たましいの救い[家庭礼拝対応版]

「緊急事態宣言」が解除されたことから、5月31日(日)から、感染拡大予防に配慮したうえで礼拝を再開しています。
高齢の教会員、教会での礼拝に参加することが困難な教会員のために、Youtubeによる動画配信を行っています。
本ページ内容は家庭礼拝に対応しています。

メッセージ

<ペテロの手紙第1 1章 1~9節>
牧師:砂山 智 師

開会聖句

あなたがたが、信仰の結果であるたましいの救いを得ているからです。

<ペテロの手紙第1 1章9節>

メッセージ内容

Youtube動画

メッセージ原稿は、礼拝前ですが、家庭礼拝用として事前公開します。

<序論>  

「ペテロの手紙第一」は、1節にあるように十二使徒の一人であったペテロが書いた手紙で、「公同書簡」の一とされています。「公同」とは「普遍的」という意味です。それは、これらの手紙の宛先(読み手)が特定の教会ではなく、キリスト者一般(全体)であると見なされているためで、新約聖書の「ヤコブの手紙」から「ユダの手紙」までがそのように呼ばれています。
今日は、この手紙を通して、「たましいの救い」と題して皆さんと一緒にみことばに耳を傾けたいと願っています。

<本論>
1、散って寄留している人たち

今、お話ししたことと、早速矛盾するようですが、1節にはこの手紙の宛先の地名が書かれています。

『ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ピティニヤに散って寄留している選ばれた人たち』(Ⅰペテロ1:1)。

『ガラテヤ』は、「ガラテヤ人への手紙」で皆さんもご存じかと思いますが、これら5つの土地は、小アジヤ(現在のトルコ)にあった代表的な町で、キリスト者に対する激しい迫害が起こった所でした。「クオ・ヴァディス」という有名な小説がありますが、伝承では、ペテロは最後、ローマに行き、皇帝ネロの迫害によって殉教したとされています。ネロの迫害が始まったのは、紀元64年のローマ大火以降ですので、ペテロがこの手紙が書いた頃には(紀元60年代前半?)、まだローマ政府による厳しい迫害は始まってなかったようです。ただ、宣教の拡大とともに救われる人が増えてくると、どうしても周りとの摩擦や軋轢も増えてきます。ですので、先程、読んでいただいた中にもありましたが、この手紙には、様々な試練に直面しているキリスト者たちの姿がうかがえるような記述が多くあります。
さて、ペテロは、1節後半で、

『散って寄留している選ばれた人たち』

と呼びかけています。この『散って』というギリシア語(ディアスポラ)は、元々、「離散者(難民)」という特別な意味を持つことばで、一般的には、パレスチナ以外の土地に離散して暮らすユダヤ人たちのことを指すことばでした。しかし、ここで言われている「ディアスポラ」は違うんですね。ペテロは、そのようなユダヤ人ではなく、キリスト者のことを指して、散って寄留している人々と呼びかけているんです。あなたたちは、今、自分の国に住んでいるかもしれないけれども、この世にあっては、キリスト者は離散者であり寄留者なんだと。「ピリピ人への手紙」に

『私たちの国籍は天にあります』(ピリピ3:20)

とありますが、ペテロは、この手紙を読んでいる人たちにも迫害が迫る中、もう一度そのことを思い起こすようにと呼び掛けているのではないでしょうか。

2、 選ばれた人たち

そして、もう一つ、大切な呼びかけのことばがあります。それは、『選ばれた人たち』ということばです。続く2節では、その由来と言いますか、意味が説明されます。

『すなわち、父なる神の予知のままに、御霊による聖別によって、イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人たちへ』(Ⅰペテロ1:2a)。

『予知』というのは、文字通り「予め知る」ということですが、例えば「地震の予知」とか、私たち人間には本当に難しいと言うか、不可能なことですよね。考えてみれば、私たちがすぐに不安になるのは、この「予め知る」ことができないからだと思います。今、コロナの影響で仕事を失い、本当に先が見えない、これからどうなるのか分からないという不安の中で過ごしておられる方もたくさんおられると思います。私も、4月初めに熱が出た時には、本当にそんな気持ちになりました。しかし、いつもそんな時、イエス様のことばが浮かんでくるんです。

『ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります』(マタイ6:34)。

このことばには、本当に楽観的と言うか、神に対する底抜けの信頼感というものを感じます。その根拠・原点は、一体どこにあるのでしょうか?
先々週、「Ⅰコリント」からお話ししましたが、「Ⅰコリント」13章13節。

『こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です』(Ⅰコリント13:13)。

日本語では「愛」ということばは一つですが、考えてみれば、この愛は人間の愛ではなくて神の愛(アガペー)のことです。ですから、三つを比較して、どれがすぐれている、劣っているというよりも、私たちの信仰も希望も、その原点と言うか、すべての始まりは神の愛なんだということかな、と今は受けとめています。神の愛がなければ、私たちの信仰も希望も何もないのですから。父なる神は私たちを「予め知る」方であり、それだけではなく、私たちを「予め選び」、「予め愛してくださった」方でもあります。だから、私たちは明日のことを心配しなくてもいいんですね。神がなぜ、そのように私たちを選び、愛してくださったのかは、私たちには分かりませんが、その目的は三つ、次の3~5節に書かれています。
まず、一つ目は

『イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせ、生ける望みを持たせてくださいました』(3節)。

つまり、私たちに復活の希望を与えるためです。そして、二つ目は

『朽ちることも、汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました』(4節)。

そして、三つ目は

『終わりの時に現わされるように用意されている救いをいただくのです』(5節)。

しかし、そのように復活の希望があり、消えて行くこともない資産や救いが用意されていたとしても、今の私たちの現実はどうでしょうか?決してバラ色とは言えないですよね。

『そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。今しばらくの間、様々な試練の中で悲しまなければならないのですが、試練で試されたあなたがたの信仰は、火で精錬されてもなお朽ちていく金よりも高価であり、イエス・キリストが現れるとき、称賛と栄光と誉れをもたらします』(Ⅰペテロ1:6~7)。

3.新しい過去

ここでペテロが言っている試練とは、信仰のゆえの試練。つまり神のみこころに従ったがゆえに受ける試練ということですが、私は今年で60歳になりましたが、過去の自分の歩みを振り返ってみて、その試練と思えることのほとんどは、そんな立派なことではなく、自分の愚かさと言うか、罪深さゆえに遭った試練であったなと思わされています。ただ、そんな自分であっても、神様は、みことばを通して、また色々な人との出会いを通して、支え励まし導いてくださったなぁと。今、現在もそうなんですが、本当にそのように思わされています。
先日も、読売新聞の夕刊に「ハレルヤ!西成 メダデ物語」という記事が連載されていました。今回で三度目の連載です。西成区にある「愛があふれる」という意味のメダデ教会の西田好子牧師と、様々な重い過去を背負った訳ありの信徒たちの物語なんですが、今回の記事で一番心に残ったのは、西田牧師の次のようなことばでした。
「私かて過ち、失敗、後悔、山ほどある。でも振り返ってばっかりやったら、ペチャンコになってまう。だから毎日、ド真剣に生きてるんや。」
担当した記者の方は、次のように書いておられました。
「西田の考える贖罪は、「過去」を反省し続けることとは、違う。「今」できることを全力でやる。その積み重ねが「未来」となり、やがて「新しい過去」となる。」
この、「今」できることを全力でやる。その積み重ねが「未来」となり、やがて「新しい過去」となる、ということばが、心にズシーンと響きました。

<結論>

今日のみことばの最後は、ペテロの励ましのことばだと受け止めています。

『あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに踊っています。あなたがたが、信仰の結果であるたましいの救いを得ているからです』(Ⅰペテロ1:6~9)。

この「たましいの救い」ということを私たちのことばで説明するのは本当に難しいことですが、最後の『得ているからです』と訳されているギリシア語は、「約束を受ける」という意味の動詞の現在分詞の形で、単に過去や未来のことではなく、すでに今、受けつつある、その過程にあるという意味になります(つまり現在進行中であり未完了ということ)。ですから、別の訳では、「(あなたがたは)信仰の目的であるたましいの救いを手に入れつつあるのです」と訳されていました。今回の説教で、「たましいの救い」とは何かということを考えてきたんですが、私たちは、イエス様の十字架によって、すでに、完全に、すべての罪が赦され、新しいいのちに生きる者とされました。しかし、それと同時に、今もなお、現在進行中であり、未完了の者でもあります。だから、今をド真剣に生きる。今、できることを全力でやる。それが、たましいの救いを得ている、手に入れつつあるということなのかなぁ、と思わされました。

メッセージ内容のダウンロード(PDF103KB)

新聖歌

開会祈祷後:24番、メッセージ後:366番

聖書交読

詩編 28篇1~9節

2020年教会行事

7月8日(水)オリーブ・いきいき百歳体操
7月1日(水)から感染予防対策を講じつつ、再開しました。

#52-2718

One comment to this article

  1. mb-senri_web

    on 2020年7月4日 at 11:00 PM -

    メッセージ原稿中にリンクした「ハレルヤ!西成 メダデ物語」は、
    読売新聞オンラインの有料会員限定記事になっているため、
    ご覧になれない場合があります。何とぞご了承ください。