イエスさまの涙と憤り

メッセージ

<ヨハネの福音書 11章28~46節>
信徒:K

開会聖句

それは、死の力を持つ者、すなわち、悪魔をご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖によって一生涯奴隷としてつながれていた人々を解放するためでした。

<へブル人への手紙 2章14後半~15節>

メッセージ内容

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 メッセージ原稿を公開しました。 
 

<はじめに>  
・先月からラザロの復活を読んでいます。いつも?と思うところに注目していくのですが、今日は「ラザロ復活三つめの?」です。初めは、なんでイエスさまは「ラザロの病気」の知らせに急いで駆けつけなかったのという疑問でした。二回目は、なんでイエスさまはマルタとマリヤに違った対応をされたのという疑問。今日は、なんでイエスさまはそんなに感情的になっておられるの?という話です。タイトルにあるように、イエスさまは身内のマルタとマリヤ以上にラザロの死に泣いて怒っています。今日の主題は「なんでイエスさまそんなに憤っているの?」

<本論>
Ⅰ.イエスは、愛する人たちを悲しませる死の力に対して憤られた

イエスさまは、ラザロの病気の知らせを聞いて、すぐには駆けつけず、二日間その場にとどまられました。ベタニヤに着いたのはラザロが墓に入れられて四日も経ってから。イエスさまは先に姉のマルタに会われ、自分が何者で、何をしようとしているかを話された後、次に妹のマリヤを呼ばれました。それが28節です。マリヤはマルタと違い、イエスさまを見て一言「主よ、もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」と言ったきり、後は涙、涙です。イエスさまはマルタとは冷静に話されておられたのですが、泣いているマリアと慰めに来ているユダヤ人たちを見て、心が揺さぶられました。 33~38節を読みますと、

「霊に憤りを覚え、心を騒がせて」(33)、「イエスは涙を流された」(35)、「イエスは再び心のうちに憤りを覚えながら」(38)

と、イエスさまが泣かれただけでなく、非常に憤っておられたと記されています。人はあまりにも悲しみが強い場合や理不尽と思える死や出来事に出会ったとき、悲しみだけでなく嘆いたり、憤ったりします。ショックで感情を失うこともあるそうです。
ギリシャ語の「憤る」ということばは、「怒りに唸る」という意味で、無条件に怒り狂っている、怒りに打ち震え唸っているという、強い怒りを表わします。33節も38節も、イエスさまが怒りに掻き乱されているような様子が伝わってきますが、なぜこれほどまでに憤られたかの理由に対して、二つの伝統的解釈があります。 一つは人々の不信仰への怒りという意見。他の福音書によると、イエスさまは時々弟子の不信仰を嘆かれたり、郷里の人々の不信仰にがっかりし、少しのわざしか行われなかったことがあったようです。ヨハネでも、イエスさまはすでに多くのわざを人々に見せてこられました。なのに、なぜ神が遣わしたこのわたしを信じ、その力に期待しないのかと、泣いている人たちに怒っているというのです。

37節「見えない人の目を開けたこの方も、ラザロが死なないようにすることはできなかったのか。」

これは、イエスさまに批判的な人たちの皮肉ですが、「いいや、できる。なぜわたしの力を信じないのだ。」という風にイエスさまは怒っているという考えですね。 もう一つは友の死に対しての当然の感情だという意見です。

「イエスはマルタとその姉妹マリヤとラザロを愛しておられた。」(5)。

あるとき、イエスさまは自分には枕する所もないと言われました。彼らの家はイエスさまが心を許してくつろぐことのできる数少ない場所であったのでしょう。イエスさまは、

36節「ご覧なさい。どんなにラザロを愛しておられたか。」

という人々の言うとおり、ラザロとの別れを悲しみ、愛する者たちを引き裂く死の残酷さを味わって、泣き怒っておられます。イエスさまは完全な人、泣く者といっしょに泣く人間でした。目の前で死を悲しむ人たちに怒っているとは思えません。イエスさまが憤られたのは、愛する人たちを引き裂き、悲しみをもたらす死の力に対してでしょう。

Ⅱ.イエスは人々を奴隷にしている死の力に対して憤られた

38節から、ラザロ復活の場面です。イエスさまは墓の石を取りのけるように言いましたが、マルタは四日もたっていたので、「もう臭くなっています。」と止めようとしました。しかし、イエスさまは「『信じるなら、神の栄光を見る』と言ったではないか。」と言われ、石は取りのけられました。大声で「ラザロよ、出てきなさい。」と叫ばれると、包帯で巻かれたラザロが出てきました。 イエスさまはすぐに駆けつけませんでしたが、その時から神にずっと祈っておられました。それでラザロの死んだ肉体は腐敗せず、イエスさまによって、いのちが与えられるときを待っていたのです。

「この病気は死で終わるものではなく、神の栄光のためのものです。」(4)

が実現しました。このラザロ復活の知らせを聞いて、ときの大祭司カヤパはイエスさまの死を預言しました(47~53)。彼の考えでは、そんなことをするイエスは、この後騒動の種になりかねないから、ローマに楯突く反逆者としてユダヤ国民全体のために死んでもらうのが得策だったのです。こうして犯罪人として十字架で殺されることになったイエスさまを、神はよみがえらせました。

ラザロの復活は、一度死んだ肉体の復活という一時的で個人的なことにすぎませんが、イエスさまの復活はそうではありません。神が人類を救うという救済の計画実行でした。開会聖句を14節から読みます。

へブル2:14~15「そういうわけで、子たちがみな血と肉を持っているので、イエスもまた同じように、それらのものをお持ちになりました。それは、死の力を持つ者、すなわち、悪魔をご自分の死によって、滅ばし、死の恐怖によって一生涯奴隷としてつながれていた人々を解放するためでした。」

ここには、イエスさまが受肉された理由は、私たちと同じ人間になり、ご自分の十字架の死によって、死の力を持つ悪魔を滅ぼし、一生涯奴隷であった私たちを解放するためだとあります。果たして自分が奴隷であると思っている人はいるでしょうか。2週間前にILO国際労働機関が、現代の奴隷は5千万と発表しました。昔の奴隷制度はなくなりましたが、奴隷状態にいる人はいます。また、耐えがたい状況で、そう思う人もいるかと思います。でも「死の力を持つ者によって一生涯奴隷としてつながれている」などとは誰も思ってないでしょう。人は聖書を読んで、はじめて自分の姿に気づきます。どんなに勉強しても、どんなに難しい本を読んでも知ることはできません。聖霊によって、心の目が開かれるまで、私たちは自分が神から離れて奴隷としてつながれているとは思いません。息子が3つぐらいの時に迷子になったことがありました。小さな店で私がレジで並んでいるわずかな隙に、視界から消えました。見つけたのは、百メートル程先のマンション下でした。彼は母親はそばにいると思ってたようで、何事?の顔をしていました。彼は自分が迷子で私に捜されていたことに気づいてなかったのです。彼が迷子だったことを知るのは親の私だけでした。

まことの父である神だけが私たちの現状を知っておられます。イエスさまはラザロの死に直面し、人を奴隷状態にしている死の力に怒られたのです。神の怒りを「義憤」と言います。人の場合は

「怒っても、罪を犯してはなりません。憤ったままで日が暮れるようであってはいけません。」(エペソ4:26)

と、早期解決が促されてますが、神の憤りは正しく、その裏側にあるのは私たちへの憐れみです。表と裏の関係。死への憤りは人への愛のゆえ。この強い憤りと深い憐れみの心が、イエスさまを十字架に向かわせました。ヨハネだけの記事ですが、神であり人であるイエスさまだからこそ、私たちの知らない死の姿を知っておられたのでしょう。イエスさまの強い憤りは、死の悲しみと人を不幸にする恐ろしさに対してなのだと思いました。

<終りに>

十字架の死と復活によって、死は力を失ったはずですが、この世はよくなったようには見えません。パウロ曰く、

「来臨のときが来たら、イエスさまがあらゆる支配、権威、権力、そして最後に最大の敵である死を滅ぼされる。」(Ⅰコリ15章)

なのです。すでに、死の力は骨抜きになったとは言え、いまだ、しぶとく地上で猛威を振るいます。この世の支配、権威、権力が結びつき、社会構造は格差をひろげ、人々が苦しめられているのを見ます。あちこちで争いが起こり、災害も重なります。神さまどうなっているの?と言いたくなります。 こういう文章が目にとまりました。

「…今の時代、自然災害、疫病、紛争、そして戦争と、私たちの生きているわずかな数年の間でさえ、大きく変化したことを感じます。横を見れば、不安や悲しみ、痛みに心がなえてしまいそうになりますが、しかし、人類の歴史を統治される方を見上げるとき、世界のあちこちで、主を礼拝する主の民が、人の悲しみや痛みに寄り添い、奉仕し、手を置いて祈る姿があることも事実です。」(浜名宣教師夫妻を支える会世話人)

一般のテレビや新聞のニュースではわかりませんが、今、神の民は地球全体に増え広がって、あちこちで、人と人が支え合う働きが続けられていることが、送られてくるレターで知ることができます。

神さまは、天でみこころが行われるように、地でも行われることを願われます。みこころは人が支え合って共に生きることで、死の奴隷から解放された神の子を通して、その働きをなさいます。私たちの日常の日々も、その神の大きな働きに参加していることだと覚え、新しい週を歩んでいきたいと思います。

メッセージ内容のダウンロード(PDF191KB)

新聖歌

開会祈祷後:102番、メッセージ後:382番

聖書交読

詩編117篇 1~2節

2022年教会行事

9月28日(水)オリーブいきいき百歳体操(10時~11時)

#54-2835

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