神の愛のうちに

メッセージ

<ヨハネの福音書 21章15~19節>
メッセージ:牧師:砂山 智

開会聖句

私たちは自分たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにとどまる人は神のうちにとどまり、神もその人のうちにとどまっておられます。

<ヨハネの手紙 第一 4章16節>

メッセージ内容

Youtube動画

 
 メッセージ動画公開:4/10 PM 1:39 


メッセージ原稿を公開しました。家庭での礼拝に用いてください。 
 
<序論>  

・先週は一週早くイースター礼拝をお献げしましたが、今日4月17日が今年の本当のイースターです。改めて、イースター、おめでとうございます。今朝のテキストは「ヨハネの福音書」の最終章の21章からです。私は、いつもこの21章を読むと不思議な気分になるんです。何か心地よい余韻に浸っているような、とでも言いますか・・・。この21章は、後世になって書き加えられたのではないかと言われていますが、とても深い霊的な示唆を与えてくれる章ではないかと思います。今朝は、「神の愛のうちに」と題して、皆さんと一緒にみことばに耳を傾けたいと願っています。

<本論>
1、わたしの子羊を飼いなさい

ここには、ペテロの心に永久に刻みつけられたであろう一つの情景があります。まず、イエス様がペテロにされた質問に注目しましょう。15節。

「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たちが愛する以上に、わたしを愛していますか」(ヨハネ21:15)。

イエス様は、「ペテロ」とは呼ばないで「ヨハネの子シモン」と呼びかけられました。「ペテロ」とは「岩」という意味で、かつてイエス様ご自身が彼につけられた名前でした(1:42)。けれども、まだ、この時点までは、彼は本当の意味で、その名に相応しい人物とは言えなかったのかもしれません。イエス様は、この質問をペテロに投げかけられた時、他の弟子たちの方を見ながら言われたのではないでしょうか。それは、あの夜のペテロのことばを思い出されて、と言ってもいいかもしれません。「マタイの福音書」26章33節を見てみましょう。あの夜、ペテロは次のように言ったのです。

『すると、ペテロがイエスに答えた。「たとえ皆があなたにつまずいても、私は決してつまずきません。」』(マタイ26:33)。

ペテロにとって、この記憶は、トラウマと言うか、痛恨の記憶となったでしょう。だからだと思いますが、彼はイエス様からの質問に答えるにあたって、もう自分を他の弟子たちと比べるようなことは一切言いませんでした。否、言えなかったのだと思います。彼は、「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答えるだけで精一杯だったのでしょう。
この箇所で、原典のギリシア語には微妙な違いがあるんですが、それは、イエス様の言われた「愛」は「アガパオー(神の愛)」で、ペテロが答えた「愛」は「フィレオー(友愛)」という。新改訳聖書では、それぞれに※印がつけられ、脚注で紹介されています。何か意味深なんですが、それなのに、注解書には、ヨハネはこの福音書で二つのことばを同義的に使っていることが多いので、余りその違いを気にする必要はないと書かれていました。正直、どうなのかなと思うのですが、そんな使われていることばの違いは別にしましても、私は、この場面でのイエス様とペテロとのやり取りを読むと、どうしても二人の愛の違いというものを思わされるんです。イエス様が私たちに求めておられる愛は、「アガパオー」、神の愛だけれども、私たちがお返しできるのは、どこまでいっても、「フィレオー」、人間の愛だという。それは仕方のないことではあるんですが、それと同時に、私たちは、仕方がないとがっかりする前に、忘れてはならない大切なことがあると思うんです。昨年、ある牧師からいただいたクリスマスカードに書いてあったことばが、とても気になったと言うか、心に残ったんですが、それは、「自分を大切にする。そのことに向き合った一年でした」ということばでした。私は、そのことばを読んで、「自分は神に愛されている。そのことに向き合った一年でした」と言っておられるように感じたんです。今朝のペテロも、自分の愛の無さにがっかりする前に、まずイエス様の愛に気づかされたと言うか、向き合わされたと思うんですね。開会聖句と同じ「ヨハネの手紙第一」の4章10節には次のように書かれています。

『私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです』(Ⅰヨハネ4:10)。

私たちが戻って来る場所、そして、また出発する場所は、いつもそこからだと思います。

2、愛がペテロにもたらしたもの

それでは次に、今朝の箇所でイエス様からいただいた愛は、ペテロに何をもたらしたのか?そのことについて考えてみたいと思うのですが、それは二つあると思います。
まず一つは、ペテロはイエス様の愛によって、大切な職務と言うか、使命を与えられた。イエス様は、「もし、あなたがわたしを愛しているなら、わたしの羊を牧するためにあなたの生涯を献げなさい」とペテロに言われたのです。それは逆に言えば、兄弟姉妹を愛することによって、あなたはわたしを、神を愛しているということを証しすることができるのだ、ということではないでしょうか。神を愛することと、兄弟姉妹を愛することとは、不可分であり、同じことなんです。
そして、イエス様の愛がペテロにもたらしたもう一つのもの。それは十字架でした。18節をもう一度ご覧ください。

『まことに、まことに、あなたに言います。あなたは若いときには、自分で帯をして、自分の望むところを歩きました。しかし年をとると、あなたは両手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をして、望まないところに連れて行きます。」』(ヨハネ21:18)。

伝承によると、ペテロは、この後、何年かしてローマで捕えられ、十字架につけられ殉教したと伝えられています。その時、彼は、逆さに十字架につけてほしいと願ったと伝わっています。彼は、自分はイエス様と同じような方法で死ぬのは忍びない、自分にはそのような資格はない、と考えたのでしょう。真実の愛には、常に責任が伴うだけでなく、犠牲も伴います。イエス様は、

「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」(マタイ16:24)

と言われました。イエス様が言われた十字架とは、何か、その人にとっての運命や宿命のようなものではなくて、自ら選んで背負うものです。もし、私たちに、自分の十字架を負って従う覚悟がないのなら、本当にイエス様を愛しているとは言えないでしょう。

<結論>

今朝のテキストの最後19節には、

『イエスは、ペテロがどのような死に方で神の栄光を現すかを示すために、こう言われたのである』(ヨハネ21:19a)

と書かれていました。神は、死という、私たち人間の世界で最も不幸な出来事においても、ご自身の栄光を現そうと、愛をもって備えてくださる方なのです。今日はイースターで、午後から服部霊園の納骨堂の前で墓前礼拝が行われますが、神の愛のうちに先に天に帰られた方々のことを偲びつつ、私たちにも、いつかその日が来るということを想って、主に栄光を帰したい、と切に願います。

メッセージ内容のダウンロード(PDF87KB)

新聖歌

開会祈祷後:123番、メッセージ後:125番

2022年教会行事

4月20日(水)オリーブ・いきいき百歳体操(10時~11時)

#54-2812

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