、目、耳といった異なる部分(器官)があることを語っています。それぞれの役割や働きはバラバラのように見えても、全体として一つのからだなのです。同じように教会の中に、それぞれの賜物の違い、役割の違いがあっても、教会として一つなのです。ですから教会の中でそれぞれに異なる様々な賜物があって当然です。特定の賜物があるかどうかはその人の善し悪しや優劣には全く関係ありません。

コリント教会では、異言を話せる人は優越感を覚えて高慢になり、異言を話せない人は劣等感を抱いて肩身の狭い思いをしていたのでしょう。しかし賜物は、神から恵みによって与えられた能力であることを忘れてはいけません。自分の賜物を誇り、同じ賜物を持たない人を見下すようなことがあってはならないのです。

むしろパウロはからだの中で見栄えが劣っているような部分こそ大切だと言っています。教会の中でも弱そうに感じられる人も含めて教会が一つにされているのです(12:22,23)。神は愛の一致の中にそれぞれの賜物を持つ人を置かれました。それは互いにいたわり合って、他の器官の苦しみと喜びを共に分かち合うためなのです。

4.違いを認め合い、主にある一致と調和を求めよう(12:27-31a)
パウロは教会がキリストのからだであることを確認した後、改めて教会の中の様々な賜物があることをリストにして語っています(12:27-31a)。このリストで〈使徒〉〈預言者〉〈教師〉が第1、第2、第3と順位付け、その後に癒やし、援助、管理と続き、異言は最後に置かれています。パウロは異言の賜物ばかり求めていたコリントの信者に対して釘を刺しているようです(12:10も同様)。

教会の中で賜物に違いがあるのは当然で、皆が同じではないことは、使徒、預言者、教師といった指導者の存在を見ればハッキリしています。ですから皆が異言の賜物だけを求めるべきではないのです(29‐30)。そして最後に「あなたがたは、より優れた賜物を熱心に求めなさい」と命じています。

「私はできる」と自慢してつまずきを与える賜物ではなく、「みなの益となるため」の優れた賜物です(12:7)。つまり皆に分からない言葉を語る異言ではなく、皆を教え、教会を導くことができる預言を指しています。28 節に「使徒、預言者、教師」といった教会の指導者が持っていた賜物が預言なのです。だからパウロは、異言よりも優れた預言の賜物を求めなさいと命じているのです。

私たちも同じです。他の人と比べる必要はありません。それぞれに異なる賜物が与えられています。あなたの賜物は何でしょうか。神はあなたにどのような能力を与えてくださっているでしょうか。そしてあなたはその賜物を、キリストのからだである教会の中で、どのように活かそうとしているでしょうか。自分の賜物を通して主のためにできることは何か、祈りつつ考え、主に仕えていきましょう。

メッセージ内容のダウンロード(PDF111KB)

新聖歌

開会祈祷後:143番、メッセージ後:385番

聖書交読

詩編116篇 1~7節

2022年教会行事

9月21日(水)オリーブ・いきいき百歳体操(10時~11時)

#54-2834

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