苦しみを喜びとして

メッセージ

<コロサイ人への手紙 1章15~24節>
メッセージ:牧師:砂山 智

開会聖句

今、私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています。私は、キリストのからだ、すなわち教会のために、自分の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。

<コロサイ人への手紙 1章24節>

メッセージ内容

Youtube動画

 
 メッセージ動画公開:12/5 PM 10:15 


メッセージ原稿を公開しました。家庭での礼拝に用いてください。 
 
<序論>  

・今朝の「コロサイ人への手紙」は先週の「ピレモンへの手紙」と同じく、パウロの獄中書簡の一です。パウロたちは、第三次伝道旅行の際にエペソを拠点として伝道しましたが、コロサイはエペソの東方約160kmにあった町で、7節にあるように、その教会はパウロの同労者であるエパフラスの働きによってできた教会でした。しかし、パウロたちが去った後、そこに偽りの教え(異端)が入ってきて、教会の中に混乱と対立が起こったんですね。その背景にはギリシア的な二元論があったようです。それは例えば、霊は善なる存在だけれども、肉(物質)は悪であるというような考え方(哲学)です。今朝の箇所では、特に「キリスト論」という、イエス・キリストとはどういう方であったかということが論じられていますが、それは、当時のコロサイの教会に、イエス・キリストについての見方に混乱があったからです。例えば、イエス・キリストは、この地上で肉体を持った人間として歩まれたのではなく、肉体を持たない霊のような存在として歩まれたのだと言う人が現れたり、或は、人間は汚れた肉体を持っているので、直接、神と交わることはできない。神と交わるためには御使い(天使)の仲介が必要だと考え、その御使いを礼拝する人まで現れたんです。

<本論>
1、御子は見えない神のかたち

神学に「受肉」という用語(概念)があります。その意味は

『ことばは人となって、私たちの間に住まわれた』(ヨハネ1:14a)。

イエス・キリストは神のひとり子であるにもかかわらず、肉体をとって私たちと同じ人間となられたということです。ですから、もちろん、イエス様は、霊のような方ではなかったんですね。ただ、これは言わば、私たち人間の理解を超えたことでもありますので、パウロの時代だけでなく、今日に至るまで、イエス様に対する様々な見方は存在し続けています。例えば、現代の代表的な異端の一つ「エホバの証人」では、キリストは神ではなく人間であって、ただし最高の人間であったとされています。「エホバの証人」ではないんですが、私は、クリスチャンになって間もない高校生の頃、「わが子キリスト」(武田泰淳著)という小説を読んで、「そんな見方もできるんだ」と思わされた記憶があるんですが、その小説では、キリストの実の父親はローマの軍人であったとされていました。その方が小説的にはリアリティ(説得力)があって面白いからだと思うんですが・・・。
しかし、パウロは、今朝の「コロサイ人への手紙」の中で、キリストは

『見えない神のかたち(である)』(コロサイ1:15)

と言っています。そして、使徒ヨハネも次のように証言しています。

『いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである』(ヨハネ1:18)。

イエス様ご自身も、弟子のピリポから、「主よ、私たちに父を見せてください。そうすれば満足します」と言われて、「ピリポ、こんなに長い間、あなたがたと一緒にいるのに、わたしを知らないのですか。わたしを見た人は、父を見たのです」と答えられました(ヨハネ14:8,9)。ですから、「受肉」とは、私たちと同じような生身の人間として生きてくださったイエス・キリストというお方を通して、私たちの目には見えない神をより深く知るためであったということですね。そして、もう一つ、「受肉」には大切な意味があります。それは、「へブル人への手紙」に書かれてあるみことばの通りです。

『私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです』(へブル4:15)。

イエス様は私たちと同じようになってくださった。それは、弱い私たちの悩みや苦しみに寄り添ってくださるためだったのです。

2、御子は教会のかしら

さて、「コロサイ」に戻りましょう。16節からもう一度ご覧ください。イエス様こそ、この世界を造られた方であり、今も世界を支配しておられる方であると述べられています。「三位一体」ということばを皆さんもご存じかと思います。このことばは聖書には出てこないんですが、先程、お話しした「受肉」と同じく、神学用語の一つです。その意味は、唯一の神が父・子・聖霊という三つの姿となって現れたということです。それぞれ位格(ペルソナ)を持ちながら、本質的には全く同一である。ただし、その三つの中で御子イエス・キリストについてだけ、聖書が繰り返し証言していることがあります。それは、今朝の

18節にあった『御子はそのからだである教会のかしら』

であるということです。
「コロサイ人への手紙」と同時期に書かれたと考えられている「エペソ人への手紙」にも同じようなみことばがあります。

『教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです』(エペソ1:23)。

「教会」というのは、元々は、新約聖書のギリシア語「エクレーシア(召集する・召しだされた)」を日本語に訳したものです。「マタイの福音書」16章で、ペテロから「あなたは生ける神の子キリストです」という信仰告白を受け、イエス様は「あなたはペテロです。わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます」(マタイ16:18)と言われました。この岩とは、ペテロ自身のことではなく、その信仰告白のことです。ですから、教会とは、ただ、イエスをキリスト(救い主)であると告白する人たちの群れであるわけです。パウロはそれを、「使徒の働き」にあるエペソ教会の長老たちへの決別説教の中で、

『神がご自分の血をもって買い取られた神の教会』(使徒20:28)

と言い表しました。私たちが救われたのは神が選んでくださったからなんですが、同時に、神への応答の大切さも思わされます。

<結論>

そして現実には、この地上に、素晴らしい主の愛に溢れた教会は存在しても、今朝のコロサイ教会がそうであったように、完璧な教会というものは存在しません。それは、最後の部分、23節、24節を読めば分かります。

『ただし、あなたがたは信仰に土台を据え、堅く立ち、聞いている福音の望みから外れることなく、信仰にとどまらなければなりません。この福音は、天の下のすべての造られたものに宣べ伝えられており、私パウロはそれに仕える者となりました。今、私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています。私は、キリストのからだ、すなわち教会のために、自分の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです』(コロサイ1:23~24)。

このみことばにある

『キリストの苦しみの欠けたところ』

とは、どういう意味なのでしょうか?これは、かつてキリストがこの地上で受けてくださった苦しみ、あの十字架上での苦しみに、何か欠けや不完全な点があったということなのでしょうか?いいえ、決してそういうことではありません。ここでパウロが言うところの『キリストの苦しみの欠けたところ』とは、当時のコロサイ教会の中にあった問題。つまり、様々な偽りの教えに振り回され、その結果、一つになることができない。本来、キリストのからだとしてお互いが助け合わなければならない教会が、対立しあい、引き裂かれてしまったような状態にあるということですね。パウロは、そんなコロサイ教会のことを想い、苦しんでいるのです。しかし、それと同時に彼はこの苦しみを喜びとしているとも言っています。これはパウロの強がりでしょうか?いいえ、パウロにとって、教会のために苦しむことは、即ちキリストとともに苦しむことであり、キリストとともに苦しむことは、ただ苦しみで終わるのではない、復活の喜びにつながるということを知っていたからです。
今年の礼拝もあと今週と来週だけとなりました。私のご奉仕は今日が最終です。皆さんにとって今年はどんな一年だったでしょうか?私たちの教会も、コロナのために苦しみを味わいましたが、神は、それゆえの恵みも味あわせてくださったのではないでしょうか。今朝の説教の最後は私の大好きなみことばで締め括らせていただきます。

『光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった』(ヨハネ1:5)。

メッセージ内容のダウンロード(PDF93KB)

新聖歌

開会祈祷後:76番、メッセージ後:82番

聖書交読

詩編84篇 1~12節

2021年教会行事

12月22日(水)オリーブ・いきいき百歳体操(10 時~11時)

#53-2795

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